その乙女、天界の花園より零れ墜ちし者なれば ~お昼寝好き天女は、眠気をこらえながら星彩の柄杓で悪しき種を天の庭へ返す~

國居

文字の大きさ
50 / 80
四粒目 結縁花 ~『恋は思案の外』の巻~

余話・五話目 放浪詩人・思阿、鐘陽の酒楼で謎の占い師と遭遇す

しおりを挟む
「お若い方、向かいの席は空いておりますかな?」

 突然、声をかけられて、一人のんびりと酒を楽しんでいた思阿シアは慌てた。
 店内を見回せば、いつの間にか、さほど広くない酒楼は満席となっていて、座れる場所があるのは自分の卓ぐらいだった。
 空になった酒器や小皿を自分の方に引き寄せ、向かい側に場所を作った。

「どうぞ! 俺は一人だし、そろそろ帰ろうかと思っていたところです」
「ありがとうございます。お一人とは好都合! わたしも一人ですから、お急ぎでなかったら、しばらくお付き合い願えませんか? どうやら、いける口のようですし――」

 向かいの席に座った男が、盃を傾ける仕草をしながら言った。
 思阿のことを、「お若い方」と呼んだが、男は思阿とそう違わない年頃のように見えた。
 黒みを帯びた緑色の長い髪を背に垂らし、ゆったりとした水色の衣をまとっていた。
 眉目秀麗というのだろうか、すらりと背が高く、整った顔立ちをしていた。
 役者か曲芸師かな――と、思阿は思った。

 酒楼の給仕の女たちが、この卓の方を見ては、ひそひそと言葉を交わしている。
 男の元へ酒器を運んできた女は、あからさまに秋波を送っていた。
 女たちは、思阿も含めてで、この卓が気になっているのだが、ちょっとばかり鈍感な彼は、そんなことには考えも及ばない。
 彼は、自分の向かいに座った男の美丈夫ぶりに、ただただ感心していた。

「俺は――、思阿と申します。今は、さるお方に用心棒として雇っていただいておりますが、旅をしながら詩作の修業に励んでいます」

 思阿が、男の盃に酒を満たしながら、自分の身の上を語ると、男はうなずきながら、グビグビとそれを飲み干した。こちらも「いける口」のようである。

「旨い酒でございますなぁ! わたしは、泳跳ヨンチャオと申します。卜占ぼくせんの修業をしております。あなたと同じように旅をしていまして、一万人を占ったら修業を終え、師の元へ戻れることになっています」
「一万人とは、また、大変な数ですね。何十年とかかるのではないですか?」
「はい。ですから、なにがしかの縁ができた方には、皆様ご協力をいただいております」
「ということは、俺のことも占いたいと?」

 泳跳は、にっこり笑って「はい」と答えた。
 思阿は、しばしの間、逡巡する。

(思阿というのは、偽名だ。旅の詩人というのも、真実ではない。用心棒は確かに頼まれたが、雇い主は俺が志願した本当の理由を知らない。こんな嘘まみれの俺を占うことに意味があるのだろうか?)

 占うとなれば、生まれた年や場所、親の仕事や名前など、占い師はいろいろと聞きたがる。中には、そうやって聞き出したことから推理して、もっともらしくご託宣めいたことを言うインチキ占い師もいると聞く。
 この男は、どうだろうか? 嘘を聞いて、嘘を占うのだろうか?
 手酌で盃を重ねていた泳跳は、思阿と目が合うと、さらに笑みを深めて言った。

「何も面倒なことはありません。わたしは、少しだけ手のひらに触れさせていただくだけで、あらゆることを占います。残念ですが、いろいろと嘘を並べて、わたしの力を試そうとする人もおりますのでね、お話は一切伺わず占うこともございます」
「そ、そうなんですか?」

 自分の腹の内を見透かされたような気がして、思阿はどぎまぎした。
 泳跳は、つまみの炒り豆を口に運びながら、彼の返事を待っていた。
 思阿は、一口分だけ盃に残っていた酒を勢いよく呷ると、両手を差し出しながら言った。

「わかりました。どうぞ、占ってみてください」
「ありがとうございます、それでは、早速――」

 泳跳のしなやかで長い指が、思阿の大きな手を優しく包んだ。
 泳跳は、手から何かを読み取ろうとするかのように、思阿の指先や手のひらを推したりさすったりした。

「用心棒をしていらっしゃるとおっしゃっておられましたね。なるほど、弓も剣も槍もかなりの腕前のようだ。詩人の手というよりは、武芸者の手、または、軍人いくさびとの手でございますな」

 こんなのは、占いでも何でもないぞ――と、思阿は思う。
 彼の手をよく観察すれば、様々な武器の鍛練に励んだ者の手であることは容易にわかるはずだ。思阿は、ちょっとがっかりした。
 思阿が、もう、十分ですと言って、手を引き抜こうとしたところ、泳跳は、それを拒むように力を込めて思阿の手を握り、からかうような調子で言った。

「武術には長けた手ですが、残念ながら、女人の扱いについては、たいそう不慣れな手でございますな!」
「へっ?! い、いったい、な、何を?!」
「あなたは、不器用すぎるようです。剣を握るように女人の手を握っても思いは通じません。女人は、今のあなたに触れられても、疎ましく思うだけでしょうな」
「えっ、う、疎ましく……、思うだけ……」

 急に力が抜けた思阿の手を、泳跳は、宥めるようにポンポンと軽く叩いた。
 思阿は、ひどく不安な気持ちになった――。

 思阿は、女神の下知に従い、人間界に疎く、いかにも頼りない天女を見守り手伝うために下天した。
 それは、天帝軍の将軍である自分にとって、あまりにくだらない務めに思えた。
 しかし、そんな気持ちは、たちまち払拭された。

 天女の任務は、天空花園から人間界に落ちた種を天界へ戻すことだが、心根の優しい彼女は、天界の薬水を用い人々を窮地から救うことにも熱心だった。
 天界や人間界を魔軍から守るために戦い続けてきた思阿には、その心意気がたいそう好ましく思えた。

 もちろん、どんなに困難でも、自分の失敗の償いをしなければならない天女に、思阿の正体を明かして、あてにされるようになってはまずい。
 思阿は、あくまで放浪の詩人で、高燕紅ガオヤンホンに雇われ彼女にあてがわれた、人間の用心棒として振る舞わなくてはならないのだ。

 天女は、思阿を旅の仲間として頼りにし、どんなときも屈託なく接してくるが、近頃はそんな彼女の態度が、彼の心を落ち着かなくさせることがある。
 日常の何気ないふれあいの中で、天女を好ましく思う気持ちを伝えたくなることがある。
 それなのに、無骨な手ゆえに、触れても疎ましく思われるだけだとは――。

「ど、どうしたら、女人に疎まれない手になれますか?」
「それは、難しいですな。手を取り替えるわけにはいきませんのでね」
「それじゃあ、俺は――」

 思阿は、そこでハッとした。
 行きずりの謎めいた占い師に、あやうくいろいろと打ち明けてしまうところだった。
 思阿は、急いで懐から銭入れを取り出し、泳跳に礼を言って見料を払うことにした。
 しかし、泳跳はそれをことわり、「もう一つだけ」と言って、思阿の手の甲に触れた。

「あなたの心には、すでに恋情を感じる女人がいるのではありませんか?」
「あっ、いや、そういうわけでは――」
「ああ、そういう態度がいけません! もっと、素直になるべきです。きちんと思いを伝えてみなさい。そうすれば、女人はあなたに恋情を抱き、全てを愛しく思うようになって、その手すら好ましく感じるようになるはずです。『屋烏の愛』という言葉もありますからね」
「『屋烏の愛』!?」

 泳跳は、それ以上何も言わなかった。
 謎めいた笑みを浮かべ酒代を卓に置くと、呆然とした思阿を残して酒楼を出て行った。
 酒楼を出た泳跳は、繁華街の外れまで来ると、風にそよぐ柳の枝に包まれるようにして、どこへともなく姿を消した。小さなつぶやきとともに――。

「さて、どうするかな、思阿よ?」

 ◇ ◇ ◇

 宿屋の寝台で、気持ちよさそうに深緑シェンリュが眠っている。
 その傍らに、先ほどまで酒楼で泳跳と名乗っていた男が立っていた。

「約束の刻限は過ぎたのに、よく寝ておるのう。やはり、わしが起こしてやらねばならぬようじゃな……。おっと、このままの姿では、いろいろとややこしくなってしまうわい。元に戻るか!」

 泳跳は、ひょいっと跳ねると、小さな青蛙に変身した。
 そして、深緑の枕元へ飛び上がり、その耳元に大きな声で呼びかけた。

「これ、深緑! そろそろ起きて、月季庭園へ赴く時刻じゃぞ! 早く務めを果たすのじゃ!」
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

人質5歳の生存戦略! ―悪役王子はなんとか死ぬ気で生き延びたい!冤罪処刑はほんとムリぃ!―

ほしみ
ファンタジー
「え! ぼく、死ぬの!?」 前世、15歳で人生を終えたぼく。 目が覚めたら異世界の、5歳の王子様! けど、人質として大国に送られた危ない身分。 そして、夢で思い出してしまった最悪な事実。 「ぼく、このお話知ってる!!」 生まれ変わった先は、小説の中の悪役王子様!? このままだと、10年後に無実の罪であっさり処刑されちゃう!! 「むりむりむりむり、ぜったいにムリ!!」 生き延びるには、なんとか好感度を稼ぐしかない。 とにかく周りに気を使いまくって! 王子様たちは全力尊重! 侍女さんたちには迷惑かけない! ひたすら頑張れ、ぼく! ――猶予は後10年。 原作のお話は知ってる――でも、5歳の頭と体じゃうまくいかない! お菓子に惑わされて、勘違いで空回りして、毎回ドタバタのアタフタのアワアワ。 それでも、ぼくは諦めない。 だって、絶対の絶対に死にたくないからっ! 原作とはちょっと違う王子様たち、なんかびっくりな王様。 健気に奮闘する(ポンコツ)王子と、見守る人たち。 どうにか生き延びたい5才の、ほのぼのコミカル可愛いふわふわ物語。 (全年齢/ほのぼの/男性キャラ中心/嫌なキャラなし/1エピソード完結型/ほぼ毎日更新中)

異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる

七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。 だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。 そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。 唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。 優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。 穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。 ――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。

希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう

水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」 辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。 ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。 「お前のその特異な力を、帝国のために使え」 強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。 しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。 運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。 偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!

中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています

浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】 ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!? 激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。 目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。 もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。 セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。 戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。 けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。 「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの? これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、 ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。 ※小説家になろうにも掲載中です。

【完結】奇跡のおくすり~追放された薬師、実は王家の隠し子でした~

いっぺいちゃん
ファンタジー
薬草と静かな生活をこよなく愛する少女、レイナ=リーフィア。 地味で目立たぬ薬師だった彼女は、ある日貴族の陰謀で“冤罪”を着せられ、王都の冒険者ギルドを追放されてしまう。 「――もう、草とだけ暮らせればいい」 絶望の果てにたどり着いた辺境の村で、レイナはひっそりと薬を作り始める。だが、彼女の薬はどんな難病さえ癒す“奇跡の薬”だった。 やがて重病の王子を治したことで、彼女の正体が王家の“隠し子”だと判明し、王都からの使者が訪れる―― 「あなたの薬に、国を救ってほしい」 導かれるように再び王都へと向かうレイナ。 医療改革を志し、“薬師局”を創設して仲間たちと共に奔走する日々が始まる。 薬草にしか心を開けなかった少女が、やがて王国の未来を変える―― これは、一人の“草オタク”薬師が紡ぐ、やさしくてまっすぐな奇跡の物語。 ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました

いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。 子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。 「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」 冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。 しかし、マリエールには秘密があった。 ――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。 未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。 「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。 物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立! 数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。 さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。 一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて―― 「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」 これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、 ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー! ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

処理中です...