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第四章 たった一人の愛しい人
―メイ―②
しおりを挟む八王子市内にある、東京の公立大学。公立だから、もともと安い授業料が都民だとさらに半額になる。大学に行くなら、ここしかないと思っていた。
本当は、大学になんて行きたくなかった。私も働いて、お兄ちゃんと同じように稼いで、もうお兄ちゃんにも自分の人生を歩いてほしい。そう思っていた。でも、兄は絶対にダメだと言い張った。
JR八王子駅から電車を乗り継いで20分くらいで大学に着いた。一度兄と別れ、講堂の新入生席へと進む。春の陽気が清々しくて、新しい生活の始まりを感じさせた。
『メイも、もう大人になったみたいなもんだろう?』
今朝、兄が言った言葉を思い出す。
そう、いつかは兄から離れなければいけない。でも、まだ、”いつか”にしておきたい――。
講堂に並べられたパイプ椅子を見渡す。学部学科ごとに表示されていた。
経済学部経済学科――。自分の興味や関心で決めたんじゃない。就職するときに一番潰しがきくような気がしたからだ。早く社会人になって、兄を楽させたい。それしか、私にはない。
指定された自分の席を見つけて、腰掛ける。まだ両隣は来ていないようだ。そのことに、いくらかホッとする。
ホッとしたのも束の間、すぐに人の気配がした。思わず見上げると、兄が着ていたようなスーツを着た男子学生が私の隣に座った。条件反射のように身体を逸らせてしまう。
圭太に乱暴された日からもう三年。随分、恐怖心は和らいできていたけれど、やはりまだ近距離に来られると身を強張らせてしまう。高校時代も、男子生徒とはほとんど関わらずに卒業した。自分を女として見られないように、髪もこうしてずっと短くしたままにしている。
それなのに、兄だけは、違う。あの手に触れられたいと、叶わぬ願望を持ってしまう。
その日は、入学式の式典に出た後、自分の所属するクラスが発表されていろいろな手続き書類の説明を受けたら解散となった。本格的に大学生活が始まるのは、次の日かららしい。
式典に出て保護者席に座っていた兄と、大学の正門前で待ち合わせていた。
「お兄ちゃん、ごめん。待たせちゃったよね」
大学の正門から駅へと続く道は、たくさんのビルや店が建ち並ぶ賑やかな通りだ。それを背に佇む兄の姿は、やっぱり私には特別なものだった。すらりとした立ち姿は、そこを通る誰よりも格好良い。同じように入学式に出ていたと思われる女子学生が、そこを通り過ぎる度に兄をちらりと見ているのが分かる。
「ああ、メイ」
俯いていた顔が私に向けられる。そして、いつもの優しい表情。不用意に跳ねる胸を押さえつけ兄の元に駆け寄った。
「じゃあ、行くか。今日は、奮発してやるからな」
「期待してるよ」
この日、兄はわざわざ仕事を休んでいた。入学祝をするのだと、どこかレストランを予約しているらしい。こんな風に兄と外で食事をすることなんてなかったから、どうしても心が浮ついてしまう。
連れて来られた店は、八王子駅近くの少し路地に入ったところにあるカジュアルフレンチのお店だった。こんなお洒落なお店、初めてで少し緊張してしまう。
これじゃ、まるでデートみたい――。
そんなことを思ってしまった自分は私だけの秘密だ。
「メニューは俺が決めるから。おまえに決めさせると一番安いものを頼むに決まってるかなら」
そう言って、向かいに座る兄が早々にメニューを奪い取ってしまった。
大学の入学金や授業料を全部兄が支払った。いくら安いとは言っても、それを兄の若さで賄うことがどれだけ大変なことか分かっている。どうしても遠慮してしまいそうになるけれど、目の前の兄の嬉しそうな顔を見れば、もう何も言えなくなってしまった。
店内の薄暗い照明のせいで、自分までも大人になったような気がした。それに、目の前に座る兄もいつもと違って見える。さっきから、私の胸はうるさいほどに騒いでいる。
「おまえももう大学生なんだし、もうちょっと女の子らしいことをしてもいいんじゃないか?」
運ばれて来た料理を食べながら兄がそんなことを言い出した。
「なに、それ。私はちゃんと女の子ですけど」
むくれて見せたけれど、兄は思いのほか真面目な顔をして話し出した。
「もうそろそろおまえも十九だ。友達と遊んだり、恋人を作ったりして、大学生らしい生活を送れよ」
ローストビーフを口元に運んでいた手を止める。恋人――兄から、そんなことを言われたのは初めてだった。
「急に、何の話? 恋人とか、そんなの別に欲しくない」
この心の動揺を知られたくなくて、笑おうとしたけど、上手く笑えない。そんなこと、兄には一番言われたくない。
「別に、そんな風に決めつけるようなことじゃないだろう。おまえもそういう年頃だっていう話だ」
分かっている。兄の気持ちなんて嫌というほど分かっているけど、そんな風になんでもないような顔で言わないで――。
口に出来ない、お門違いな願いを胸の中で零す。
「そんなこと言ったら、年上なんだからお兄ちゃんの方が先でしょ。お兄ちゃんに彼女が出来たら、考えるよ」
無理矢理にローストビーフを口に入れるけど、味なんて全然分からない。それでも、何かをしていないとって、ただ機械的に目の前のお皿の料理を口に運ぶ。
「……ああ、それなら、俺、彼女出来たよ」
「……え?」
兄の発した言葉に、手も息も止まる。
「そ、そんなの、私聞いてないよ?」
上擦る声を隠すことも出来ない。視線がゆらゆらと揺れてしまう。
「まあ、最近のことだから」
苦しくて、喉が締め付けられて言葉を続けられない。ダメだ。私は妹なんだから、ここで傷付いた顔なんて出来ない。でも、どうしても笑うことなんて出来なくて。込み上げてくるものを押し止めるのに精一杯で、他のことに構えない。上手く取り繕うことが出来ない。
「おまえは、これまで本当によく頑張ってきてくれた。家のこと全部やってくれて、弁当も毎日作ってくれたよな。そのうえバイトもして、そしてこうして大学にも合格してくれた」
兄の顔を見られない。顔を上げられない。ただじっと、この日を祝うためにある目の前の料理を見つめる。
「俺は、おまえにも普通の女の子みたいに今を楽しんでほしいって思ってる。もっと自分のことを考えていいんだ。もう、お兄ちゃんの心配はいらないから」
そんなこと言わないで。そんな、もう私はいらないみたいなこと言わないで。そんな、優しい兄の声で言わないで――。
その後はもう、兄と何を話したか覚えていない。それ以上、兄の顔を見ることは出来なかった。
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