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第八章 二人を繋ぐもの
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しおりを挟む帰りぎわ、和樹さんが玄関で私に振り向く。
「ここは、仮住まいだね?」
「……はい」
少し見れば、気付かれてしまう。
「あと少し、ここに住んでいてもらえるかな。こっちで、すべて準備を整えてから柚季を迎えに来る」
「はい」
「くれぐれも、身体だけは大事にして。絶対に無理しないように。仕事はちょうど退職したから、ゆっくりできるね?」
「はい」
「また、何も食べられなくなったりしたら、すぐに僕に連絡すること。かなり弱っていたみたいじゃないか」
ろくに食べられず、栄養が取れていなかったせいで、倒れてしまったのだ。このままつわりが酷いと入院になると言われた。
「君が一人でまた倒れたりしたら困る」
「そうならないように、気をつけます」
和樹さんの手のひらが、そっと私の頬に触れる。
「……こんなになるまで一人で耐えて。顔色も良くないし、かなり痩せたみたいだ」
触れられたと同時に肩を強ばらせてしまう。ハッとしたように、すぐに和樹さんの手は離れた。
「君のご両親への説明も、僕の方から後日出向く。この先のことは何も心配しないで」
「はい」
「じゃあ、また連絡する――」
「あの……っ」
ドアを開けようとした和樹さんを呼び止める。
「ん?」
「お姉さんのことですけど、」
和樹さんが、身体をもう一度私に向けた。
「最近の様子はご存知ですか? つい先日、お姉さんから電話があったんです。その時も、和樹さんとのことで凄く思い詰めていたみたいでした。お姉さんのことが心配なんです」
「姉さんが、君に……?」
和樹さんが驚いたように目を見開く。
「お姉さん、誤解されていたようなんです。その……和樹さんが、私の元に行ってしまうんじゃないかって……」
そこで口籠もってしまう。結局、形としてはそうなることになってしまった。
「姉は君に何て言った?」
鋭くなった眼差しが向けられる。
「正直に言ってくれ」
「……和樹さんが戻って来なければ、生きていけないって。私のことを信じてるからと……」
思い切って打ち明けた。お姉さんの命に関わることだ。
「そんなことを……?」
和樹さんが唇を噛み締めて、苦しげに息を吐く。
「――事情は分かった。迷惑をかけてごめん。柚季には関係ないなんて言って、既に巻き込んでいたんだな。それで、君は余計に僕に何も言えなかった……」
何かを振り切るように私を見た。
「万が一、また姉から電話があっても一切出ないで。僕に任せてほしい。君に迷惑はかけない」
その言葉に頷く。私に言えることもできることも、もう何もない。
「姉のことで、柚季を悩ませたただろう。本当に、ごめん」
和樹さんが私に向かって頭を下げる。その姿に慌てふためく。
「和樹さん……っ!」
「こんな相手では、君が躊躇うのも当然だな。でも……」
頭を下げたままだから、表情が見えない。
「――ごめんな」
最後にそう告げて、和樹さんはすぐに部屋を出て行ってしまった。
疲れたな――。
考えなければならないことはたくさんあるはずなのに、身体に重くのしかかる疲労のせいで何も考えられない。
なのに、倒れ込むようにベッドに横たわっても全然眠れない。うまく頭は働かないのに、いろんなことが頭を駆け巡る。それを吹き飛ばそうと枕に顔を埋めても、消えてはくれなかった。
“柚季さん“
お姉さんの、私に微笑む顔。
“信じてもいいのよね――“
お姉さんの声。
“柚季さん……私、和樹のことを愛してるの“
私はお姉さんに嘘をついた。和樹さんの子供まで産んでしまう。和樹さんを奪うことになる。
和樹さんは全部任せてくれと言った。あんなにも精神的にまいっているお姉さんに、どう話すのだろう。
和樹さんの背負うものの重さに、ピンと伸びた広い背中を思い浮かべて胸が締め付けられる。
私のこと、これから産まれてくる子供のこと、そしてお姉さんのこと……。
せめて私だけでも、和樹さんの負担にならないように。もっともっと、強くならないと。自分を奮い立たせてもすぐにへし折られそうになるから、何度も何度も自分を叱咤する。
強くなりたい――。
もう、覚悟を決めたのだ。なのに、今頃になって、身体の震えが止まらない。
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