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七粒目 野茨闇 ~『落花流水の情』の巻~
その九 金陽宮に異変です! いよいよ最後のお務めの始まりですね!
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わたしは、手を繋いで送ってきてくれた思阿さんと、天藍宮の門の前で別れた。
思阿さんの姿が、曲がり角に消えるまで、ずっと手を振り続けた――。
鼻歌交じりで門をくぐると、宮内が妙に賑やかなことに気づいた。
中庭の真ん中で、女官たちが、にこにこしながら貞海様をとり囲んでいた。貞海様の腕には、元気そうな赤子が抱かれていた。
「ああ、おかえりなさい、深緑さん! 皇子様ですよ! 劉星様が、乳母どのと一緒にいらしているのです!」
奥から女官と一緒に、昼餐の支度を整えて出てきた涛超さんが、嬉しそうな顔で教えてくれた。
貞海様は、たいそう慣れた様子で皇子をあやしていた。
前世では、皇帝――浩宇さんを育て上げたのだから当然よね。
おっと、これは、女官たちには秘密だけど――。
涛超さんは、劉星皇子と貞海さんを愛しげに見つめながら言った。
「蘭玲さんが病に倒れたのち、皇子様と乳母どのが預けられている金陽宮を、貞海様と一緒に訪ねたのです。
貞海様が抱き上げましたら、皇子様はたいそう喜んで、離れなくなってしまいまして――。置いて帰ろうとしましたら、もう、火がついたように泣き出して大変でした。それで、陛下のお許しをいただいて、こちらへお連れすることになりました」
「まあ、そんなことが――」
皇子は、前世のつながりで考えれば、貞海様の孫に当たるわけだものね。
ほかの誰に預けるよりも貞海様に預ければ、皇帝としては安心よね。
もしかしたら、皇子も何かを感じ取って、貞海様から離れたくないと泣き出したのかもしれない――。
◇ ◇ ◇
昼餐の後、突然、冷たい風が吹き込んできた。
先ほどまで晴れ渡っていた空に、黒い雲が広がりつつあった。
虫籠の中の夏先生が、「ゲロロッ」と一声低く鳴いた。
居間の扉を閉めようと、わたしが立ち上がったとき、門の方から誰かが中庭に駆け込んできた。先ほど典薬寮で話を聞いた女官だった。
衣を乱した女官は、息を荒げながら呆然として中庭に立っていた。
「ど、どうしたんですか?!」
急いで近づき声をかけると、女官は唇を震わせながら答えた。
「ああ、あなたは、典薬寮の――」
「深緑です! 金陽宮で、何かあったのですか?!」
「……ダ、丹有が……、お、恐ろしいことを……」
それだけ言うと、彼女は目を閉じ、そこにしゃがみ込んでしまった。
居間にいた女官たちと涛超さんは、不安そうな顔で貞海様とその腕に抱かれた皇子を取り囲んでいた。
わたしは、急いで快癒水を取り出し女官に飲ませた。
「この人は、金陽宮の女官です。金陽宮で、何かあったようです。わたしが様子を見に行ってきます。申し訳ありませんが、どなたか表へ知らせに走り、衛士を呼んできてくださいませんか?」
「一人で行くのは危険ですよ、深緑! 衛士が来るまで待ってはどうですか?」
確かに、貞海様の言うとおりだわ。
でも、胸騒ぎがする! 一刻も早く、金陽宮へ行くべきだと頭の中で、誰かが叫んでいる! 迷っている時間はないのだ!
わたしは、心を決めた。
「大丈夫です。様子を見るだけです……、無茶な真似はしませんから。この女官の介抱をお願いします。もし気がついたら、詳しい話を聞き出しておいてください」
貞海様は、まだ心配そうな顔をしていたが、わたしの態度から何かを感じ取ったらしく、大きくうなずくとわたしに言った。
「わかりました。くれぐれも気をつけるのですよ、深緑! 涛超! すぐに表へ行って、衛士を連れてきて!」
「はい!」
涛超さんは、わたしの方を見て一度軽く頭を下げると、門へ向かって走り出した。
わたしも、貞海様と皇子様にお辞儀をし、くるりと向きを変えると、涛超さんの後を追うようにして天藍宮の門を出た。
◇ ◇ ◇
金陽宮の門をくぐる頃には、空はすっかり雲に覆われ暗くなっていた。
宮殿は、人気もなく、ひっそりとしていた。
奥の方から、何かがズリズリと床をこするような音が聞こえてくる。
何の音だろう?
「深緑、柄杓を用意しろ! 天水の出番のようじゃ!」
虫籠から発せられた、夏先生の鋭い声に、わたしは行李から柄杓を出した。
行李を包む布を引っ張り、行李をしっかり体に括り付けた。
そして、柄杓を振り上げ大きく伸ばすと同時に、音が聞こえる部屋の扉を勢いよく開けた。
「こ、これは?!」
部屋全体に太い縄のような物が広がり、絡まりながらうねっていた。
縄じゃない、……枝だ! 鋭い棘や小さな葉がびっしりとついている! これは、巨大な茨草の枝だ!
茨草の枝は、うねりながら、大きな籠のような形を作っていた。
暗くてよくわからないが、中には人が閉じ込められているようだ。
わたしは、柄杓を横に払い、霊力を込めて斗に満ちた天水を茨草にかけた。
茨草は一瞬震えると、萌葱色の炎に包まれた。
間違いない! この茨草は、天空花園から落ちた種核から育ったものだ!
でも、種核は白珠宮に落ちたはず――。どうして、突然ここに?!
部屋の中を移動しながら、柄杓を振るって天水をかけ続ける。
炎は大きく広がっていったが、種核は見つけられない。
やがて、驚いたことに、炎を上げている部分を自ら切り捨てるようにして、茨草は床に開いた穴の中へ退こうとした。
茨草の枝先を追いかけて、穴の中へ踏み込もうとしたわたしを、誰かがいきなり突き飛ばした!
「きゃあー!」
床の上をころころと転がって起き上がると、目の前に心配そうにわたしを見つめる思阿さんの顔があった。
えっ?! いくら何でも早すぎませんか? 涛超さんは、やっと表へたどり着いた頃だと思うのだけど……。
もしかして、思阿さんに早く来て欲しいっていう、わたしの願いが伝わったってこと?! やだ、恥ずかしい!
「深緑さん、あれを見てください!」
「えっ?!」
仔空さんの目線の先を見ると、ほぼ閉じかけた床の穴の上に、小さな魔紋が描かれていた。爪か何かで引っ掻いて描いたらしく、血が滲んでいるようにも見える。
魔紋は、わたしたちの目の前で、次第に薄くなり、やがて完全に消えてしまった。
「露茜池での俺と同じです。もし、うっかり踏み込んでいたら、今頃は――。良かった、間に合って……」
そう言って、思阿さんは、わたしをギュッと抱きしめて頬ずりした。
あの、思阿さん、とっても嬉しいし、幸せなんですけど……、わたしの目の前には、茨草の枝の檻から解放され正気を取り戻した、周妃や侍女や女官たちが、ちょっと困った顔で座っているんです。たぶん、あなたからは、見えていないと思いますが……。
わたしが、もぞもぞしたので、ようやく思阿さんも状況がわかったらしい。
慌てて立ち上がると、ついでにわたしも立たせてくれた。ありがとうございます!
「み、みなさん! わ、わたくしは、杜貴人にお仕えする侍女で、典薬寮のお手伝いもしている深緑と申す者です。こちらの女官の知らせを受けて、金陽宮の様子を見に参りました。まずは、皆様に薬水をお分けしますので、体と気持ちを整えてください」
わたしは、十人あまりの人々に、順番に薬水を飲ませていった。
最後に、ひどい顔色でげっそりとやつれ、いまだに起き上がれずに横たわっている女官を見つけた。
この人が、おそらく丹有さんだろう。指の爪が割れ、うっすらと血が滲んでいる。ということは、丹有さんが……。
さて、今日も、あの方法で飲ませるしかないわね――と思っていると、虫籠から這い出してきた夏先生が、大きな口を開け、盃に注いであった薬水をグビッと一口飲み込んだ。
そして、もう一口分、頬を膨らませて口に含むと、丹有さんの小さな唇を前足で押し広げ、自分の口から薬水を注ぎ込んでしまった。あらあらあら……。
丹有さんの胸が大きく上下すると、ゆっくりと顔に朱がさしてきた。
薬水が効き始めたようだ。指先の傷も、薄くなってきた。
わたしや思阿さん、周妃、女官たちが見守る中、丹有さんが目を開いた。
不思議そうにわたしたちの顔や周囲を見回した後、彼女は小さな声で尋ねた。
「あ、あの、ここは……、どこでしょうか? 今は……、いつでございますか?」
◇ ◇ ◇
丹有さんは、五日ほど前、白珠宮の横を通りかかり、蘭玲姉様と同じように、何かを嗅がされ倒れたのだった。
姉様と違ったのは、その後の記憶が何もなく、ずっと、暗い茨の森をさまよう夢を見ていたと話したことだった。
周りから見れば、いつも通りに生活し、会話も交わしていたのだが、本人は全く身に覚えがなく、ずっと眠っていた気がすると言って合点がいかない顔をしていた。
落ち着いてきた丹有さんに、もう一度薬水を飲ませ(今度は盃から!)、もう大丈夫だからと言って、わたしたちは金陽宮を後にした。
ちょうど門前に到着した二人の衛士に、あとのことは頼んできた。
金陽宮からも表に連絡に行った女官がいて、思阿さんは、それを聞いて駆けつけてくれたそうだ。わたしの願いが通じたわけではなかったのね……。
辺りに人気がなくなったのを見て、わたしの肩に這い上ってきた夏先生が言った。
「蘭玲と同じ魔毒を嗅がされたのじゃろう。毒を嗅がせた後、暗示をかけ傀儡として利用する手口じゃな。蘭玲は、霊力を備えているから毒の効き目が押さえられ、体の自由を奪うことはできても、やつらの思うままに動かすことまではできなかったのじゃ。
魔軍が、蘭玲を傀儡とすることをあきらめて、つぎの標的として目を付けたのが丹有だったのじゃろう。そして、こちらは上手く毒が効き、金陽宮の床に自分の血で魔紋を描かせることまでできたのじゃ」
「魔軍の狙いは何でしょうか? 後宮で騒ぎを起こし、妍国を混乱させることでしょうか?」
思阿さんの問いに、夏先生は、目を閉じて考えを巡らせているようだった。
丹有さんが、魔軍に命じられるままに床に描いた魔紋は、おそらく、白珠宮につながっている……、そして、そこでは……。
「魔軍が狙っておるのは、おそらく皇子じゃ! 皇子は、翠姫様の血を引く者じゃ。天人ではないが、何か特別な力を備えているに違いない。皇子の出自を知った魔軍は、何とか皇子を取り込み、できれば傀儡として妍国を支配し、人間界に一騒ぎ起こそうと企んでいるのじゃろう」
「その計画に、白珠宮やそこに落ちた種核が絡んでいるのですね?」
「そうじゃ。おそらくやつらは、天の柄杓を持った天女がここに乗り込んできたことを知り、慌てていることじゃろう。深緑! 白珠宮に落ちた種核を、一刻も早く天へ返すのじゃ! そして、思阿よ、おぬしは深緑を魔軍から守り、最後の務めをしっかり果たさせてやれ!」
「わかりました!」
わたしと思阿さんは、自然と手を取り合い、互いをじっと見つめた。
「ケロン……、その先は、全てが片付いてからにしろ!」
「はい……」
わたしたちは、ますます暗くなってきた空の下を、白珠宮に向かって走りだした。
もちろん、しっかり手をつないで……。
思阿さんの姿が、曲がり角に消えるまで、ずっと手を振り続けた――。
鼻歌交じりで門をくぐると、宮内が妙に賑やかなことに気づいた。
中庭の真ん中で、女官たちが、にこにこしながら貞海様をとり囲んでいた。貞海様の腕には、元気そうな赤子が抱かれていた。
「ああ、おかえりなさい、深緑さん! 皇子様ですよ! 劉星様が、乳母どのと一緒にいらしているのです!」
奥から女官と一緒に、昼餐の支度を整えて出てきた涛超さんが、嬉しそうな顔で教えてくれた。
貞海様は、たいそう慣れた様子で皇子をあやしていた。
前世では、皇帝――浩宇さんを育て上げたのだから当然よね。
おっと、これは、女官たちには秘密だけど――。
涛超さんは、劉星皇子と貞海さんを愛しげに見つめながら言った。
「蘭玲さんが病に倒れたのち、皇子様と乳母どのが預けられている金陽宮を、貞海様と一緒に訪ねたのです。
貞海様が抱き上げましたら、皇子様はたいそう喜んで、離れなくなってしまいまして――。置いて帰ろうとしましたら、もう、火がついたように泣き出して大変でした。それで、陛下のお許しをいただいて、こちらへお連れすることになりました」
「まあ、そんなことが――」
皇子は、前世のつながりで考えれば、貞海様の孫に当たるわけだものね。
ほかの誰に預けるよりも貞海様に預ければ、皇帝としては安心よね。
もしかしたら、皇子も何かを感じ取って、貞海様から離れたくないと泣き出したのかもしれない――。
◇ ◇ ◇
昼餐の後、突然、冷たい風が吹き込んできた。
先ほどまで晴れ渡っていた空に、黒い雲が広がりつつあった。
虫籠の中の夏先生が、「ゲロロッ」と一声低く鳴いた。
居間の扉を閉めようと、わたしが立ち上がったとき、門の方から誰かが中庭に駆け込んできた。先ほど典薬寮で話を聞いた女官だった。
衣を乱した女官は、息を荒げながら呆然として中庭に立っていた。
「ど、どうしたんですか?!」
急いで近づき声をかけると、女官は唇を震わせながら答えた。
「ああ、あなたは、典薬寮の――」
「深緑です! 金陽宮で、何かあったのですか?!」
「……ダ、丹有が……、お、恐ろしいことを……」
それだけ言うと、彼女は目を閉じ、そこにしゃがみ込んでしまった。
居間にいた女官たちと涛超さんは、不安そうな顔で貞海様とその腕に抱かれた皇子を取り囲んでいた。
わたしは、急いで快癒水を取り出し女官に飲ませた。
「この人は、金陽宮の女官です。金陽宮で、何かあったようです。わたしが様子を見に行ってきます。申し訳ありませんが、どなたか表へ知らせに走り、衛士を呼んできてくださいませんか?」
「一人で行くのは危険ですよ、深緑! 衛士が来るまで待ってはどうですか?」
確かに、貞海様の言うとおりだわ。
でも、胸騒ぎがする! 一刻も早く、金陽宮へ行くべきだと頭の中で、誰かが叫んでいる! 迷っている時間はないのだ!
わたしは、心を決めた。
「大丈夫です。様子を見るだけです……、無茶な真似はしませんから。この女官の介抱をお願いします。もし気がついたら、詳しい話を聞き出しておいてください」
貞海様は、まだ心配そうな顔をしていたが、わたしの態度から何かを感じ取ったらしく、大きくうなずくとわたしに言った。
「わかりました。くれぐれも気をつけるのですよ、深緑! 涛超! すぐに表へ行って、衛士を連れてきて!」
「はい!」
涛超さんは、わたしの方を見て一度軽く頭を下げると、門へ向かって走り出した。
わたしも、貞海様と皇子様にお辞儀をし、くるりと向きを変えると、涛超さんの後を追うようにして天藍宮の門を出た。
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金陽宮の門をくぐる頃には、空はすっかり雲に覆われ暗くなっていた。
宮殿は、人気もなく、ひっそりとしていた。
奥の方から、何かがズリズリと床をこするような音が聞こえてくる。
何の音だろう?
「深緑、柄杓を用意しろ! 天水の出番のようじゃ!」
虫籠から発せられた、夏先生の鋭い声に、わたしは行李から柄杓を出した。
行李を包む布を引っ張り、行李をしっかり体に括り付けた。
そして、柄杓を振り上げ大きく伸ばすと同時に、音が聞こえる部屋の扉を勢いよく開けた。
「こ、これは?!」
部屋全体に太い縄のような物が広がり、絡まりながらうねっていた。
縄じゃない、……枝だ! 鋭い棘や小さな葉がびっしりとついている! これは、巨大な茨草の枝だ!
茨草の枝は、うねりながら、大きな籠のような形を作っていた。
暗くてよくわからないが、中には人が閉じ込められているようだ。
わたしは、柄杓を横に払い、霊力を込めて斗に満ちた天水を茨草にかけた。
茨草は一瞬震えると、萌葱色の炎に包まれた。
間違いない! この茨草は、天空花園から落ちた種核から育ったものだ!
でも、種核は白珠宮に落ちたはず――。どうして、突然ここに?!
部屋の中を移動しながら、柄杓を振るって天水をかけ続ける。
炎は大きく広がっていったが、種核は見つけられない。
やがて、驚いたことに、炎を上げている部分を自ら切り捨てるようにして、茨草は床に開いた穴の中へ退こうとした。
茨草の枝先を追いかけて、穴の中へ踏み込もうとしたわたしを、誰かがいきなり突き飛ばした!
「きゃあー!」
床の上をころころと転がって起き上がると、目の前に心配そうにわたしを見つめる思阿さんの顔があった。
えっ?! いくら何でも早すぎませんか? 涛超さんは、やっと表へたどり着いた頃だと思うのだけど……。
もしかして、思阿さんに早く来て欲しいっていう、わたしの願いが伝わったってこと?! やだ、恥ずかしい!
「深緑さん、あれを見てください!」
「えっ?!」
仔空さんの目線の先を見ると、ほぼ閉じかけた床の穴の上に、小さな魔紋が描かれていた。爪か何かで引っ掻いて描いたらしく、血が滲んでいるようにも見える。
魔紋は、わたしたちの目の前で、次第に薄くなり、やがて完全に消えてしまった。
「露茜池での俺と同じです。もし、うっかり踏み込んでいたら、今頃は――。良かった、間に合って……」
そう言って、思阿さんは、わたしをギュッと抱きしめて頬ずりした。
あの、思阿さん、とっても嬉しいし、幸せなんですけど……、わたしの目の前には、茨草の枝の檻から解放され正気を取り戻した、周妃や侍女や女官たちが、ちょっと困った顔で座っているんです。たぶん、あなたからは、見えていないと思いますが……。
わたしが、もぞもぞしたので、ようやく思阿さんも状況がわかったらしい。
慌てて立ち上がると、ついでにわたしも立たせてくれた。ありがとうございます!
「み、みなさん! わ、わたくしは、杜貴人にお仕えする侍女で、典薬寮のお手伝いもしている深緑と申す者です。こちらの女官の知らせを受けて、金陽宮の様子を見に参りました。まずは、皆様に薬水をお分けしますので、体と気持ちを整えてください」
わたしは、十人あまりの人々に、順番に薬水を飲ませていった。
最後に、ひどい顔色でげっそりとやつれ、いまだに起き上がれずに横たわっている女官を見つけた。
この人が、おそらく丹有さんだろう。指の爪が割れ、うっすらと血が滲んでいる。ということは、丹有さんが……。
さて、今日も、あの方法で飲ませるしかないわね――と思っていると、虫籠から這い出してきた夏先生が、大きな口を開け、盃に注いであった薬水をグビッと一口飲み込んだ。
そして、もう一口分、頬を膨らませて口に含むと、丹有さんの小さな唇を前足で押し広げ、自分の口から薬水を注ぎ込んでしまった。あらあらあら……。
丹有さんの胸が大きく上下すると、ゆっくりと顔に朱がさしてきた。
薬水が効き始めたようだ。指先の傷も、薄くなってきた。
わたしや思阿さん、周妃、女官たちが見守る中、丹有さんが目を開いた。
不思議そうにわたしたちの顔や周囲を見回した後、彼女は小さな声で尋ねた。
「あ、あの、ここは……、どこでしょうか? 今は……、いつでございますか?」
◇ ◇ ◇
丹有さんは、五日ほど前、白珠宮の横を通りかかり、蘭玲姉様と同じように、何かを嗅がされ倒れたのだった。
姉様と違ったのは、その後の記憶が何もなく、ずっと、暗い茨の森をさまよう夢を見ていたと話したことだった。
周りから見れば、いつも通りに生活し、会話も交わしていたのだが、本人は全く身に覚えがなく、ずっと眠っていた気がすると言って合点がいかない顔をしていた。
落ち着いてきた丹有さんに、もう一度薬水を飲ませ(今度は盃から!)、もう大丈夫だからと言って、わたしたちは金陽宮を後にした。
ちょうど門前に到着した二人の衛士に、あとのことは頼んできた。
金陽宮からも表に連絡に行った女官がいて、思阿さんは、それを聞いて駆けつけてくれたそうだ。わたしの願いが通じたわけではなかったのね……。
辺りに人気がなくなったのを見て、わたしの肩に這い上ってきた夏先生が言った。
「蘭玲と同じ魔毒を嗅がされたのじゃろう。毒を嗅がせた後、暗示をかけ傀儡として利用する手口じゃな。蘭玲は、霊力を備えているから毒の効き目が押さえられ、体の自由を奪うことはできても、やつらの思うままに動かすことまではできなかったのじゃ。
魔軍が、蘭玲を傀儡とすることをあきらめて、つぎの標的として目を付けたのが丹有だったのじゃろう。そして、こちらは上手く毒が効き、金陽宮の床に自分の血で魔紋を描かせることまでできたのじゃ」
「魔軍の狙いは何でしょうか? 後宮で騒ぎを起こし、妍国を混乱させることでしょうか?」
思阿さんの問いに、夏先生は、目を閉じて考えを巡らせているようだった。
丹有さんが、魔軍に命じられるままに床に描いた魔紋は、おそらく、白珠宮につながっている……、そして、そこでは……。
「魔軍が狙っておるのは、おそらく皇子じゃ! 皇子は、翠姫様の血を引く者じゃ。天人ではないが、何か特別な力を備えているに違いない。皇子の出自を知った魔軍は、何とか皇子を取り込み、できれば傀儡として妍国を支配し、人間界に一騒ぎ起こそうと企んでいるのじゃろう」
「その計画に、白珠宮やそこに落ちた種核が絡んでいるのですね?」
「そうじゃ。おそらくやつらは、天の柄杓を持った天女がここに乗り込んできたことを知り、慌てていることじゃろう。深緑! 白珠宮に落ちた種核を、一刻も早く天へ返すのじゃ! そして、思阿よ、おぬしは深緑を魔軍から守り、最後の務めをしっかり果たさせてやれ!」
「わかりました!」
わたしと思阿さんは、自然と手を取り合い、互いをじっと見つめた。
「ケロン……、その先は、全てが片付いてからにしろ!」
「はい……」
わたしたちは、ますます暗くなってきた空の下を、白珠宮に向かって走りだした。
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