歩道橋銀河通信

早乙女純章

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          ◇

 歩道橋の中央には誰もいない。
『あめもん』や『みずあめ』のお父さんは、さっきの騒ぎから姿を消してしまっている。
 どこに行ちゃったんだろう。自分の子供たちが来たから逃げてしまったのかな。
 ぼくは踵を返して階段を降りた。
「おい、あいつ、七海じゃねーか」
「あっ、ほんとだー」
 声のする方に向いてみると、自転車に二人乗りしてるクラスメイトが見えた。その後ろにも自転車が一台続いている。
「まさかお前も相守川に行くのか?」
 こっちを見下すような口調で言ったのは、確か万木とかいう名前だったはず。同じクラスになったばかりでクラスメイトのこと、まだよく覚えていない。
 万木は、開いていた携帯電話をパタンと閉じた。ぼくは携帯電話なんて当然持っていないし、日向も持っていないそうだ。
「い、いや」とぼくは適当に答えた。
「なぁんだ」
 もう二人は誰だったかな。
「一人でぶらぶら歩いてるなんて、ただの暇人かよ」
 三人が歩道橋の上をちらと見る。
「へっ、へっ、七海もホームレスになるつもりかよ」
 一人が嘲笑うようにして言うと、「将来、リアルでなってそうで笑える」と他の二人も一緒になって笑い出した。
「…………」
 ぼくはむっとしたけど、今はこんな奴らを相手にしている場合じゃない。力を入れそうになる拳をぱくぱくと開いた。
「なんだよ、何とか言えよ。へっ、へっ」
 学校内ではあまり突っかかってこないけど、外でたまに会うと変に絡んできたがる輩だ。まったくなんて暇人なんだ。大迷惑だ。
「へっ、七海がホームレスになったら、オレたちが掃除してやるよ」
「掃除、掃除」
「なあ、早く見に行こうぜ」
「だな」
 三人はつまらなそうな顔をして行ってしまった。
 特に危害を加えてくるわけではなく、からかってくるだけなので、気にしなければどうということはないのだ。
 まったくやれやれだ。
 ぼくは軽く溜め息を吐いてから、もう一度歩道橋を見上げた。
「ん……?」
 あいつらの自転車はもう見えなくなっていた。相守川の方へ行ったようだ。
「掃除って、もしかしたら……あいつらホームレスのお兄さんに何かしたのかな?」
 今更追い掛けて問い質すこともできないし、したくない。ぼくはとにかく付近を捜してみることにした。
 上空ではヘリコプターの音がわずらわしい。交通量も人通りも少なくなっているのは救いだった。みんな相守川に行って『みずあめ』を見物しにいっているのかもしれない。走って人気のない場所を当たっていく。
 途中でぼくは日向のお父さんとお母さんを目にした。つい先日学校に来て先生たちと話しをしていたところを見たことがある。
 相守川とは別の方へ行くから『みずあめ』目的ではないようだ。だとすると、二人とも、自分たちの足で日向のことを捜しているんだ。。
 ぼくは『あめもん』に埋もれている日向のことを思った。
 お父さんもお母さんも、日向のことを忘れたりなんてしてないよ。大事に思ってくれているよ。
 今のぼくはとにかくホームレスのお兄さんを捜すことに専念しなければいけない。廃れた公園なども見て回り、ホームレスが多く野宿しているという新名川の河川敷までやってきた。
 傾斜になった野原で独りぼんやりと紫色の夕焼け空を見つめている男の人がいた。
「いた。いてくれた」
 あの立ち姿は間違いない。背筋も少し丸まっている。いつもの調子で立っているから怪我を負ったとかでもなさそうだった。
 ぼくの心配は杞憂に終わった。
 さすがにあのクラスメイトたちがそこまで過激なことをするはずもないか。
「良かった」
 膝に手を当てて、息を整えた。
 あの人は、自分の子供たちがはるばる宇宙の彼方から捜しにやってきているということに気づいているのだろうか。いや、いないように見える。見つめている空は全く正反対の方向だ。世界にたった独り、みたいに孤独感を隠さずに立っているから。
 しまった。サイダーは一本しか持ってない。しかも半分飲んでしまっているし、走ってきたから開けたらすごい音が鳴るかもしれない。宇宙からやってきたとしたらサイダーなんて知らないだろうし、キャップを開けた途端にプシュッと大きな音がして驚かせてしまったら、飲んでくれないかもしれない。
「仕方ない」
 息を整えたぼくは、まず自販機を捜して走った。こういう時に限って近くに見当たらない。
「でも……もしこのままスムーズにいって、すべて解決できちゃったら……日向も家に帰っちゃうんだよな……」
 そんなことをふと思うと、走る速度が落ちていって、鈍い歩みに変わった。
「その時、ぼくは……」
 サイダーを売っている自販機を見つけられたけれど、ぼくは下を向きたくなった。
 一連の問題を解決させることが、ぼくにとって本当にいいことなんだろうか。
「くっ……」
 かぶりを振った。
 こんなことを考えている自分が嫌になる。
「今更じゃないか……自分のこと考えたって……しょうがないよ……何とかしないと、どの道、大変なことになるんだ。もし……」
 ぼくだけが元の生活に戻ったとしても、それはそれで仕方ないじゃないか。
 自分を励ますために、無理にでも、笑顔を作ってみせた。
 サイダーを買う。ゴトンと落ちてくる。
 今度こそは、とサイダーを手にしてホームレスのお兄さんがいるところに戻ってきた。
 その背中に近づいていく。見ず知らずの人に声を掛けるのはとても緊張する。手や足が勝手に震えてしまう。
 サイダーの心を信じるんだ、景太!
 ぼくは必死に自分に喝を入れて歩を進めた。
「あ、あのぅ」
 近づいて、恐る恐る声を掛けた。
 声が上ずってしまった。きちんと声が届いたのか分からない。
 ホームレスのお兄さんがゆっくり振り向いてくる。
 あああ、こっちに気づいたよ!
 ぼくは内心ますます慌ててしまった。何かが変わってしまいそうな、そんな重要な扉を開く鍵穴に、キラキラの鍵を差し込んだみたいな感じだ。
 けれど、顔だけは微笑んでみせて、震える手で買ったばかりの冷えたサイダーを差し出した。
「さ、サイダー、飲みませんか?」
 言葉は出たけれど、頬が引きつってしまった。不自然な声の掛け方になってしまったかもしれない。
「…………」
 ホームレスのお兄さんはこっちをじっと見つめてくる。
 力のない目をしている。日向の言うように厚い雨雲に心が覆われているのが分かる。頬に軽い傷跡があった。服もさっき見た時より汚れが目立った。『みずあめ』騒動のどさくさに紛れて誰かに乱暴された跡だ。
 さっきのクラスメイトの顔が過ぎった。
 でも、今はそれどころじゃない。
「あ、あのぅ、サイダー……」
「…………」
「…………」
「…………」
「お、おいしいんですよ」
「…………」
 お兄さんはやっぱり無反応で、一分くらいが経ったかもしれない。
 ぼくは居たたまれなくなっていた。そりゃあいきなり見ず知らずの人からサイダーを勧められるなんて、かなりおかしな光景なんだろうとは思う。
 一体ぼくは何をやっているんだろう。
「君は……」
 お兄さんがやっと口を開いてくれた。
 ぼくの心に再び勇気の火が灯り、もう一度、「サイダー、飲みませんか?」と呼び掛けた。
「さいだー?」
 ぼくの差し出したサイダーを、お兄さんは生まれて初めて見るもののようにじっと見つめて、一度首を傾げたけれど、受け取ってくれた。
 ぼくは今とばかりに説明する。
「それ、ふたをこう開けてくださいね」
 ぼくはキャップを指差して、反時計回りに回すジェスチャーをした。
「んっ」
 お兄さんは適度に力を入れて、キャップを無事に開けることができた。
 プシュッと活きのいい音がして、お兄さんは少しびっくりしていた。
「こう、飲んでくださいね」
 ぼくも自分用のサイダーをカバンの中から取り出して、手本を見せた。
 ぼくの喉をサイダーが流れて、体の疲労感と緊張していた心を潤してくれる。
 お兄さんもキャップを開けて、サイダーを口にした。
「――んぐ!? ん、ぷはー、おいしいっ!」
 お兄さんの表情に笑顔の花が咲いた。
「ね、おいしいでしょう!」
「うん、こりゃあ、おいしいよ! なんなんだ、これ?」
 お兄さんはごくごくと気持ちいいくらい喉を鳴らしてサイダーを飲んでくれている。
「すげえなぁ、心がすっきりするよ。こんなものが世の中にあるんだなぁ。おれ、知らなかったよ」
 炭酸の泡に見入ったりして、しきりに感心している。
「さすがに知らない星だけあるなぁ」と洩らしたその言葉をぼくは聞き逃さなかった。
「ぼく、七海景太って言います」
 ぼくは簡潔に自己紹介を済ませてから、「あの」と改まって尋ねた。
 今なら自然に聞き出せる気がした。ただいきなり『あめもん』や『みずあめ』のことを伝えても分からないと思ったので、
「どうして毎日、歩道橋に佇んでいるんですか?」と切り出してみた。
「ん?」と、サイダーに夢中だったお兄さんが顔を向けてくる。
「ぼく、知っているんですよ、あなたがこの星の人間じゃないってこと」
 お兄さんの目がたちまち丸くなった。
 結構感情が表に出やすい性格みたいだ。
「あ……ははっ。そっかぁ、おれの正体が分かる人か。いやぁ、すごい目の持ち主がこの星にはいるもんなんだなぁ」
 あめもんに喋り方が似ている。
 お兄さんはばつが悪そうに頭を抱えて、髪をくしゃくしゃと掻き、ペットボトルを胸に抱えてから、いつもの少し背中を丸めた姿勢で夕暮れの空を見つめ始めた。
「そうなんだよ。おれはこの星の人間じゃあないんだ。宇宙をただよう小さな星だったんだよ。ただの石っころみたいな星なんだけどな。何百年、何千年と広い広い宇宙をたった独りでただよい続けてきたんだよ」
「はい……」
「ただの石っころみたいな星なんだけどな。何百年、何千年と広い広い宇宙をたった独りでただよい続けてきたんだよ」
「何百年、何千年……」
 ぼくよりもずっと長く生きている人なんだ。
「おれなぁ、その独り旅の中で、沢山の出会いと別れを経験してきた。でも、誰一人としておれの側にい続けてくれる人なんていやしなかった。友達ができてもな、みんなどんどん先に朽ち果てていっちまうんだ。一緒に生きてくれる人なんて誰一人としていなかった」
 ぼくの想像をはるかに超えた淋しさを我慢するように笑って、それから堰を切ったように話し続けた。
「その上、宇宙はあまりにも広すぎて、その中を流れてる自分っていうのは何なのか、いっつも考えてた。どこに行くのかも全く分からなかった。いくらただよっていても、真っ暗な宇宙でおれを知っているものは誰もいない。おれは自分の存在が宇宙の中で本当に必要なもんなのか、いよいよ分かんなくなっちまってなぁ。おれはおれを消したくなったんだ」
 地球よりずっとずっと広くて暗い世界。そこには自分独りしかいなくて、行く場所も自分で決められない。ただどこか知らない場所に永遠と流されるだけ。
 お兄さんの味わってきた孤独はぼくの心では耐えられそうもない。
 でも、この人は、何百年、何千年……と、気の遠くなるような年月だ。
 この人は、なんていう世界で生きてきたのだろう。
「ある時、地球っていう綺麗な星を見つけて、人間っていう生き物を知って、あこがれを抱いちまったんだ。一緒に生きている仲間がたくさんいる。さびしさなんてない星だって思ってさ、うらやましくって、おれは星である自分から抜け出して、自分を自分でなくして、地球に降り立ったんだ」
 ぼくはこの人にどんな言葉を掛けてあげたらいいのか、まったく分からなくなった。
 この人に比べて、ぼくはあまりにも短い年月しか生きていなくて、抱えてきた孤独も、ちっぽけだ。自分の部屋の天井に映し出した宇宙だって、すごくちっぽけなものだ。
「あの歩道橋とかいう橋から、人が行き交ったり車とかいうもんが交差して流れる様子を眺めているとな、人は必ずどこかで誰かとつながってて、世界は絶え間なく動いてる、なんて毎日思うわけなんだ。でも、人間でないおれはやっぱり誰にも相手にされなくって、結局おれはどこに行っても独りで、しかもさっきみたいに邪魔者扱いまでされて、ますますおれなんてどこの世界でも必要とされてないんだなぁなんて思い知らされちまったわけなんだ」
 ぼくはとてもやるせない気持ちになって、首を何度も横に振った。
 人と人はそんなにつながりがあるわけじゃない。この星は淋しさであふれてる。
 ぼくは何故だか悔しさとか情けない気持ちで一杯になって、熱くなった目から涙を流していた。
 なんでだろう。ぼくの心から水があふれて止まらなくなる。
「ふぐっ……ふえ……」
 涙をふいても、止まらない。嗚咽をこらえるのに必死だった。
「くっ……うっく……」
 人間なんてだまし合いばかり、傷つけ合ってばかりなんだよ。人と人のつながりなんてすごく薄っぺらいものなんだよ。忘れられた人間は、ずっと忘れ去られたままなんだよ。
 この世に存在しているって、何なんだろう。淋しさを知るためだけにぼくらは存在しているのだろうか。
「……で、でも、このままずっとこうしているわけにもいかないでしょう?」
 涙を拭いながら言ってみた。
「はは、それもそうだよなぁ。どうせ誰にも目を向けられない石ころなんだから、どこかちょうどいい場所で永遠に眠り続けるのもいいかもな」
 ちがう! この世から消えてはいけないんだ。お兄さんは、ぼくと違って独りじゃないんだから。絶対に消えちゃいけないんだ!
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