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第四章 たった一人の愛しい人
―メイ―⑫
しおりを挟む力が抜けきったはずの身体は、まだ余韻のように小さく震えている。身体のどこにも力は入らなくて、くたっと兄の胸に倒れ込んだ。
乱れた息を整えようとするけど、収まらない。ただ、心の中は虚しさで一杯だった。身体は嫌というほどに火照っても、身体の真ん中を突き抜けるような快感を知っても、その後は恐ろしいほどの冷たさが心を覆う。
私は、こんなことがしたかったのかな――。
兄に触れられている間、ずっと一人だった。快感に打ち震えながら、私はずっと一人だった。兄の顔を見ることもなく、名前を呼んでもらえるわけでもない。キスもなく、そして、兄と一つになることもなかった。兄が、そうさせなかった。無理矢理に兄を手に入れようとした私の、代償なのかもしれない。
――実の兄妹なんだよ。
そうずっと訴えて来るかのように。
零れ出る涙が余計に惨めにさせ、兄から離れようとした。
「……ごめん、私、もう行くから――」
俯いたままそう言うと、兄が私の身体を包み込むように抱きしめる。
「もう少し、ここにいろ。俺が行くから」
泣きたくなるほど優しい声で、一度ぎゅっと力が込められたと思ったらすぐにその腕は離れて行った。
ふわりと何かが肩にかかる。それに目をやると、兄の工場の作業着だった。そっと握り締めれば、こらえられなくなった涙が溢れ出す。
兄が部屋を出て行きふすまが閉められる音がした。一人取り残されて、気が緩んだように涙がさらに溢れ出す。
さっきの行為は、慰めだ――。
私はうぬぼれていた。兄の秘め事を見た日から、私が無理強いすれば兄はそれに応えずにはいられないはずだと思っていた。兄だって男だ。少なくともこの身体を欲望の対象にしているのなら、きっと抗えない。
でも、結果は違った。兄はただ私を慰めた。次から次から湧き出して来る淋しさが、この身体を埋め尽くして行く。
これからどんな顔をして兄を見ればいいだろう。兄はどんな顔で私を見るんだろう。想像すればするほどに、不安しか浮かばない。自分のしたことの意味が目の前に横たわる。
いつまでも兄の部屋を奪っているわけにも行かない。兄に掛けられた作業着を肩から外し、脱ぎ捨てられている服を一枚一枚拾い上げて着て行く。鉛のような身体でのろりと立ち上がり、ふすまに手を掛ける。激しい鼓動が自分を追い詰めるけれど、意を決してそのふすまを開けた。
ゆっくりと開けて行くその隙間からダイニングを覗き見る。でも、そこに兄の姿はなかった。
ダイニングテーブルに置かれていた箱が目に入る。それは、家の近くのケーキ屋さんのもの。兄は、給料日のたびにその店でケーキを買って来た。恐る恐るそれを開くと、小さなホールケーキが入っていた。デコレーションされていた生クリームが所々溶けて崩れている。きっと、お祝いしようと買って来てくれたものだ。
それなのに、冷蔵庫に入れる間も無くあんなこと……。
締め付けられる胸のまま、もう一つ、紙袋が目に入る。その紙袋の中には綺麗にラッピングされた箱がある。
私への、プレゼント……?
もう、それには触れることが出来なかった。
部屋を見回しても見当たらない兄は、既に仕事に出掛けてしまったのだろう。
その夜、一人でそのケーキを全部食べた。喉に何かが詰まったようで。飲み込むのに必死で、味なんてよく分からなかった。ただ、苦い涙の味だけがした。
結局あれから、兄とは顔を合わせていない。
明らかに、私を避けている――。
翌朝、私が目が覚めた時にはもう既に兄はいなかった。
”工場でトラブルあったみたいだから早く行く”
そうメモ書きがテーブルの上に置いてあった。
私も私で、あんなことの後で、全然眠ることなんて出来なかった。眠りにつけたのは薄らと窓の外が明るくなった頃なのに、いつもより早く目覚めた。それでも兄と顔を合わせなかったということは、いつもより工事現場からの帰りが遅かったということ。そして、帰って来たと思ったらすぐに出かけて行ったということで。兄が私に会いたくないという何よりの証だ。兄はほとんど寝ていないということになる。
それは、全部、私のせい――。
二人にとって心安らぐ場所を、そうじゃないものに変えてしまったのも私。
それでも――。
あれからずっと、切り刻まれるみたいに胸が痛み続けてるのに、罪悪感で窒息しそうなのに、あんなことしなければ良かったとは思えない自分がいる。私にとって、もう限界で、どうにもならなかった。兄への想いがパンパンに膨らんで、はじけて破裂した。こんな状態で後悔していない私は、本当に正気じゃないんだろう。
だけど、兄は違う。兄を苦しめたその責任は、私が取らなければならない。
”おまえは汚れてなんかいない。嫌いになんてならないよ”
兄の苦しそうな、それでいて私を労わるような声が何度も脳内にこだまする。
ごめんね、お兄ちゃん――。
後悔なんかしていなくても、それでもやっぱり苦しくて、机に突っ伏した。
「……長谷川さん、大丈夫?」
頭上から現実へと引き戻す声がした。慌てて顔を上げると、そこには山内君が心配そうな顔をして立っていた。
「授業、とっくに終わってるけど、行かないの? それとも、どこか具合が悪い?」
「あ、えっと……」
そう言われてぐるりと周囲を見回してみると、その広い教室には私たち以外には誰も学生はいなかった。
「これから行こうと思ってたとこ」
ぎこちなく笑みを貼り付け、机の上の教科書や筆記用具を掻き集める。
「山内君は、どうしたの?」
あんまり表情を見られたくなくて、鞄にそれらをしまいながら問い掛ける。
「この授業取ってるの同じクラスの人で長谷川さんだけだったな、なんて思って声をかけようと思ってたんだ。そうしたら、ずっと席から動かないからどうしたのかなって」
人の好さそうな眼鏡の奥の目が、それでもまだ私を心配そうに見つめていた。
「ちょっと、考え事してただけだよ」
「なんか、顔色悪い? 本当に大丈夫?」
少しだけ山内君の顔が近付いた。思わず身を引きそうになるけれど、他の男子ほど怯えはない。それはやっぱり、どことなく兄に雰囲気が似ているからなのだろうか。
「大丈夫、大丈夫」
だからなのか。山内君の顔をもあまり見ることが出来なかった。
その後、山内君と一緒に教室を出て別れた。
この日はバイトのある日で、帰宅した時にはもう二十二時を過ぎていた。灯りの点いていない部屋に入ると、より寂しさで身体中が覆われる。
兄が家にいないことは分かっている。工事現場の仕事に行っているのだからいなくて当然だ。これまではなんでもなかったことが、突然私を遠ざけるものに感じられるのだからどうしようもない。こうして、もう兄の笑顔を見ることは出来なくなるのかもしれない。その覚悟もあったのに、やっぱり辛い。
脚を引きずるように自分の部屋に向かうと、私の机の上に前の晩に見たのと同じ紙袋が置かれていた。
これ、ケーキの横にあった紙袋……。
机へと近付くと、その紙袋の傍にメッセージらしきものが置かれていた。おそるおそるそれを手に取る。離れて暮らしていた時に兄がくれた手紙と同じ、空色のカード。
昨日の夜は、こんなカードなかったはず……。
胸の鼓動が早くなる。そこには、確かにあの整った兄の文字があった。
”メイ、19歳の誕生日おめでとう。
これはメイへのプレゼントだからもらってくれ。
それと、”
次の文字で、私は思わず口元を押さえる。
”メイ、ごめんな”
そのカードを握りしめる。
「……うっ」
押さえても漏れ出る嗚咽に、胸が詰まる。
どうしても、どんなに汚いものにしてしまおうとしても、兄が好きだという気持ちを失くせない。苦しくてたまらないのに、失くすどころか私を押し潰してしまうほどに膨れ上がって。その気持ちが、何より兄を苦しめるのだと思うとまた涙が零れる。
兄を苦しめてまでも、自分を止められないのなら――。
もう、こんな自分、消えて無くなってしまいたい。そんな思いが、ふっと、胸に浮かんだ。
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