闇を泳ぐ

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第五章 たった一人の兄と妹

―春彦―⑤

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 明るい太陽は、春から次第に夏へと移り変わらせる。木々は緑に輝いて、一年の中で一番明るい季節かもしれない。その明るさが俺を鬱屈させる。

「最近、事務に新しく来た河谷かわたにさん、綺麗じゃね?」

昼休み、隣に座る同僚がちらりと遠くを見ながら俺の腕を突いてきた。

「え?」
「ほら、向こうのテーブルに一人で座ってる髪の長い人」

同僚の向ける視線をたどると、黒いストレートの髪を一つに縛ってお弁当を食べている女性がいた。

「ああ」
「なんだよ、その気のない返事は。久しぶりの新入りさんだし、綺麗だし。ちょっと声かけてみようかな」
「そうすればいいんじゃないのか」

現場で働く俺たちと事務所で働く人とではほとんど接点がない。こちらから何か働きかけないと特に親しくなることもない。俺はすぐに視線を手元に戻した。

「相変わらずだな、長谷川は。彼女欲しいとか思わないのか? いつまで独り身貫き通すわけ?」
「俺は、そういうの苦手だから」

隣で溜息をつく同僚には構うこともなく淡々と昼食を食べた。
 他の女性に気が向くことはない。それは今も昔も変わっていない。同僚のいうその事務の女性がどんな人なのかどんな顔なのか、興味も関心も湧かなかった。もう、何に対しても感情が動かない。俺の中にあるものが一つづつ壊れて行っている。そんな感覚だった。



「あーあ」

休憩時間、ベンチに座っていると隣に同僚が勢いよく腰掛けて来た。

「どうした?」
「全然だめだった。もう、見込みなし」
「なんの話だ?」
「だから。この前おまえにも話したろ? 新しく来た事務の女の子の話」
「ああ」

昼休みにその話をしてから、一週間ほどが経っていた。

「それとなく、声を掛けて、それからご飯でもって誘ってみたんだけど」
「それで?」
「……どうやら最近婚約したばかりみたいでさ。もう、落とそうと思った瞬間に撃沈」

溜息をつきながらその同僚が煙草をがさがさと探り出した。

「それは、残念だったな」

大して心のこもっていない受け答えになっていたかもしれない。そう思ったところで、意味はないけれど。

「でも、まあ。深い入りする前に知れて良かったってことだよな。っていうか、そういうことにする。俺の好みドンピシャだったんだけどな」

ぶつぶつ諦め悪く呟きながら煙草をくわえていた。

「それに――。河谷さん、いろいろ訳アリみたいで。尚更、深入り出来なかった」
「訳あり?」
「そう」

ベンチに深く腰掛けた同僚が、嫌味なほどの真っ青な空を見上げながら煙草をふかした。

「結構、きつい過去があるみたいでさ。前に、結婚間近だった相手を事故で突然失ったことがあるんだと。それからずっと引きずってたみたいだけど、やっと次の相手を見つけて結婚するみたいなんだ」
「……それ、本当の話か?」

どこから聞いて来た話なのかもわからない同僚の話が、俺の投げやりだった気持ちを目覚めさせる。

「な、なんだよ、急に食いつくな。あ、もしかして、おまえも実は河谷さんいいなって思ってたとか?」
「冗談はいいから、その話もっと詳しく聞かせてくれ」

今にも掴みかかりそうになりながら前のめりに同僚につめよった。

「詳しくも何も、それ以上のこと知るわけないだろう? そんな微妙な話聞き出せるわけもないし。ああ、そう言えば――」
「なんだ?」

何かより詳細な話がきけるのかとさらに前のめりになる。

「俺が思っていたよりずっと年上だった。三十五だってよ。俺、もっと若いと思ってたからさ。急に、気分が下がって来てちょうどよかったよ」

俺にとってはどうでもいい情報に、同僚から身体を離した。
 でも。同僚の言う、その河谷さんの過去については、どうしても気になった。どういう経緯があったのか。どうやって今に至るのか。その話をどうしても聞きたくなった。

 だから、その河谷さんが、工場裏手のベンチで休憩しているのか座っているのを見た時、迷わず近付いた。

「すみません、隣、いいですか?」

俺がそう声を掛けると、怪訝な目を俺に向けて来た。初めてきちんとその顔を見る。長い髪が風にたなびく。意志のある強い瞳、そして色白の肌がメイにどことなく似ていた。

「別に、いいですけど……」

俺は、少し隙間を開けて隣に腰掛けた。

「長谷川さんが、私に何の用ですか?」
「俺の名前、どうして知ってるんですか?」

突然名前を呼ばれて驚いた。俺は彼女と言葉を交わしたことはない。

「ああ、いえ。他の事務の女性からよくあなたの噂を聞くから」
「噂、ですか……?」

険しかった表情を少しだけ緩ませて、河谷さんがふっと息を吐いた。

「ええ。工場にとてつもないイケメンがいるんだって。あんなにイケメンなのに女性の影が全くない。どうしてだろう。どんな秘密があるんだろうって。まるで神秘のベールに覆われた異国の王子様みたいな言われようですよ?」

何と返していいかわからなくて言葉に詰まる。

「だから、こうして二人で並んで座っていたりするのを誰かに見られたりしたら後で面倒そうだなって」
「すみません……」

それはそれで確かに迷惑かもしれないと、少し気おくれする。それでも、ここを去ろうとは思わなかった。

「それで、何か?」
「ああ……。すみません。実は、河谷さんに聞きたいことがあって」
「何ですか?」
「突然、初対面で、不躾だとは思うのですが――」

さすがに面識もない人に、あまりに個人的なことを聞こうとしていることに気まずさを感じる。でも、意を決して口を開いた。訝し気に覗き込んで来る河谷さんの目を強く見返した。

「河谷さんが、以前結婚まで考えた人を事故で突然失ったのだと、噂で耳にしました」

そうなんとか言葉にすると、河谷さんがぎゅっと唇を噛みしめたのに気付く。

「すみません。こんな話、嫌ですよね……」
「でも、そんな話、初対面の相手だと分かっていて聞いて来るってことは、どうしても聞きたいってことですよね?」

その強い眼差しに、俺は頷いていた。

「……どんな事情かは知りませんが、いいですよ。話しても」

俺から視線を外しどこか遠くを見つめながら、河谷さんがそう言った。その深く静かな声が、彼女の心の内を表しているようだ。何もかもを胸に抱えて生きて来た人の、潔さなのだろうか。

「そうですよ。もう、十年も前のことですけど。当時、結婚の約束をしていた恋人がいました。多分、これ以上人を愛せないだろうってくらい大切な人でした。私のすべてだった。あの人といられる毎日が幸せで仕方がなかったな……」

 河谷さんは空を見上げながら、呟くように話をしてくれた。

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