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第四章 たった一人の愛しい人
ーメイ―⑧
しおりを挟むあのままそこにいるわけにもいかなくて、逃げるようにそっとアパートを出た。激しい鼓動が止まらない。身体は疲れ切っているのに、心だけは過敏で。
多分、私は兄にとって、決して見られたくないものを見たんだろう。でも、もう見なかったことにも出来ない。
せめぎ合う気持ちのまま、あてもなく夜道を歩いた。車通りの少ない道路を照らす街灯。雲が半分かかった月からは大した明かりもない。どこを歩いても、どれだけ歩いても、兄のあの表情が頭から離れない。
それでも、もう疲れてしまった。どんな顔をして兄の前に出ればいいのか。兄を前にして、自分が一体どうなってしまうのか。もう分からない。兄に会うのが怖いのに、会いたいと思ってしまう。掴みきれない感情のまま、アパートに戻った。
玄関の前で立ち止まる。玄関脇の小窓からは明かりが漏れている。この向こうに兄がいる。震えそうな手でドアノブに触れた。
このドアを開けた時、私は一体どうするのだろう――?
怯える気持ちと、これまで決して開けることのなかった扉を開けてしまうかもしれないという罪の意識、それと同じだけの何かを期待する疼きがあることに気付いてしまう。
半ば考えることを放棄して、深呼吸して鍵を差し込みドアノブを回した。
「メイっ! こんな時間まで、連絡もなしに心配するじゃないか!」
ドアを開けて「ただいま」と言いかけた途端、悲壮感に満ちた兄が飛び出して来た。その怒ったような焦っているような兄の目に呆気にとられる。でも、やっぱりもう兄としてなんて見られない。
兄としてなんて見られない――。
そう思った自分に苦笑する。振り返ってみれば、兄と再会した六年前からずっと、兄としてなんか見ていなかった。高校二年生の兄を見たあの瞬間から、私にとっては異性だった。
「こんな時間って……、まだ十二時だよ。大学生なら、こういうことこれからもあると思う」
兄から視線を逸らし、その横をすり抜ける。
「こんな時間になったってことは、それだけ楽しかったってことだよな」
背後から聞こえたその声はどこか硬い。
「……そうだよな。楽しかったらな良かった」
自分に言い聞かせるように、呟くように吐かれた言葉に思わず兄へと振り向く。胸の鼓動が収まらなくて、身体中が緊張しているというのに、兄の言葉を聞けばもう自分を抑えられなくなった。
「お兄ちゃんは? お兄ちゃんは、今日どうだったの?」
その奥に隠し持っている真実を知りたくて、視線を逸らさずに見つめ続けた。目の前にあるのは、さっき見つめたのと同じ首筋。さっき見つめたのと同じ腕。さっき見つめたのと同じ手のひら。あの光景と同じ姿がそこにある。どうしてもそう思ってしまう。勝手に身体が震えて、身体の芯が疼いて、訳も分からず泣いてしまいそうになる。
「ああ、ちゃんと祝ってもらったさ」
兄が私から視線を逸らし、ぱたぱたと二度瞼を瞬かせる。
「お兄ちゃんの彼女に祝ってもらったの?」
どうして、今夜一人でここいいたの――?
「そうだって言っただろ」
ぱたぱた。二度の瞬きの後そう言い捨てて私の前から離れた。
そうだ。ずっと忘れていた。小さい時、兄が視線を逸らして何かを言う時、必ず二度瞬きをしていた。そんなこと、ずっと忘れていた。
どうして、視線を逸らすの――?
それは、嘘、だからだよね――?
背後に兄の気配を感じる。すべてを感じようと身体中が敏感になる。
「おまえももう大人だもんな。あんまり干渉しないようにはする。ただ、夜は心配だから。あまりに遅くなるようだったら連絡くらいは入れるようにしてくれ。じゃあ、俺はもう寝るよ」
そう言うと、兄は自分の部屋へと向かおうとした。
「お兄ちゃんっ!」
「……なんだ?」
咄嗟に引き留めると、兄がやっと私を見た。
「お願いがあるの……」
兄は、彼女がいると嘘をついてまで私を遠ざけた。私が兄に対して抱いている感情に、兄が気付いているのかは分からない。でも、これまで寄り添うように生きて来た私を『遠ざけた』という事実は変わらない。その事実に引き裂かれそうなほどに胸が痛むのに、私はその兄の気持ちに応えてあげられない。本当はまだ、罪悪感も迷いもある。でも、ここで止まれないことも分かっている。
「お願いって?」
低くて優しい、少し掠れた声。この声が好きで。私を見てくれるその視線が、ずっとたまらなく好きで。
「今度の私の誕生日、今年も二人だけで祝いたいの。だから、その日は予定を入れないで」
兄が無言のまま私を見つめている。兄へと向ける視線に意味を込める。真っ直ぐに、ただ兄だけを見つめた。
「ああ、そんなことか。でも、俺でいいのか? 大学の友達とか、他に、誰か一緒に祝う奴とか――」
「お兄ちゃんがいいの。だめ?」
「……だめなわけないだろ」
はっきりとした兄の口調に、ただそれだけで嬉しくなる。
「ありがとう」
「メイ……」
兄から視線をそらすと、不意に兄に呼ばれた。
「ん?」
「もしかして、今日、一度家に帰って来たりしたか……?」
兄の視線が怯えたように揺れている。こちらにまで兄の不安が伝わって来る。
「ううん。なんでそんなこと聞くのよ」
「そうだよな。ごめん。なんでもないよ」
心の底から不思議そうな顔をして私が答えると、兄は全身の力が抜けて安心したかのように表情を緩めていた。
「じゃあ、おやすみ」
もう一度そう言って部屋へと入って行く兄の背中に言葉を放つ。
「お誕生日、おめでとう」
「おう」
兄が振り返り微笑みをくれる。
ごめんね、お兄ちゃん――。
兄に心の中で謝った。兄が必死で守ろうとしている兄としての顔を、そして兄妹という絆を、私は壊してしまおうとしているんだから。
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