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第三章 たった一人の大切な人
―春彦―⑨
しおりを挟むこの日の現場での仕事を終え、家にたどり着いた時には時計は三時を回っていた。
十二月の深夜は身を切るように寒い。特に、東京とは言えこの八王子という地域は、東京都心より一、二度気温が低い。身体を縮こまらせながらそっとアパートのドアの鍵を開ける。玄関ドアの脇にある小窓からは明かりが漏れていた。
夜はちゃんと寝ていろって、いつも言っているのに――。
ふっと溜息をつく。そして、心の中にある不要な感情はすべて押し流し、ドアノブを回した。
「メイ、こんな時間まで起きてるな――」
そう声を発してすぐに、ダイニングテーブルに突っ伏しているメイの姿が目に入った。ノートや参考書を広げたその上に顔を横にして、寝息を立てている。
「まったく……。こんなところで寝て、風邪ひくだろ」
起こさないようにそっとメイの傍へと近付く。テーブルの上を覗き込んでみれば、メイの顔の下にあるノートに途中になっている数式が書いてあった。その傍にシャープペンシルが転がっていたので、睡魔に負けてそのまま寝てしまったのだろう。
あれだけ、大学には行かないと喚いていたけれど、やっとやる気になってくれたんだな……。
メイは、『絶対に大学には行かない。高校を卒業したら就職する』と言って頑として反抗してきた。でも、俺としてはどうしてもメイを大学に行かせたかった。親が貧困層だとその連鎖でどうしてもその子供も同じような生活レベルの人生を送ることになる。でも、メイにはその負の連鎖を断ち切らせたかった。普通の家の子のように、きちんと大学を出てきちんとしたところに就職をして、きちんとした結婚相手を見つけて真っ当な家庭を築く。自分たちのような生活から抜け出させたい。そのために、俺は今、こうして無理をしてまで働いているようなものだ。
『大学を出た人みんなが幸せになるわけではない』
メイがそう反論した。それは分かっている。でも、何も持っていない人間が這い上がるのは想像以上に難しい。俺は身をもってそれを肌で感じている。だから、出来る限りのことをメイにしてやりたかった。
家の中にも関わらず、冷え冷えとしている。ストーブの電源は切れていて、その熱の余韻すら感じられなかった。
光熱費のことを考えて、最小限に抑えたのだろう。寝ているはずのメイが肩をぶるっと震わせた。
「メイ……?」
目が覚めたのかと思って、そっと覗き込んでもその目は閉じられたままだった。寝ているからと、自分の中のハードルが下がり、おそるおそるその肩に触れる。冷たさと同時に、その肩の薄さを感じて、慌ててその手を引いた。まだ、メイに触れるのには神経を使う。メイを女だと実感しないように、身構える。
このままここで寝かせていては風邪をひいてしまう。
「メイ、ちゃんとベッドで寝ろ」
そう声を掛けても、メイはぴくりとも瞼を動かすことはなかった。
二年前からメイの髪はずっと短いままだ。それでも、その短い髪がさらりと流れ落ちていて耳から首筋のラインを露わにしている。顔にかかる艶やかな髪の隙間から見えるメイの閉じられた目と、長いまつ毛が陰を作り、そのほっそりとした顔を女に見せる。どんなに髪を短くしても、メイの内なる雰囲気を隠すことはできない。
その透明感のある美しさをどんなに隠そうとしたところで、メイは女だ――。
吸い寄せられるようにその首筋に触れようとして、咄嗟に止める。
何を、バカなことを。今日の俺はどうかしている――。
疲れ切った身体で、自分の顔を両手で覆う。きっと、田島が変な話をしたからだ。
「メイ」
もう一度声をかけても目を覚まさないメイは、何か夢でも見ているのだろうか。諦めてメイを部屋へと運ぶことにした。その身体を抱き上げる前に、息を吐いて心を無にする。そして、膝と背中に腕を入れ、メイを抱き上げた。
背の割には軽い身体。それがまた俺の心を刺激するけれど、それには出来るだけ意識を向けないままメイの部屋へと運んだ。一年前に買ったベッドの上の掛け布団をまくり、メイをそっと横たえた。不意に間近にあったメイの顔から慌てて離れる。あれから二年、まだまだこんなにも不自然なままで。
一体いつになったら、何も感じなくなる――?
己の弱さに苛立ちが募った。溜息を一つ吐き、掛け布団をメイの身体に掛けようとそれを手にした。
「……お、お兄ちゃん……」
突然聞こえたメイの声にどきりとする。
「なんだ、起きてたのか……?」
それでもその目が開くことはない。
寝言か――。
ふっと肩から力が抜けるのが分かる。掛け布団をメイの顎のあたりまで掛けて、立ち上がった時だった。
「……お兄ちゃん、お願い」
背後から聞こえたその掠れた声に立ち止まる。
振り向くな――。
何故かもう一人の俺が強く警告してくる。そのメイの声が何を意味しているのかも分からないのに、そう激しく訴えて来る。でも、ダメだと訴えられればられるほど、振り向かずにはいられなかった。
「お願い……、して……」
布団の中で苦しそうに身体を捩っている。薄く開いた口からは、いつもは絶対に聞くことのない甘い吐息がこぼれて。
「もっと、もっと触って……っ」
激しく身体中が脈打つ。
見てはいけない。早くこの部屋から出なければ――。
そう思うのに足が動かない。視線を逸らさなければと思うのに、逸らせない。
「あ……っ、お兄、ちゃんっ」
突然身体を弓なりに反らせたかと思うと、ぐったりとメイは布団に身体を沈めた。いつのまにかはだけた掛け布団から見える、メイのパジャマ越しの胸が小さく上下している。
身体中の血液が逆流するように暴れ出す。ひとりでに身体が動き出し、メイに腕を伸ばしそうになって、寸でのところで自分を引き戻した。
妹の艶夢をのぞきみして――。それだけでなく、またも――。
『……お兄ちゃん』
甘く擦れた声が耳にこびりついて離れない。メイの口から、確かに零れたその言葉に、恐ろしいほどの衝撃を感じているのに。恐怖すら感じているのに、この心の奥底にある別の感情が何より怖い。
メイはこの二年、恋人どころか友達ですら男の影はなかった。それは避けていると言えるほどに。その理由は、男が怖いからなのだと思っていた。
もし、それだけではなかったとしたら……?
メイは、ずっと――。何かに考えが及びそうになって、それも懸命に押し止める。
『もっと、触って――』
そのメイの夢の中の映像が自分にまでも伝染してしまいそうで、俺は逃げるようにメイの部屋から出た。
二年も経つのに。初めて目にしたメイの裸体と、絡めた唇の舌触りとが、メイが見ている夢と勝手に繋がろうとして。触れているわけでもないのに、生々しく蘇って胸をきつく締め上げる。まだドクドクと激しく波打つ心臓を、どうすれば抑えられるのか。情けないほどに途方に暮れて。
すべてを洗い流したくて、全部夢だったと思い込ませたくて、バスルームでまだ温まらない水を頭からかぶった。次第に熱くなる水しぶきを浴びながら、思い知る。これまで、必死に目を背けて来たこと。綱渡りのような危うい均衡のなかで、普通の兄妹を保っていたのだと。
それは、互いの苦しいほどの緊張感を張り巡らせることで成り立つ、ぎりぎりのものだったことを――。
例え、互いにその身体に触れることはなくても、兄妹を完璧に演じきっていても、どこからともなくそれは漏れ出して、いつか沼のように深くなる。
その暗闇のような沼にはまる前に。
遺伝子の誤操作なんて起こす前に。
このままじゃいけない――。
引っ張られてしまいそうな感情と必死に闘いながら決心する。
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