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第四章 たった一人の愛しい人
―メイ―⑭
しおりを挟むタクシーが止まり、彼に支えられながらなんとか車内から降りる。いつもの見慣れた場所が、タクシーが走り去ってしまうと急にひっそりとした。三年という時間を暮らして来たそのアパートがよそよそしく感じる。一体今が何時なのか、それすらもよくわからない。
「ごめん。も、だいじょぶ、だから」
そうなんとかそう言葉にする。どうして山内君はタクシーを帰らせてしまったのか。不意にそんなことがどこか遠い意識の中で過ったけれど、それを深く考えられるだけの思考力は残っていなかった。とにかく、もうこれ以上恥ずかしい姿は見せたくない。一人にしてほしい。ただそれしか頭にない。
「ありがと……」
ふらふらともつれる足で彼から離れようとした時、不意に強い力で抱き寄せられた。
「きゃっ……」
「……長谷川さん」
低い声が鼓膜を揺らす。さっきとは違う、全身を包み込むような人の身体の温もりに息が止まる。
「どうして、そんなに泣いてるの? 何か、あったの?」
「やっ……、離して――」
咄嗟に、まともに力の入らない腕で離れようとする。でも、そんな力じゃびくともしなかった。
「長谷川さんはいつも、大人っぽくて颯爽として落ち着いていて……。でも、今の君は弱々しくて消えちゃいそうで。そんな君の姿見たら、俺は――」
掠れて上擦った声が苦しそうに吐き出されて、その分だけ抱きしめる腕に力が込もり思わず身体を強張らせるその時、錆びた階段を誰かが駆け下りる音が静けさの中に響いた。
「メイ……、メイっ!」
でも、そんな音を掻き消すくらいの切迫感のある声が私の耳に届く。
お兄ちゃん――?
その声がしたときに、背中に回されている腕の力が一瞬緩んだ。そのすきに山内君から離れると、その時にはもうそこに兄がいた。離れようと山内君の身体を押した時に、ふらっと足元がぐらついた。
「長谷川さん、大丈夫っ?」
咄嗟に手を差し出した山内君を遮るように兄の手が私の腕を掴んでいた。
「メイの兄です。君は……?」
その声は聞いたこともないほどに強張っている。掴まれた腕が痛い。
「お、お兄さんですか? 僕は、長谷川さんと同じ大学の山内と言います」
山内君が礼儀正しく挨拶をしているのがどこか遠くに聞こえる。
「メイは、酒を飲んでるんですか?」
その声に怒りが滲んでいるのに気付いて、目を固く閉じる。
こんな醜態晒して、もっともっと兄に嫌われる――。
「山内君は何も悪くない。私が勝手にお酒飲んで酔い潰れているとこ、心配して、送ってくれただけなんだからっ」
バカみたいだ。とっくに軽蔑されている。実の兄に裸で迫ったりしたんだから。挙句の果てには、フラフラになるまで酔ったりして。こんな私、妹としてだって、もう呆れて見捨てたいはず――。
そう思ったら耐えられなくなって、私はその場から駈け出した。駈け出したかったのに、とうに慣れないアルコールで充満した身体は言うことをきかなかった。
「メイっ」
掴まれたままだった腕を強く引き寄せられて、そのまま兄の胸に倒れ込んだ。その時私の耳に触れた兄の胸は、激しく動いていた。それは、まるで兄の怒りをそのまま表したかのように。
「山内君、妹がご迷惑をおかけしました。じゃあ、ここで」
「あ、ああ、はい」
どこか余裕のない兄の声。強く掴まれた腕も肩も痛くて、呻いてしまいそうになる。
無言のまま部屋へと連れ戻された。ただ、ドクドクと唸る兄の心音を聞いていた。私たちの暮らす部屋のドアが閉まる。その途端に掴まれた腕により力が込められ、そのまま部屋の中へと引っ張られる。
「お、お兄ちゃん、くつ、まだ脱げてない――」
上手く回らない口でそう言っても、兄は振り返りもせず歩みを止めることもしなかった。目の前にある背中は、その全部で怒っているようだった。
「おにいちゃ……、腕、痛い……っ」
片方、靴を履いたままで、兄の部屋に放り込まれた。畳の上に転がるようにしりもちをつく。そうして見上げて、兄の顔を初めて見た。その顔は、これまで見たことのあるどの顔でもない。怒っていて、哀しそうで、苦しそうで、そして傷付いたような顔をしていた。
「お、お兄ちゃん……」
その顔を見た時、一瞬にして酔いなんて吹っ飛んだ。酷く胸が痛んで、血でも流れてるんじゃないかってほどに激しく痛んだ。
「そんなに辛いか? 酒なんか飲んで酔っ払うほど。そんな、フラフラになるまで酔わなきゃならないほど、辛かったか? この家に、帰って来たくなかったか……」
座り込んだ私の正面に兄が来てそう言うと、私から顔を逸らした。その横顔はとても苦しそうで、気付くと私は泣いていた。もう、さっきから泣きすぎて、泣いていることにも麻痺している。
「ごめん、なさい。お兄ちゃん、ごめん――」
泣きながら何度も「ごめん」と繰り返すと、突然兄の腕が私をきつく抱きしめた。それは苦しいほどに力が強くて、呼吸が止まってしまいそうなほどで。やっぱり兄の胸は激しく鼓動していて、その振動が私にまで伝わる。兄の身体に包まれるように抱きしめられると、私の中の感情という感情が暴れ出した。
「お兄ちゃんっ、ごめんなさい! お兄ちゃんを苦しめて、ごめんね。これまでずっとお兄ちゃんは私のために、何もかもを犠牲にして、自分のこと全部後回しにして頑張ってくれてた。私のために、いつも……。それなのに、ごめんなさい。お兄ちゃんが苦しくなるって分かってて、あんなことしたの」
妹の身体に深く触れさせるようなこと。兄を追い詰めて、兄にあんな淫らなことをさせた――。
「分かってたのに、お兄ちゃんが欲しくて――、んっ」
小さな子どもみたいに泣きじゃくっていた私の唇を、兄の唇が塞ぐ。何が起きたのか、一瞬分からなくて混乱する。目を見開いたまま固まった。きつく身体を締め上げるように抱きしめられて、荒っぽく私の髪に差し入れられた兄の手のひらが後頭部を掴む。どこもかしこも痛いのに、兄の唇の熱さしか感じられない。
どうして――?
どうして、こんなことするの――?
すぐさま唇をこじ開けられて、兄の舌が私の口内を激しく蹂躙した。怯えるようにじっとしていたのに、絡みつく兄の舌があまりに熱くて、その熱をもっと感じたくてあっという間に自らも絡ませる。
兄からこんなことをしてくれるなんて、もしかしたら、また夢かもしれない――。
そう思えて、夢なら覚めてほしくないと必死に兄の首にしがみつく。
気が遠くなるほどに長いキスに酸欠になりそうになった頃、やっと兄の唇が離れた。そこで大きく息を吐く。でも、兄の身体は少しも離れて行こうとはしなかった。鼻と鼻がくっついたまま、額もくっついたままで、兄が掠れた声で囁いた。
「メイは、あの男が好きなのか……? だから、あんな風に抱きしめられたりした……?」
吐息交じりの声に、私は咄嗟に頭を横に振った。
「ちがっ……。私が好きなのは――」
「こんなことしといて、今更そんなこと聞く俺も、どれだけ最低なんだか」
兄の自分を嘲るかのような声に、私は声を張り上げていた。
「違うっ! お兄ちゃんは何も悪くない! 悪いのは全部私だよ。最低なことしたのは私。優しくて誠実で、私なんかとは違っていつも真っ直ぐで。そんなお兄ちゃんに、あんなことをさせた私が全部悪いの!」
兄に自分を責めてほしくなくて、苦しんでほしくなくて、私は必死に訴えた。
「今のキスも、全部私のせいにしていいんだよ。私が、無理矢理――」
涙が止まらない。目の前にある兄の顔を見ているだけで、涙が溢れてしまう。
「違うんだよ」
そんな私の涙を、兄が唇で拭う。その時の兄の唇は震えていた。
「俺は、優しい兄みたいな顔をしながら、もうずっとメイを女として見てた。ずっとそんな目で見てたんだよ。おまえは妹なのに――」
兄が苦しげに息を吐き出したかと思うと、私の肩を掴み、そのまま畳の上に押し倒した。
「メイのせいになんかさせない。俺だって、ずっと、おまえが欲しかったんだ――」
そう言った兄の目はとても哀しそうだったのに、それでも私は嬉しいと思ってしまった。
この瞬間から、兄が兄ではなくなった。
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