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第八章 二人を繋ぐもの
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しおりを挟む私は、つわりが重いタイプみたいだ。日に日に症状が辛くなる。それでも、まだ救いなのは、仕事はこなせるということだ。
通勤途中と自宅では惨憺たる状態なのに、それだけは本当に助かった。
まず、ほとんど食事を取れない。匂いも味も、何もかもを身体が受け付けない。なんとか水分だけは取るようにした。この一ヶ月、固形物を食べていない気がする。
食べていないのに吐き気だけはなくならなくて、吐き出すものは唾液だけ。これが本当に苦しい。
誰もいない狭い部屋でどうすることもできず横になっていると、心まで弱ってくるから厄介だ。
本当は、一人で産むなんて大変なんじゃないか。両親に助けてもらった方がいいんじゃないか――。
そう頭に過ぎるたびに頭を横に振る。
誰の子だと言えばいいのか。和樹さんの子なら、責任を取らせろという話になる。
あれから、お姉さんからは何の連絡もない。今頃二人は、想いを確かめ合って一緒にいるのだろう。それを壊すことはできない。
でも、現実としてこの世に、和樹さんの子供が生まれてくる。このまま、誰にも言わずに済むわけではない。
じゃあ、どう周囲に説明するのか。身体も心も蝕む吐き気の中で、結局、堂々巡りで行き詰まる。考えるたびに胃がキリキリと痛む。
そうして、やっとの思いで退職の日を迎えた。
「将来の社長夫人なんだから、普通なら、もっと早くにこうしていますよね。奥様が社内で働き続けるなんて、聞いたことない」
同僚の香山さんが、退職のはなむけの言葉としてそう言って来た。
「そうですよね」
言葉少なに愛想笑いをする。
「これまで、短い期間でしたがお世話になりました」
部署内で、最後の挨拶をした。
この一ヶ月、我ながらよく頑張ったと思う。何とか支障なく勤務し続けることができた。
もう、いつ体調を崩すかと怯えなくて済む――。
すべてを終えて、職場を後にしようとした時だった。
身体から、ふっと力が抜け落ちていく。そして、次の瞬間、スローモーションのように身体が崩れ落ちて床に座り込んだ。
「伊藤さんっ」
同僚の誰かが声を上げたのは耳に届く。
「大丈夫?」
「だ、だい……」
大丈夫だと言いたいのに、身体のどこにも力が入らない。退職の日を迎えたことにほっとして、この一ヶ月張り詰めに張り詰めていたものが切れてしまったのだろうか。
あと少しだったのに……。
「伊藤さん、大丈夫? 誰か!」
「病気では、ないんで――」
救急車でも呼ばれそうな勢いに、咄嗟にそんなことを口走っていた。
「でも……」
私の肩を支える川井さんの声が遠くなる。
「少し休めば、大丈夫、なの、で……医務室に――」
「香山さん、タクシー呼んで。病院に連れて行くわ!」
なんとか絞り出した声も川井さんにかき消された。
ほぼ連れ去られるみたいにしてタクシーに乗り込み、近くの総合病院に連れて行かれた。抵抗する気力も体力もなくて、諦めてなされるがままでいた。
原因は分かりきっている。妊娠のせいだ。
ふらふらになりながら診察を受けて、すぐにベッドに寝かされて。気づけば点滴の処置を施されている。あまりに辛くて限界で、私はそのまま眠ってしまった。
どれくらい眠っただろう。考えてみれば、妊娠してからというもの、熟睡なんてしたことがない。考え事ばかりと気持ち悪さで、すぐに目覚めてしまっていた。
重だるい瞼を押し上げる――。
「柚季……!」
聞き覚えのある、それでいて、聞こえるはずのない声がして。恐る恐る顔をそちらに向ける。どこか安心したような怒っているような顔で、私をじっと見つめる和樹さんがいた。
「どうして、ここに……?」
微睡んでいた意識が一瞬にしてはっきりする。慌てて身体を起こした。
「柚季の部署の人が、本社の僕のところに連絡してきた。柚季が体調崩して病院にいるって」
いつも優しげな目をしている和樹さんの雰囲気と全然違う。その目も表情も険しくて、どうしてだか、怒りを抑えているようにも見えた。
「……そうだったんですね。まだ私たちが離婚したことは知られていないから、和樹さんに連絡してくださったんだ……迷惑かけて、本当にすみません。でも、ただの過労で。点滴してゆっくり眠れたので、もうなんともないんです」
妊娠していることを知られるわけにはいかない。和樹さんとこれ以上一緒にいたくない。
「点滴が終わったら、もう帰っていいってお医者さんにも言われているので。もう大丈夫ですから――」
無理やりに笑顔を作り、ベッドから這い出る。表情をさっきから全然変えない和樹さんが、私の腕を掴んだ。
「はいそうですかって、そのまま帰すとでも思った?」
「え……?」
ベッド脇のパイプ椅子から和樹さんが立ち上がり、その身体が接近する。
「柚季は、妊娠してる。そうだな?」
その低い声に、思わず目を固く瞑る。
「柚季は、僕に隠したいみたいだけど。さっき医者に聞いたから、それ以上嘘をついても無駄だ」
知られてしまった――。
身体中から血の気が引いていく。
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