闇を泳ぐ

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第五章 たった一人の兄と妹

―春彦―③

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 悲しくて悲しくて、堪えようにも涙が零れて行く。

いつからこんなに涙もろくなった――?

メイに気付かれたくなくて、メイの目を覆う。

 傷だらけの俺たちは、お互いの傷をなめ合うように抱き合う。それがどれだけ愚かな行為か。自分でもいやというほど理解している。もうやめようと決めたのに、またも俺はメイを抱いている。

『メイは兄ちゃんの宝物だ』

いつかメイにもそう言った気がする。その時の自分は、まだ確かにこの中にいるというのに。いるからこそ、俺はこんなにも苦しみもがいている。

――俺はずっと昔から、思っていることは何も変わっていないんだ。
――だからやっぱり。俺は、心にある思いに従いたい。

メイを貪るように抱いたこの腕でメイを抱きしめながらそう囁いた。この汚い腕に抱かれたメイを、これ以上汚さないように。

 俺がメイから離れていくことは出来ない。だったら、メイが俺から離れて行くようにするしかない。

 人は、心から愛されていれば、心から愛してくれる人の傍にいれば、きっとその心が伝わって愛を感じられる。
その愛を受け止めようとするはずだ。

山内なら――。

メイを大事に思っている。メイの言っていた職場の男のように自分の想いだけをぶつけるようなことをしない。
誠実で真っ直ぐな男。メイだって誰より山内という男を分かっているはずだ。その想いの深さを知れば、その愛情を一身に受ければその心地よさに気付く日が来る。

 これで、終われる。

メイを汚い存在から引き離すことが出来る――。

俺は、そう自分に念じていた。

 最後に、メイにとっての兄に戻れるなら。メイに幸せな未来を与えられるなら、俺の感情なんてどうだっていい。

――メイが慣れない職場で、悩みを抱えている。指導係の社員から言い寄られて困っているみたいだ。誰にも相談できずに苦しんでいる。だから、話を聞いてやってくれないだろうか。

そう山内に切り出すと、予想通りメイのことを心配して来た。

――もちろん、僕で出来ることなら力になりたいです。

電話越しなのに、山内の前のめりになる姿勢が目に浮かぶ。

――ちょうど今月メイの誕生日がある。俺からのプレゼントとして二人でゆっくり過ごしてほしい。

そう告げると、少しの間はあったけれど、何かを決意したかのような山内の声が耳に届いた。

――分かりました。お兄さんにこうして連絡いただけたこと、すごく嬉しいです。その信頼にこたえるためにも、僕はメイさんに対して誠実に向き合いたい。一番近くでメイさんを支えられる立場になりたいと思っています。ちゃんと想いを告げようと思います。

その言葉に、気付かぬふりが出来ないほどの痛みが胸を襲う。

これでいい。これでいいんだ――。

痛んで仕方がない胸をさすりながら何度もそう自分に言い聞かせた。これが、俺が出来る最善の選択。メイに幸せな笑顔をさせてやれる方法なんだ。もう、日の当たらない場所に隠れるようにいなくてもいい。すべてを犠牲にするような恋愛をしなくていい。

――山内君、メイのこと、よろしくお願いします。

大きく息を吐き、俺はそう告げた。

『ホテルの部屋も取ってある。それをどうするかは君が決めればいい』

そう最後に伝えて、電話を切った。


 嬉しそうに笑顔を零し、いつも以上に綺麗に身を整えていたメイを朝見れば、『やっぱり、なかったことにしてほしい』と山内に言ってしまいそうになって。勝手にこの手がおかしなことをしてしまわないように、ぐっと握り拳を作り続けた。

 メイが山内の想いを受け入れるように――。そう願いたい。心の底からそう願いたいのに、心がかきむしられるようで何度も頭を振った。

 何度もメイを抱いたこの部屋で、一人時間が過ぎて行くのを拷問のように待ち目を閉じた。それなのに、メイは俺の元に戻って来てしまった。



 薄暗い部屋の中で、白いメイの肌が浮かび上がる。それは神々しいまでの美しさで、俺はそれを食らい尽す悪魔のようで。そんな悪魔に心を取られてしまったメイは、俺を『愛している』と信じて迷いなく抱きしめて来る。

「お兄ちゃん、好きよ。好きなの……っ!」

俺の脚に跨りながらうわ言のように何度も口から吐き出す言葉。これまでずっとメイが俺への想いをはっきりと口にすることはなかった。でも、一度口にしてしまってから。堰を切ったように何度も繰り返している。

「メイ――」

同じ言葉を返してやりたいと思うのに、俺にはどうしても言えなかった。言えない分だけ、その真っ赤に熟れた唇を覆い尽す。俺を呑み込むメイの中は、絶対に離さないとで言うように絡みついて引きちぎられてしまいそうで。熱くて、気が狂いそうなほどに気持ちよくて、メイという甘い蜜に溺れて行く。

「メイ……、どうして。ど、して、『愛してる』って言ってくれる、男を選ばないんだっ」

荒くなる吐息で、何度もメイを突きあげながらそう言っていた。悔しくてならない。メイの決断にも、もうどうしようもないほどにメイを手放したくないと思っている自分にも。

「どうして……っ!」
「そんな言葉いらない。言葉なんて意味ない!」

俺の首にしがみついて腰を揺らすメイが喘ぐように叫んだ。

「お、おにいちゃっ……あぁ、はっ」

お互い我を忘れるように激しくぶつかり合い果てた。これから始まる、本当の地獄へと堕ちて行く。闇の底へと引きずり降ろされて行くのを、もう誰も止めることは出来ない。

メイ、どうしてこんなことになったのかな……。

もう一人の自分の哀しい声が、頭の中をこだまする。

「お兄ちゃんさえいれば、私は何もいらない」

メイの声が霞がかったように聞こえた。

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