闇を泳ぐ

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第三章 たった一人の大切な人

―メイ―①

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 春――。桜は散って、木々は新緑で輝き始めてている。見上げた空は透き通るように青くて、眩しさのあまり目を細めた。自転車に乗っていると、気持ちの良い風が髪をなびかせる。身体に当たる春の風は、穏やかで優しい。

 真新しい制服がほんの少しだけ馴染んで、首元に結んだネクタイもきつく感じたりはしなくなった。

 私は、この春、高校に入学した。

「お兄ちゃん!」

JR八王子駅近くの駐輪場に自転車を止めて駅へ向かおうとすると、何故かそこに兄がいた。

「改札で待ち合わせだったのに、どうして?」
「メイが自転車で来るの分かってたし。ちょうどここ、通り道でもあったしな」

二十歳になったばかりの兄が、柔らかな笑みを見せる。そんな風に微笑まれてしまうと、何と言葉を返したらいいのか分からない。日に日に兄の姿にドキドキとしてしまう自分が、少し厄介になりつつある。

「何か食べたい物あるか? 今日はメイの高校入学祝いだし、なんでもごちそうする」

既に隣に立つ兄が優しく私を見下ろして来る。

この笑顔は、何度見ても慣れないな――。

兄がこの街で暮らすようになって、二年と少し。会う回数も以前とは比べ物にならないほど増えたのに、慣れるどころか緊張してしまうのって、一体どういうことなんだろう。それは、最近の悩みでもある。


「こんなもので良かったのか? 俺を少しみくびり過ぎだ。これでもちゃんと給料もらってんだぞ?」

駅近くのファストフード店で、向かいに座る兄が不服そうに私の顔を見る。

「そんなの分かってるよ。でも、高いお店なんて緊張しちゃうだけで落ち着かないし、ここの方がいい」

兄は八王子市内の工場で期間工として働き、その寮に住んでいる。三十六か月契約とかで、その期間はそこで働き暮らすことが出来るらしい。

「せめて、ファミレスとか……」

まだぶつぶつと言っている兄の横顔に、つい笑ってしまう。

「お兄ちゃんがちゃんと働いてお給料もらっていることは分かってますよー」
「分かってないだろ……?」

冗談を言い合うように話していたはずが、兄のその目は真剣なものに変わっていた。その目につられて、笑っていたはずの私の顔からも笑みが消える。

「分かってないから、俺とは暮らさないなんて言うんだよ」
「また、その話……」

私が中学を卒業するにあたり、兄に「一緒に暮らそう」と言われていた。でも、私はそれを断った。

「確かに俺は正社員じゃない。でも、契約期間が続いている間はまとまった額の給料をもらえる。それに、これまでに貯めて来た金もある。メイが思うほど無理をするわけじゃないんだ」

その説明も、もう何度も聞いた。

「だから、別にお兄ちゃんに迷惑かけないためとか、そういうんじゃない」

手に持っていたハンバーガーを食べながら軽い口調でそう答える。

「今は、あの家の暮らしも前ほどひどくないし、高校への交通の便もいいし。無理にあの家から出なくてもいいかなって思ってるだけ」

それは、嘘ではない。一年前、結が高校生になってから、私の生活がかなりマシになったのは本当だ。
    まず、学校に結がいない。そして、結が高校生になってから、初めて彼氏が出来たとかでほとんど家にいることもない。夜遅く寝に帰って来るような生活だ。結は、高校生になって明らかに派手な生活を送っていた。高校に入って、はじけてしまった女子の典型みたいなものだ。
 そして、圭太は――。兄に、圭太のことを詳しく話しているわけではない。むしろ、圭太の話題はしないようにしている。おそらく圭太とのことが、兄を一番心配させる要因になるからだ。
 私があまりに圭太に警戒心をあらわにしていたからか、圭太が不気味に近付いて来ることはなくなっている。それでもちゃんと、家の中では細心の注意を払っていた。
 これも、兄には内緒だけれど、常に護身用にカッターをポケットに忍ばせている。実際それで切り付けることまでしなくても、脅しくらいにはなるだろう。今のところ、そのカッターを使ったことはない。圭太も、あの狭い家でおかしなことをする勇気はないらしい。

「そんなの、答えになっていない」

兄はまだ納得してくれていなかった。

私って、嘘つくの下手なのかな――。

兄が、働きながら高卒認定試験の勉強をしていることを知っている。いずれ夜間にでも大学に通いたいと思っていることも。だから、今兄が働いて得ている給料はそのために使ってほしいと思っている。
 あの家から追い出されるなんてことがある日までは、私は私で兄の世話にならずにいたい。
 兄が本当は優秀だったってことを知っている。
 二年前のあの日、兄が叔母の家を出て高校を辞めたと知った時は、ショックだった。詳しい事情は教えてくれなかったけれど、どうして兄のような人が高校を辞めなくてはならないのかと、自分のことのように悔しかった。

「お兄ちゃんはいろいろ考え過ぎなんだと思う。そんなんじゃ、禿げちゃうよ」
「ったく、おまえって奴は……。まあいい。俺はまだ諦めたわけじゃないからな」

やっとこの話を終わりにしてくれるらしい。そのことに、心からホッとする。

「それでだけど、来月、メイの誕生日だよな? その日空けとけよ」
「誕生日って、来週だよね? また会うの?」

本当は、飛び上がるほど嬉しい。

「なんだよ、その言い方。兄貴との約束なんかより、もう友達と会う方がいいのか?」

二十歳の大人なのに、子供のように拗ねた兄の表情が、なんだか可愛い。

「友達とは限らないでしょ? 私だってもう高校生だし」

兄との約束より優先したい人なんて私にはいない。それでも、そんなことを言って兄を試してみたくなる。試したくなる理由は分からない。

「男か? まあ、それなら兄貴の出る幕じゃないな」

顔色一つ変えない。兄は兄のままだった。そのことに、何故か痛みを覚える。

「仕方ないから、私にくらいしか会う人のいないお兄ちゃんのためにその日あけとくよ」

その痛みを隠すように笑ってみせた。

「偉そうに……」

そう言いながらも、兄の顏は嬉しそうだ。

また今年も誕生日を兄が祝ってくれる――。

私がこんな風に明るくなれたのは、私の暮らす環境が変わったからだけじゃない。兄が、私のそばにいてくれるようになったから。会いたいと思う時に会えるようになったからだ。多少の辛さも耐えられる。我慢だってできた。

 だからだったのか。少し、気が緩んでしまっていたからか。兄と会えることにばかり気を取られて、見えなくなっていたのか。ここ最近穏やかに暮らせていたからと油断して浮かれていた私に、罰がくだったのだろうか。

おまえにはそんな生活似合わない、とでも言うようにーー。


私の誕生日。その日に、酷い悪夢が私を襲った。


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