闇を泳ぐ

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第四章 たった一人の愛しい人

―メイ―④

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 大学の講義初日、広々とした講堂で、どこに席を取るか迷う。初めてだということもあり、後ろの方の真ん中あたりに座ることにした。
 真新しい教科書とノートを幅の狭い机に広げる。まだ、何も書かれていないノートは新しい紙の匂いがする。


 あれから、兄に彼女のことを何も聞けないでいる。妹なら、冷やかし半分で、どんな彼女なのか根掘り葉掘り聞いたりするのだろう。なのに、それに触れないでいるなんて不自然すぎる。
 でも、兄の顔をみるたびに、胸がチクチクと痛んで何も言えなくなるのだ。あの優しげな表情を目の当たりにするたびに、もっと甘い顔を彼女にはするんだろう、もっと違う男の顔を見せるんだろうと、そんなことばかり考えてしまう。

 はあ、と息を吐く。大きな窓の外は嫌というほどに晴れた春の空があるというのに。この生温い空気に、窒息してしまいそうだった。

「――同じクラスの子だよね?」

不意に頭上から声がして、思わず顔を上げる。そこには、見知らぬ男子が立っていた。

「え?」
「ああ、やっぱりそうだ。覚えてないかな。入学式の式典で、隣に座ったんだけど」
「あ、ああ……」

隣に男子学生が座ったことは覚えている。でも、その顔までは覚えていなかった。

「隣、座ってもいい?」
「……は、はい、どうぞ」

勝手にまた身体が身構える。でも、クラスメイトだという彼に警戒心を露わにするのはきっと間違っている。ぎこちないものになっているだろう笑顔を貼り付けた。

「この後の授業って、確かクラスの語学の授業だよね?」
「うん。そうだね」

初対面ではあるけれど、これから知り合うことになる人だ。だから、彼もこうして気さくに話し掛けて来るのかもしれない。なにせ、クラスメイトだ。

「えっと……。名前、聞いていい? 俺は、山内。山内亮」

感じのいい、どこか温かみのある笑顔に少し緊張が和らいだ。

「私は、長谷川メイって言います」
「メイちゃんか。どういう字書くの?」

少し癖毛っぽくて、柔らかそうな髪が猫みたいだ。黒縁の眼鏡が知的な雰囲気も醸し出しているけれど、やっぱりまっさらな心の持ち主のような、善意の塊みたいなそんな人のように思えた。

「ただの、カタカナ。手抜きな名前でしょう?」
「手抜きだなんて思わないよ。『メイ』なんて可愛いと思うけどな」

それでだろうか、ほんの少し心を許し始めていた。でも、その感情がそこで止まる。それが表情にも出てしまっていたのかもしれない。

「あっ、『可愛い』って言うのは、名前がだよ? って、それじゃあまるで長谷川さんは可愛くないって言っているみたいか。そういうわけじゃなくて。ああ、俺は一体何を言っているんだろうか……」

あたふたとし出した彼に、私はついぷっと吹き出してしまった。間違いなく、彼は素のままなんだ。

「……長谷川さん」
「ごめんね、笑ったりして。でも、大丈夫。怪しんだりしてない」

そう言うと、少しバツが悪そうに笑みを返された。

「よかった。初対面の人に『可愛いね』なんて言う、軟派な奴だと勘違いされたらどうしようかと……」

心底ほっとしたように言うものだから、こっちの方こそ自意識過剰な自分に嫌になる。

「この名前、五月生まれだから『メイ』なんていう、安易な理由から来てるの。適当でしょ?」

罪滅ぼしのような気持ちで、そう話していた。

「五月生まれだから……。なるほどな。それでも、やっぱり『メイちゃん』って可愛らしい名前だと思うよ。うん」

頷いて見せる優しげな雰囲気が、少し兄に似ている――。

そう思った。

「そうそう、今日、この後の初めてのクラスの授業でお知らせしようと思ってたんだけど。クラスの親睦会をやろうって何人かで企画してるんだ。同じクラスに、俺の高校時代の知り合いも数人いてさ。長谷川さんも絶対来てね」
「親睦会?」
「うん。四月の十八日を予定してるんだ」

四月十八日――それは、兄の誕生日だ。兄が東京に来てからは、毎年一緒に祝ってた。

でも、もう兄を祝うのは私じゃない――。

「もしかして、もう何か予定ある?」

覗き込む山内君の視線に気づいて慌てて顔を上げた。

「う、ううん。大丈夫。みんなと早く顔見知りになりたいし、私も出席する」
「そう? 良かった」

本当はまだ、人が集まる場所は苦手だった。でも、いつまでもそんなこと言っていられない。

私だって、変わらなくちゃいけない――。

もう一度、窓の外の青空を見上げた。不意に、離れて暮らしていた頃、兄が送ってくれていた手紙の便箋と封筒が浮かんだ。
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