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第三章 我が唯一は
17.混血の竜(SIDE セスラン)
レイノーの言ったとおり、セスランへの虐めは到着した翌日から始まった。
朝食の席で、大公夫人が口を開いた。
「なんだか臭いわね」
わざとらしくハンカチで口元を覆って、白い眉間にしわを寄せる。
桃色に近い赤い髪を綺麗に結い上げた彼女は、セスランの母より少しばかり年上だろうか。
その白い手は、水仕事など一切していないのだろう。
シミひとつない。
セスランの母とはずいぶん違う。
母の手はかさかさに荒れていて、指先にはひび割れまであった。
思い出すと、懐かしく愛しくて帰りたくなる。
「獣のにおいだわ。わたくしに獣と一緒のテーブルにつけと、そうおっしゃいますの?」
ちらとセスランに赤色の瞳を向けて、夫人は嫌そうに視線を逸らした。
セスランとよく似た容貌の男に、その視線をぴたりとあてる。
そして言い募る。
「昔ゲルラに負けた野蛮な獣の末裔ですのよ? 黄金竜にどう申し開きなさいますの。即刻善きようになさいませ」
それでも表情ひとつ変えず、無言で食事を続ける男はゲルラ大公だろう。
夫人の言葉遣い、なにより彼の容貌がセスランそっくりだったから、そう察した。
「大公様じきじきになさるのがお嫌でしたら、わたくしがいたしましてよ? お命じくだされば、すぐにでもこの獣を……」
「獣とは、だれのことか」
静かな低音の声が、夫人の口を塞いだ。
「ここにそのようなものは、おらぬ」
美しく化粧した顔を歪ませて、夫人はセスランを睨みつける。
「どうしても獣を置くとおっしゃるのでしたら、わたくしが退出いたしますわ。これからは部屋で食事をいただきます」
貴婦人らしくもない荒々しさで、がたんと音をたてて立ち上がる。
すると大公の翡翠の色をした瞳が、初めて彼女に向けられた。
「はっきり言っておく。そこにいるセスランは、わがゲルラの跡継ぎだ。おまえは当主の妻にすぎぬ。今後も無礼を働くようであれば、ただではおかぬぞ」
背中に氷の刃をあてられたような、冷たい殺気にセスランはぞくりとする。
ゲルラ大公は、夫人を好きではないのか。
人づてに聞いた話だと、ゲルラは竜族の中でも原始の竜に最も近い血の一族だという。
その竜は白虎と同じで、たった一人の伴侶をそれはそれは大切にするのだと聞いた。
この意地悪な夫人がゲルラ大公の妻ならば、大公はどうしてこんなに夫人に冷たいのだろう。
「当主の私に異を唱えるのなら、かまわぬ。実家へ戻ると良い。去り状なら、いつでも書いてやる」
さらりと酷いことを口にして、何事もなかったかのように大公は食事を続けた。
これが竜の夫婦なのか。
聞いた話とずいぶん違うと驚きはしたものの、セスランに何かを聞いたり言ったりできるはずもない。
出された朝食の皿に視線を落とし、ただ黙々と食べ物を口に押し込んだ。
大公の一言はよく効いたようで、それ以降夫人があからさまにセスランに悪口を浴びせることはなくなった。
むろん彼女のセスランへの気持ちに変化があったわけではない。
裏ではいろいろと意地悪は続いた。
当主夫人の思惑を察した使用人たちが、夫人の思惑に従ったとしても別に不思議ではない。
ある日は、パンの中に黒い小さな虫が入っていた。
また別の日には、スープに大量の塩が入っていた。
生焼けの魚が出されたり、寝台に画びょうが隠されていたり……。
幼稚で低俗な嫌がらせが、繰り返し繰り返しセスランに降りかかる。
セスランは、そのすべてを表情ひとつ変えずに受け流した。
この程度のいやがらせなら、白虎の里よりよほどマシだったからだ。
ここでは少なくとも飢えることだけはない。
たとえパンに虫が入っていたとして、それがどうしたと思う。
そんなことは気にもならない。
白虎の里では普通のことだ。
白いふわふわのパンなど、ここに来るまで見たこともない。
虫入りのパンだとしても、食べるものがあるだけマシだ。
むしろありがたい。
けれどどうしても許せないことが、ひとつだけあった。
「母親は蛮族の、それも端女ですってね。おおかた妾にでもなれば、尊い身分になれるとでも思ったんでしょうけど。さすがに生まれに相応しい、卑しい性根よね」
大公夫人付きの侍女たちが、薄ら笑いをうかべて言う母への侮辱だった。
仮にも跡継ぎと認められたセスランに、侍女風情が平気で無礼を働けるはずもない。
それができるのは、大公夫人の後ろ盾があるからだ。
高位の貴族なら使用人の独り言など、聞こえないフリをするものだ。
その流儀を逆手にとって、ひどい侮蔑の言葉をセスランにぶつけてくる。
自分自身のことなら、何を言われても良かった。
見えないところで、熱いスープをかけられたり、重いワゴンをぶつけられたり、高いところから植木鉢を落とされたり。
そんなことはなんでもない。
だが母のことは違う。
あの優しく美しい母を、侮辱されるのだけは許せなかった。
「白虎の王族を端女呼ばわりとは、おそれいる。おまえたちの身分は、たしか侍女だったように記憶しているが?」
反撃されるとは思わなかったのだろう。
それまでセスランを侮って見下していた彼女らは、あきらかに動揺した。
「じ……侍女のおしゃべりを、おとがめになるのですか?」
「私の母を侮る言葉を、おしゃべりと片づけるには無理があるな。一度だけ見逃そう。次はない」
本当は一度たりとも見逃したくはなかったが、一罰百戒という。
これが噂になって、母を侮る輩が減ればそれで良いと思った。
以降、さすがにセスランの目の前で母を侮辱するものはいなくなった。
相変わらず「端女の息子」「獣の末裔」と陰ではさんざん言われているらしいが。
けれどレイノーの言うとおり、これもセスランが当主になるまでのこと。
当主になれば、逆らうことのできる者はいなくなるのだ。
セスランは自分に言い聞かせて、屋敷中の悪意を無視して過ごした。
十年が経った。
ある日、セスランに二度目の転機が訪れた。
黄金竜の泉地からの召喚だった。
火竜の聖使になれと。
そう言われた。
朝食の席で、大公夫人が口を開いた。
「なんだか臭いわね」
わざとらしくハンカチで口元を覆って、白い眉間にしわを寄せる。
桃色に近い赤い髪を綺麗に結い上げた彼女は、セスランの母より少しばかり年上だろうか。
その白い手は、水仕事など一切していないのだろう。
シミひとつない。
セスランの母とはずいぶん違う。
母の手はかさかさに荒れていて、指先にはひび割れまであった。
思い出すと、懐かしく愛しくて帰りたくなる。
「獣のにおいだわ。わたくしに獣と一緒のテーブルにつけと、そうおっしゃいますの?」
ちらとセスランに赤色の瞳を向けて、夫人は嫌そうに視線を逸らした。
セスランとよく似た容貌の男に、その視線をぴたりとあてる。
そして言い募る。
「昔ゲルラに負けた野蛮な獣の末裔ですのよ? 黄金竜にどう申し開きなさいますの。即刻善きようになさいませ」
それでも表情ひとつ変えず、無言で食事を続ける男はゲルラ大公だろう。
夫人の言葉遣い、なにより彼の容貌がセスランそっくりだったから、そう察した。
「大公様じきじきになさるのがお嫌でしたら、わたくしがいたしましてよ? お命じくだされば、すぐにでもこの獣を……」
「獣とは、だれのことか」
静かな低音の声が、夫人の口を塞いだ。
「ここにそのようなものは、おらぬ」
美しく化粧した顔を歪ませて、夫人はセスランを睨みつける。
「どうしても獣を置くとおっしゃるのでしたら、わたくしが退出いたしますわ。これからは部屋で食事をいただきます」
貴婦人らしくもない荒々しさで、がたんと音をたてて立ち上がる。
すると大公の翡翠の色をした瞳が、初めて彼女に向けられた。
「はっきり言っておく。そこにいるセスランは、わがゲルラの跡継ぎだ。おまえは当主の妻にすぎぬ。今後も無礼を働くようであれば、ただではおかぬぞ」
背中に氷の刃をあてられたような、冷たい殺気にセスランはぞくりとする。
ゲルラ大公は、夫人を好きではないのか。
人づてに聞いた話だと、ゲルラは竜族の中でも原始の竜に最も近い血の一族だという。
その竜は白虎と同じで、たった一人の伴侶をそれはそれは大切にするのだと聞いた。
この意地悪な夫人がゲルラ大公の妻ならば、大公はどうしてこんなに夫人に冷たいのだろう。
「当主の私に異を唱えるのなら、かまわぬ。実家へ戻ると良い。去り状なら、いつでも書いてやる」
さらりと酷いことを口にして、何事もなかったかのように大公は食事を続けた。
これが竜の夫婦なのか。
聞いた話とずいぶん違うと驚きはしたものの、セスランに何かを聞いたり言ったりできるはずもない。
出された朝食の皿に視線を落とし、ただ黙々と食べ物を口に押し込んだ。
大公の一言はよく効いたようで、それ以降夫人があからさまにセスランに悪口を浴びせることはなくなった。
むろん彼女のセスランへの気持ちに変化があったわけではない。
裏ではいろいろと意地悪は続いた。
当主夫人の思惑を察した使用人たちが、夫人の思惑に従ったとしても別に不思議ではない。
ある日は、パンの中に黒い小さな虫が入っていた。
また別の日には、スープに大量の塩が入っていた。
生焼けの魚が出されたり、寝台に画びょうが隠されていたり……。
幼稚で低俗な嫌がらせが、繰り返し繰り返しセスランに降りかかる。
セスランは、そのすべてを表情ひとつ変えずに受け流した。
この程度のいやがらせなら、白虎の里よりよほどマシだったからだ。
ここでは少なくとも飢えることだけはない。
たとえパンに虫が入っていたとして、それがどうしたと思う。
そんなことは気にもならない。
白虎の里では普通のことだ。
白いふわふわのパンなど、ここに来るまで見たこともない。
虫入りのパンだとしても、食べるものがあるだけマシだ。
むしろありがたい。
けれどどうしても許せないことが、ひとつだけあった。
「母親は蛮族の、それも端女ですってね。おおかた妾にでもなれば、尊い身分になれるとでも思ったんでしょうけど。さすがに生まれに相応しい、卑しい性根よね」
大公夫人付きの侍女たちが、薄ら笑いをうかべて言う母への侮辱だった。
仮にも跡継ぎと認められたセスランに、侍女風情が平気で無礼を働けるはずもない。
それができるのは、大公夫人の後ろ盾があるからだ。
高位の貴族なら使用人の独り言など、聞こえないフリをするものだ。
その流儀を逆手にとって、ひどい侮蔑の言葉をセスランにぶつけてくる。
自分自身のことなら、何を言われても良かった。
見えないところで、熱いスープをかけられたり、重いワゴンをぶつけられたり、高いところから植木鉢を落とされたり。
そんなことはなんでもない。
だが母のことは違う。
あの優しく美しい母を、侮辱されるのだけは許せなかった。
「白虎の王族を端女呼ばわりとは、おそれいる。おまえたちの身分は、たしか侍女だったように記憶しているが?」
反撃されるとは思わなかったのだろう。
それまでセスランを侮って見下していた彼女らは、あきらかに動揺した。
「じ……侍女のおしゃべりを、おとがめになるのですか?」
「私の母を侮る言葉を、おしゃべりと片づけるには無理があるな。一度だけ見逃そう。次はない」
本当は一度たりとも見逃したくはなかったが、一罰百戒という。
これが噂になって、母を侮る輩が減ればそれで良いと思った。
以降、さすがにセスランの目の前で母を侮辱するものはいなくなった。
相変わらず「端女の息子」「獣の末裔」と陰ではさんざん言われているらしいが。
けれどレイノーの言うとおり、これもセスランが当主になるまでのこと。
当主になれば、逆らうことのできる者はいなくなるのだ。
セスランは自分に言い聞かせて、屋敷中の悪意を無視して過ごした。
十年が経った。
ある日、セスランに二度目の転機が訪れた。
黄金竜の泉地からの召喚だった。
火竜の聖使になれと。
そう言われた。
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