闇を泳ぐ

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epilogue 

最後に還る場所①

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 同僚に会うと言って朝早くから出掛けて行った兄が、完全に空が暗くなった頃に帰って来た。

「おかえり」
「ただいま」

兄が私の頭をぽんぽんと撫でた。そのうえ、ここずっと見たことのない、まっさらな笑顔を私に向けている。
苦しげでもない、歪んでもいない、ただの笑顔。

「……ん? どうした?」

だから、私は驚きのあまりただ兄を見つめてしまった。

「う、ううん。なんでもない」

あまりに普通で、『どうしたの?』なんて聞けるわけもなかった。

「夕飯って、俺の分ある?」
「……え? あ、ああ。うん。あるよ」

頭から兄の手のひらが離れて行くと、そんななんでもない言葉が私の耳に届いた。そう。ここ最近の私たちは、そんな”普通”な会話さえろくにしていなかった。そんなことを、兄のその言葉で気付く。

「じゃあ、もらおうかな」
「分かった。準備する」

私がまだ高校生だった頃、普通にしていた会話だ。親のいない私たち兄妹は、寄り添うように支え合うように生活していた。兄は、ひたすらに私を養い守っていた。

 台所に立ち、兄に背を向ける。兄が自分の部屋へと入って行くのを背後で感じながら、鍋に火をかけた。

 本当に、以前の兄に戻ったみたいだ。毒が抜けきったような表情――私にはそう見えた。でも、もしそれが、兄が何かをきっかけに少しでも心が楽になれた証なら、それはそれで嬉しい。いつも思い詰めたような顔で、気を緩めたらどこかに行ってしまいそうな儚さと苛立ちを露わにする感情的な姿と、そのアンバランスさに私はいつもどこか怯えていた。兄を自分の感情で縛り付けている。その後ろめたさで苦しくて。苦しいと思うことさえ身勝手だと分かるから、この感情の行き場がなかった。久しぶりに見せてくれた兄の笑顔が、こんな私を許してくれているように思えて、嬉しいなんて思ってしまう。

「メイ、来週の休み、何か予定あるか?」


温めて出したご飯を食べながら兄が私に問いかけて来た。わかめと豆腐の味噌汁を手にした兄が、正面に座る私に視線を向ける。

「予定なんてないけど、どうして?」
「いや、たまには二人で出かけるのはどうかって思って」
「えっ?」

さきほど以上の驚きで、私は思わず腰を浮かせてしまう。兄と身体の関係を持つようになって。二人で出かけたことなど一度もない。近所への買い物すらないのだ。

それに――。

「お兄ちゃん、それ、本当? また、私を――」

私の誕生日の時、兄はそう言って私を騙した。その時のことがすぐに蘇る。もう、二度とあんなことされたくない。

兄はもうしないと言ったのに、なぜ――。

「バカ、違うよ。今度は本当に俺とだ。休みの日って言っただろう? 同じ家から一緒に出掛けるんだ。変なこと企んだりできないよ」
「でも――」

それでも私は喜んだりできない。どうしても不審さを滲ませてしまう視線で兄を見つめた。 

「考えてみたら、メイと暮らし始めてから、二人で遊びに行ったことってなかったよな。おまえがまだ高校生の頃は、生活に必死でそんな余裕もなかったし」
「だからって、急にどうしたの?」

いたってなんでもないことのような兄が言う。

「急に思いついたからだ。別に、そんなに不思議そうにすることもないだろう? 家族なんだし、たまにはどこかに出かけたりするだろ」

”家族”という言葉が耳に残る。その言葉に間違いはない。なのに、この違和感はなんなのだろう。

「……行きたいんだ、おまえと」

兄の目が真剣なものになった。そこには兄の、本心も込められているような気がして。その目を見返す。

「おまえとせっかく一緒に暮らしているってのに、俺はおまえをどこにも連れ出してやらなかったな。そんな心の余裕がなかったし、最近はどうしてもおまえと明るい空の下を歩けなくて。でも、その何年もの間、メイをずっと我慢させていたんだよな? ごめん」

急にどうして――。

そう思うのと同じだけ、私の本能が喜んでしまう。

私とのことを自分の中で認めてくれようとしているの? もしかしたら、私との未来を肯定してくれている――?

兄の本当の心のうちなんて分からないのに、どんなに戒めても自分に都合の良い解釈をしてしまおうとする。
 何年も何年も自分に言い聞かせて来た。兄の憐れみだと。許されない関係は表にしてはいけないんだと。それに心底納得しているし、それでいいと思えているのに、こうして兄に優しい目を向けてもらえてこんなにも胸が震えているなんて。

「メイ……、泣いてる、のか?」
「え?」

慌てて頬を擦ると、確かに生暖かいものが手のひらに触れた。

「あ、ああ、なんだろね。自分でもよくわかんない」

誤魔化すように笑うけど、次から次から込み上げる。

 兄の気持ちは知りようもないけれど、私は兄のその言葉を信じたいと思った。信じていたかった。

「こんなことくらいで泣くなんて、馬鹿だな」
「ほんとだよね。遊びに行けるから泣くなんて、子供かって感じ」

ほんの一瞬、兄の目が揺れた気がしたけれど、すぐに元に戻る。私を優しく見つめてくれるような目に飲み込まれていたかった。深く追及したりしたくない。それは、私の弱さだ。そして、私のズルさだ。

「じゃあ、来週、出掛けるぞ」
「うん」

ズルくて自分のことしか考えられない私は、考えるのをやめて兄に笑顔を向ける。
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