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第三章 たった一人の大切な人
―春彦―⑥
しおりを挟む初めて二人で迎えた朝、自分の部屋を出てダイニングに足を踏み入れると、長い髪を一つにまとめ制服を着たメイの姿があった。
「早いな」
台所で何かをしていたメイがこちらを振り向いた。
「ああ、お兄ちゃん。おはよう」
「何、やってんだ?」
まだ、六時半だ。ここからメイの高校までは自転車で二十分弱。部活には入っていないから、朝練があるわけでもない。不思議に思って、メイの傍へと行き覗き込んだ。
「お弁当、作ってる。どうせ私の分、作らなくちゃいけないからお兄ちゃんの分もね」
そう言えば、制服の白いシャツの上にエプロンをしている。
「俺の分まで作るの大変じゃないか? 俺は、工場の食堂があるし、気にしてなくても――」
「もしかして、食堂で食べる方が良かった? 工場では工場の、いろいろ決まりとかあるよね。何も聞かずに勝手にごめん……」
メイの表情から笑みが消え、慌てる。
「違う違う。そういう意味じゃなくて。もちろん、おまえが作ってくれるならありがたいよ」
メイが何か勘違いし始めたので、咄嗟にそう言う。メイが作ってくれるのなら食事代が浮くし、それはそれで助かる。
「なら、よかった。じゃあ、これからは毎日作るから」
メイは安心したように手元の包丁に視線を戻し、再び調理に取り掛かっていた。その手元を見ても、やり慣れているように見えた。手早く動く包丁の傍には均等に切られた野菜が積まれて行く。
八時から勤務開始の俺は、七時二十分にアパートを出た。ここから、俺も自転車で工場へと向かう。ペダルを漕ぐ速度を上げ、前方を見つめた。次第に身体を撫でる風が強くなる。
『行ってらっしゃい』
そう言って送り出してくれたメイの笑顔がふと浮かんだ。
五時の定時に仕事を終えると、一目散で家へと戻った。七時には、次の仕事のために家を出なければならないからだ。その間にメイと一緒に夕食を取ることになっている。
「ただいま」
「おかえり。今、ご飯作ってるからね」
少し勢いよく玄関のドアを開けると、玄関のすぐ脇にある台所からメイの声だけがした。スニーカーを両足で脱ぎ、家の中へと上がるとすぐにメイの姿が視界に入る。
「……メイ?」
言葉を失った。こちらを向かずに料理をしたままのメイの横顔が見える。忙しなく手を動かしたままのメイとは裏腹に、俺はただそこで固まる。その横顔は、この日の朝見たものとは違う姿になっていた。
「メイ、どうしたんだ?」
それでもこちらを向こうとしない。
「何が?」
「何がって、髪だよ。何で……」
綺麗なストレートの黒髪は、跡形もなくなっていた。やっとその手を止め、こちらを向いたメイは、まるで男の子のように短い髪になっていた。
「ああ。長いし鬱陶しいから切っちゃった」
何でもないことのように言うから、余計に俺の心が何かを感じる。
「鬱陶しいって……。それにしたって、そんなにいきなり切るって……」
兄の俺から見ても、メイはとても綺麗な子だ。女性らしいストレートの黒髪に、すずしげな顔立ちの大人びた雰囲気。それが、目の前のメイは、女の子らしさをすべて排除してしまったかのような、ところどころが不揃いの短すぎる髪になっていた。まるで少年のようだった。
「似合わないって言いたいんでしょ? 別に、お兄ちゃんに可愛いって言ってもらわなくてもいいしね」
女の子らしさをすべて排除してしまったかのような、少年のような――。
髪を切った理由は……。
「切ってみたら、こんなに軽くて楽なんだって知ったよ。髪洗うのも楽そう――」
「メイっ」
一人笑うメイの真正面に立ち、その肩を掴もうとしたけれど咄嗟に手を止めた。その目をじっと見つめる。でも、何も言葉にすることが出来なかった。
――男の目が怖いのか?
――乱暴されて、女である自分を捨てたくなったのか?
そのどれも口に出来ない。
そんなことを聞いて何になるという?
目の前のメイは、俺の前でさえ何でもないように振舞って、強がって。それで自分を支えているのかもしれない。
「お兄ちゃん……?」
メイの目が気まずそうに揺れている。メイは、いろんなことをその心の奥に飲み込んで、俺の前で笑っている。
そう、”いろんなこと”を……。
それが、どれだけメイにとって苦しいことか。メイの傷がどれだけ深いのか、俺に知らしめる。それでも、俺はその傷に触れてやることは出来ない。
「……おまえさ、切るならちゃんと美容院行って来い。左右違ってるし、ところどろこ飛び出てる」
むりやりに笑顔を作った。
「自分で切ったってバレちゃった?」
その不安に揺れた表情をホッとさせ、メイが再び笑った。
「あたりまえだろ。鏡見たのか?」
そんなに酷いかな、とメイが慌てて洗面所へと駆け込んだ。その背中に目をやる。寂しさと、チクチクと胸を刺すような痛みで思わず顔が歪む。俺は、遠回しにしかメイを甘やかしてやれない。
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