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一章
一話 - 二
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ミスはなかったはずだ。瑞矢は不機嫌に目尻を持ちあげて机上を睨みつける。債務者の報告書はいつも事前に目を通し、確認をしてから威に渡している。さらに詳細な資料をまとめるためであり、威の神経をよくも悪くもなでるようなことが起こらないように、である。
威は春嵐を治める祇矩藤家当主としてかなり優秀だ。史上最年少で当主となってからこれまで、周囲の軽侮を圧倒的な手腕と資質でねじ伏せてきた。年若い瑞矢や暁が重責ある立場に就いて祇矩藤内から反論が起きないのも、ひとえに威の威光ゆえである。いや、多少の反発はいまもあるが、大きな声にならない程度に落ちついている。もっとも祇矩藤家当主というだけで本来もはや誰も逆らえない絶対権力者ではあるのだが、威の場合は歴々と比べて就任までに紆余曲折があった。生まれや成り行きのためではなく、威自身の実力で認められたと言ってよい。町民からもこれまでにない支持を集め、表向き、慈愛溢れる当主だ。
そう、表向きだ。
とはいえ、諫める点ではない、と瑞矢は思っている。表向きだろうと仮面だろうと、町民は威を偉大なる当主と認識している。充分だ。威が実際のところどういう人間であれ、町民一人ひとりと交友を持つわけではない。求められているのはあくまで祇矩藤家当主であり、威個人ではないのだから。
問題は、その威個人が顔を出したときだ。報告書をもう一度読む。何度見ても、補足部分に「娘、狄塚仄羽。桃色の髪に黒目」と記入されていた。思わず拳をつくって机を殴りかけ、途中我に返りゆっくりと落とす。瑞矢が確認したときには、絶対に書いていなかったはずなのだ。見落とすはずがない。こんな、明らかに威が興味を持つ一文など。
「戻りましたあ」
情けない声が部屋に響き、振り返れば暁が立っていた。あー疲れたと愚痴をこぼしながら水をあおり、瑞矢の後ろに腰を下ろす。この男の帰りを待っていたのだが、無意識に眉間が寄った。瑞矢は暁に体を向けて座りなおす。
「もーほんと鶫の奴、なんでこういうときにかぎって出張してるんすかねえ」
「御託はいい。連れてきたのか」
もちろん、と暁が頷く。大門はとっくに閉まっているはずだ。障子の向こうにある空は暗く、代わりに大量の提灯が煌々と光りあたりを照らしていた。先ほどまであった人々のざわめきはなりを潜めている。どの廓も深更の刻に入ったのだ。
いらだちに一度瞼を落とし、瑞矢は嘆息する。暁が任を受けて連れてきたのが狄塚仄羽だ。予定では数日後、早朝に出発し夕方に来る予定だったが、本人の希望により本日になった。報告書のとおりであれば、桃色の髪をしているはずだ。
「間違いなかったか」
「間違いなかったっすね。きれいな色でした」
茶の目を伏せ、一笑して暁は言った。橙の髪がかすかに揺れる。
春嵐の人間は黒髪黒目で生まれてくる。ただし春嵐出身者同士が親だった場合であり、片方が外部出身の異人であれば、異人の髪や瞳が黒であっても、黒以外の髪色、あるいは黒以外の瞳の色になる。両方が黒ではない暁は春嵐出身者としては非常にめずらしい。瑞矢が把握しているかぎりでは唯一だ。
威はそういう、髪や瞳が黒色をしていない春嵐出身者に興味を示す。時には異常なくらい執着する。
異人の出入りは多くない。春嵐がある東部はお互い行き来は自由でも干渉を拒む保守的な町ばかりだ。それぞれにそれぞれの秩序があり、文化がある。生まれ育った町を捨て、居を移す人間はほとんどいない。そのため、髪色や瞳の色が特徴的な春嵐出身者は一握りだ。仄羽や暁は完全なる少数派なのである。
最初は物珍しいのかと思っていた。威は祇矩藤家当主という立場ゆえに、この〔春日〕から自由に出入りはできない。日々の膨大な業務もある。町民たちは当然として、〔春日〕で奉公する使用人、花魁、その下の見習いたちでさえ、威の顔を知っている者は数えるほどだ。絶対的な権力とは裏腹に、威の世界は限られたものだけで形成されている。明確な決まりがあるわけではないが、春嵐を出ることさえ許されない。
だから、外部を感じられる色は彼を慰めるのではと瑞矢は推測したのだ。結果としてその考えは間違っていた。外部や異人になど、威は微塵も関心を持っていない。あくまで惹かれるのは「春嵐出身者」なのだ。特に、髪や瞳が黒とは異なる。
「報告書の件っすけど」
報告を続ける暁の声が暗い。この男は仄羽と同じく、その髪色と瞳の色のめずらしさにより威が選んだ人物だ。〔春日〕に来ることになった経緯自体は仄羽とは似つかないが、親がいない点では同じである。当時の自分と重ねて仄羽に同情しているのかもしれなかった。
「誰も覚えがないとのことでした。念のため担当者の筆跡も確認しましたがまったく違いましたね」
そうか、と瑞矢はさらに眉間を狭くした。髪や瞳の色は特記しなくてよいと前々から伝えてある。報告書は十三天王の担当者から区画担当者に、区画担当者から区画担当隊隊長、十三天王副長、暁、瑞矢と、威に至る前に何人もが目を通して確認をする。最悪副長までは威の悪癖を知らないので記載を流していたとしても、暁と瑞矢、どちらも気がつかないことはほぼありえない。
「狄塚仄羽は」
「部屋に案内し、休むよう伝えました。主人への報告は滞りなく。でもめちゃめちゃ機嫌よかったんで、たぶんだめっすね。行くでしょうね、あれは」
「なに? 威さまはもうお休みになられていたはずだ。札も出していただろう」
やべ、と暁が口元を押えてへらりと笑った。これだからこの男は。瑞矢は盛大な溜息をつきそうになり飲みこむ。
「ええとほら、報告を夜明けにすると主人絶対怒るなーと思って、もちろん札は確認したんすけど一応様子見に行って、そしたらなんか、起きてる気配がしたもんで」
慌ててまくしたてる暁に、今度は堪えきれず嘆息する。暁がびくりと体を震わせ、気まずそうに手を膝の上に戻した。
しかし言い分はもっともだ。暁ももう威に仕えて長い。扱いをよく心得ている。対応としては最善と言ってもよいだろう。だが瑞矢はいらだちを覚えていた。もっとも感情を割りきれずにいるのはおそらく自分だと自覚があった。
「いや。いい。頃合いを見て狄塚仄羽の世話をしてやれ。お前ならできるだろう」
瑞矢が命じると、はい、と暁は頷いた。この男はとにかく勘とタイミングがいい。威は今日の夜見世が始まるころ数日ぶりに床につき熟睡していたはずだが、ねむりが浅くなったころにたまたま声をかけたのだろう。あまりにも想像が容易だ。
「あっと」
立ちあがりかけた暁がまた腰を落とす。
「もうひとつ。狄塚仄羽ですが、幼馴染がいました。名を筈井貫爾」
「幼馴染? 恋人か」
「いえ。でも俺の見立てでは、懸想しあってるんじゃないかなと」
「……最悪だな」
反射的に舌を打つ。暁の洞察力は確かだ。いっそ恋人であればよかったものを。
しかしどんなに憐憫の情を抱いても、瑞矢や暁がすることは変わらない。「最悪」なのは仄羽にとってであり、威にとってはむしろ愉快だろう。そして威に尽くすのは彼らにとって当然のことだ。そもそも物事が発生しないように気を配ることはあっても、邪魔をするなどありえない。たとえどんなに、主が残忍だとしても。
ほう、と仄羽はもう一度感嘆の溜息をついた。祇矩藤家の屋敷兼遊郭である〔春日〕は遠目に何度も見ていたけれど、近づくと圧倒されるほどの迫力があった。足を踏み入れてみればなおさらその大きさを実感し、宛がわれたこの部屋も家のどの部屋よりずっと広かった。祇矩藤の使用人という何人かに湯浴みや寝間着の世話をされ、戻ってきてみれば布団も敷かれていて、借金の形として来たにしてはあまりにも待遇がよすぎる。
何時間も駕籠に揺られて体は疲れていたが、ねむる気にはなれない。夜中だというのに障子の向こうはほのかに明るく、開けてみれば下のほうで提灯がいくつも並んで道を照らしていた。さすが祇矩藤家である。こんなに高さのある建物に入ったのは初めてだ。なんだかそらおそろしくなり仄羽は布団に戻った。
自分の手をじっと眺める。暗闇のなか、外からの光でぼんやりと浮かんで見えた。
これからどうなるのだろうか。春霞がどういう場所なのかはもちろん知っている。大雑把に知識はあるが、母早彰がきらったために、春嵐で暮らしていれば当然知っているはずの作法や用語の意味は仄羽の耳には入らないようにされてきた。今日はもう休むように言われたとはいえ落ちつかない。両親の死を思い出しては目頭が熱くなり、涙腺が決壊しそうになる。
「貫爾」
ぽつりとこぼれた。貫爾はどうしているだろうか。今日はもう寝ただろうか。心配しないでいてほしい、と願う。心配せず、それで、と頭のなかで言葉を続けようとするが、それ以上続けられない。きっと何年、何十年とこの〔春日〕のなかでやっていかなければならないのに、忘れられることも誰か別のひととしあわせになることも願えない。考えれば考えるほど、忘れないでほしい、ほかの誰かなんて見つけないでほしいという思いが大きくなる。
う、と呻きかけたとき、襖がからりと開かれた。廊下からの突然の光に目を細める。暁だろうか。いや、違う。男ではあるが、暁よりも背が低い。眩しさに堪えつつ顔を向けていると、やがて襖が閉じてまた暗闇が広がる。
「……どなたですか?」
「起きているみたいだね」
男は問いには答えなかった。瞼の裏でちかちかと花火が弾ける。顔が認識できない。
「泣いている?」
放たれた声が仄羽に直接絡みつく。男にされたような無視はできなかった。どこか逆らえない力が宿っていた。口調は決してつよくないのに、従うのが当然とさえ思えた。
「泣いてません」
「ふうん」
聞いてきたにも関わらず、どうでもよさそうだ。男が近づく気配がする。布団に入り上体を起こしている仄羽を通りすぎ、振り返って障子を背にした。男の輪郭は先ほどよりはっきりしたが、逆光でやはり顔まではわからない。
「お前はこれから花魁になる」
毛布を握りしめる。はっきり突きつけられると、受けとめたはずの現実が仄羽を殴った。
「こわいか?」
甘い匂いがする。いつの間にか煙があたりに充満していた。仄羽は小さく咳きこみ、毛布を握りなおす。震える声で、こわいです、と答えた。
「知らない世界は、こわいです」
取り繕うことは考えられなかった。素直な吐露だった。言ってからはっとし、顔を上げる。すると煙を吹きつけられて今度は盛大に咳きこんだ。正体は男の煙管のようだった。
「じゃあ、知ればいい。それで未知の世界ではなくなる」
え、と仄羽の唇が漏れた空気ごと男にふさがれ、体が倒れる。咥内が自分のものではない何かに蹂躙される。ぬめりとした感触、なまあたたかさに震えた。腕が宙をかき、男の腕を掴む。溺れてしまう。瞼が縫いつけられて開けず、世界が回って気持ちが悪い。やっと離されたときには空気を求めて胸が何度も上下し、その勢いに苦しくなって涙が落ちた。
しかし男は仄羽の状況など頓着しない。毛布ごとひっくり返され、しゅるりと衣擦れの音が耳を刺した。帯を外されていると気づいて体をひねろうとすれば、つよく肩を押さえつけられて許されない。うなじに舌が這い、つむじに唇を落とされる。仄羽は反射的に、ひっ、と叫んだ。くつくつと笑い声が聞こえる。
身八つ口から侵入した手が乳房をとらえた。当然これまで他人に触られたことなどない。恐怖が仄羽を支配する。背中に感じる男の体温に身の毛がよだつ。
「あっ」
男の指が直接一点に触れて声がこぼれた。もがいてはみるが、男はびくともしない。華奢な腕からは想像がつかないくらい力がある。他人どころか自分でも知らない場所に侵入され、足先がはねた。
「いや、っひ」
感じたことのない圧迫感に全身が硬直する。ぽろぽろと勝手に双眸から滴が流れていく。抵抗が意味をなさないと完全に悟ってしまうと、仄羽の思いとは裏腹に体は諦めて、ふっと弛緩する。
「あっ?」
その瞬間、突然腰から脳天にかけて何かが走り抜けていった。聞いたことのない声が自分の口から飛び出してくる。心と体が切り離されたように一致しない。
やがて解放されると、顔を布団にうずめて呼吸を整える。さまざまなところから水分が溢れていることにも気づけないくらい、仄羽は混乱していた。落ちつく前にぐっと腰を持ちあげられる。
「あっ、や、やだ、いや、いや」
やっとまた心身が重なりあい、渾身の力をもって暴れる。視界はぐらぐらとしていて、目は開いているはずなのに何も認識できない。
「いや?」
仄羽の叫び声の合間に、男の声が静かに響く。
「最高だ」
貫かれ、空気が震える。
痛い。
痛い、痛い、痛い。揺らされる体はされるがままになり、少しでも痛みを逃がすため布団を握りしめる。
「いたい、やだ、おかあさ……」
桃色の髪は暗闇に溶けこんで何色かわからない。布団に押しつけている頬の下が冷たかった。
なぜこんなことになっているのだろうか。父と母は研究がうまくいったとよろこんで、別の町に発表に向かった。仄羽にとっては初めての、ひとりきりでの留守番だった。さびしくはあったがもう子どもとは言えない年齢だ。ふたりの無事を祈り、帰ってきたときにはたくさんの料理を用意して驚かせようと思っていた。
それに、と規則的に揺すられながら、仄羽は指先にさらに力をこめる。明日。ほんとうなら、明日。
「貫爾」
ぽつりと呟くと、男は動きをとめた。
不審に思っても振り返ったり問いかけるだけの気力はもう仄羽に残っていない。これを好機と逃げる意思すらわかなかった。
「そんなものか」
ひゅう、と仄羽の咽喉が鳴った。軽蔑をこめた口調に胸の奥がずきりと痛む。乱暴をしてくる男の言葉など気にする必要はないと思うのに、この声に逆らえない。
「これがお前の仕事だ」
言われて、とめどなく流れていた涙が、瞬きひとつでとまる。
こわい。こわいし痛いが、泣いていてはだめだ。〔春日〕は春嵐を治める祇矩藤家の遊郭。泣きわめいて泥を塗るわけにはいかない。
男にのしかかられ、首元に顔をうずめられる。びくりと体がはねた。こわい。気持ちが悪い。それでも、仄羽はもう叫んだりはしなかった。小刻みに震えてしまうのを隠すため細く細く息を吐く。
再開された律動に耐える。耳の側近くで男の笑う息遣いが聞こえた。
侵入者が出ていくと、仄羽はそのまま倒れた。頭上で衣擦れの音が響く。
「やがてアカが来るだろうから、必要なものがあれば言ったらいい」
アカ? いったい誰のことなのかわからなかったが、もう声が出ない。黙ってひゅうひゅうと咽喉を鳴らしていると、視界が埋もれた。男が座ったようだった。先ほどまでの冷酷さとは一変、そっと目尻に指を当てられ、涙の跡をぬぐわれる。心地よかった。心底幸甚を感じ、とまったはずの涙がもう一筋流れたほどだった。男はまったく同じにそっと仄羽の涙をぬぐった。こんな短時間で凌辱の記憶はなかったことにはならない。ずきずきと痛む体とともに、しっかり仄羽に刻まれているというのに。
「〔春日〕へようこそ、仄羽。僕はお前が、大層気に入った」
顔を寄せられ、穏やかな声にくすぐられる。
限界がきて、瞼を閉じる寸前、男の瞳が赤く輝いて見えた。
威は春嵐を治める祇矩藤家当主としてかなり優秀だ。史上最年少で当主となってからこれまで、周囲の軽侮を圧倒的な手腕と資質でねじ伏せてきた。年若い瑞矢や暁が重責ある立場に就いて祇矩藤内から反論が起きないのも、ひとえに威の威光ゆえである。いや、多少の反発はいまもあるが、大きな声にならない程度に落ちついている。もっとも祇矩藤家当主というだけで本来もはや誰も逆らえない絶対権力者ではあるのだが、威の場合は歴々と比べて就任までに紆余曲折があった。生まれや成り行きのためではなく、威自身の実力で認められたと言ってよい。町民からもこれまでにない支持を集め、表向き、慈愛溢れる当主だ。
そう、表向きだ。
とはいえ、諫める点ではない、と瑞矢は思っている。表向きだろうと仮面だろうと、町民は威を偉大なる当主と認識している。充分だ。威が実際のところどういう人間であれ、町民一人ひとりと交友を持つわけではない。求められているのはあくまで祇矩藤家当主であり、威個人ではないのだから。
問題は、その威個人が顔を出したときだ。報告書をもう一度読む。何度見ても、補足部分に「娘、狄塚仄羽。桃色の髪に黒目」と記入されていた。思わず拳をつくって机を殴りかけ、途中我に返りゆっくりと落とす。瑞矢が確認したときには、絶対に書いていなかったはずなのだ。見落とすはずがない。こんな、明らかに威が興味を持つ一文など。
「戻りましたあ」
情けない声が部屋に響き、振り返れば暁が立っていた。あー疲れたと愚痴をこぼしながら水をあおり、瑞矢の後ろに腰を下ろす。この男の帰りを待っていたのだが、無意識に眉間が寄った。瑞矢は暁に体を向けて座りなおす。
「もーほんと鶫の奴、なんでこういうときにかぎって出張してるんすかねえ」
「御託はいい。連れてきたのか」
もちろん、と暁が頷く。大門はとっくに閉まっているはずだ。障子の向こうにある空は暗く、代わりに大量の提灯が煌々と光りあたりを照らしていた。先ほどまであった人々のざわめきはなりを潜めている。どの廓も深更の刻に入ったのだ。
いらだちに一度瞼を落とし、瑞矢は嘆息する。暁が任を受けて連れてきたのが狄塚仄羽だ。予定では数日後、早朝に出発し夕方に来る予定だったが、本人の希望により本日になった。報告書のとおりであれば、桃色の髪をしているはずだ。
「間違いなかったか」
「間違いなかったっすね。きれいな色でした」
茶の目を伏せ、一笑して暁は言った。橙の髪がかすかに揺れる。
春嵐の人間は黒髪黒目で生まれてくる。ただし春嵐出身者同士が親だった場合であり、片方が外部出身の異人であれば、異人の髪や瞳が黒であっても、黒以外の髪色、あるいは黒以外の瞳の色になる。両方が黒ではない暁は春嵐出身者としては非常にめずらしい。瑞矢が把握しているかぎりでは唯一だ。
威はそういう、髪や瞳が黒色をしていない春嵐出身者に興味を示す。時には異常なくらい執着する。
異人の出入りは多くない。春嵐がある東部はお互い行き来は自由でも干渉を拒む保守的な町ばかりだ。それぞれにそれぞれの秩序があり、文化がある。生まれ育った町を捨て、居を移す人間はほとんどいない。そのため、髪色や瞳の色が特徴的な春嵐出身者は一握りだ。仄羽や暁は完全なる少数派なのである。
最初は物珍しいのかと思っていた。威は祇矩藤家当主という立場ゆえに、この〔春日〕から自由に出入りはできない。日々の膨大な業務もある。町民たちは当然として、〔春日〕で奉公する使用人、花魁、その下の見習いたちでさえ、威の顔を知っている者は数えるほどだ。絶対的な権力とは裏腹に、威の世界は限られたものだけで形成されている。明確な決まりがあるわけではないが、春嵐を出ることさえ許されない。
だから、外部を感じられる色は彼を慰めるのではと瑞矢は推測したのだ。結果としてその考えは間違っていた。外部や異人になど、威は微塵も関心を持っていない。あくまで惹かれるのは「春嵐出身者」なのだ。特に、髪や瞳が黒とは異なる。
「報告書の件っすけど」
報告を続ける暁の声が暗い。この男は仄羽と同じく、その髪色と瞳の色のめずらしさにより威が選んだ人物だ。〔春日〕に来ることになった経緯自体は仄羽とは似つかないが、親がいない点では同じである。当時の自分と重ねて仄羽に同情しているのかもしれなかった。
「誰も覚えがないとのことでした。念のため担当者の筆跡も確認しましたがまったく違いましたね」
そうか、と瑞矢はさらに眉間を狭くした。髪や瞳の色は特記しなくてよいと前々から伝えてある。報告書は十三天王の担当者から区画担当者に、区画担当者から区画担当隊隊長、十三天王副長、暁、瑞矢と、威に至る前に何人もが目を通して確認をする。最悪副長までは威の悪癖を知らないので記載を流していたとしても、暁と瑞矢、どちらも気がつかないことはほぼありえない。
「狄塚仄羽は」
「部屋に案内し、休むよう伝えました。主人への報告は滞りなく。でもめちゃめちゃ機嫌よかったんで、たぶんだめっすね。行くでしょうね、あれは」
「なに? 威さまはもうお休みになられていたはずだ。札も出していただろう」
やべ、と暁が口元を押えてへらりと笑った。これだからこの男は。瑞矢は盛大な溜息をつきそうになり飲みこむ。
「ええとほら、報告を夜明けにすると主人絶対怒るなーと思って、もちろん札は確認したんすけど一応様子見に行って、そしたらなんか、起きてる気配がしたもんで」
慌ててまくしたてる暁に、今度は堪えきれず嘆息する。暁がびくりと体を震わせ、気まずそうに手を膝の上に戻した。
しかし言い分はもっともだ。暁ももう威に仕えて長い。扱いをよく心得ている。対応としては最善と言ってもよいだろう。だが瑞矢はいらだちを覚えていた。もっとも感情を割りきれずにいるのはおそらく自分だと自覚があった。
「いや。いい。頃合いを見て狄塚仄羽の世話をしてやれ。お前ならできるだろう」
瑞矢が命じると、はい、と暁は頷いた。この男はとにかく勘とタイミングがいい。威は今日の夜見世が始まるころ数日ぶりに床につき熟睡していたはずだが、ねむりが浅くなったころにたまたま声をかけたのだろう。あまりにも想像が容易だ。
「あっと」
立ちあがりかけた暁がまた腰を落とす。
「もうひとつ。狄塚仄羽ですが、幼馴染がいました。名を筈井貫爾」
「幼馴染? 恋人か」
「いえ。でも俺の見立てでは、懸想しあってるんじゃないかなと」
「……最悪だな」
反射的に舌を打つ。暁の洞察力は確かだ。いっそ恋人であればよかったものを。
しかしどんなに憐憫の情を抱いても、瑞矢や暁がすることは変わらない。「最悪」なのは仄羽にとってであり、威にとってはむしろ愉快だろう。そして威に尽くすのは彼らにとって当然のことだ。そもそも物事が発生しないように気を配ることはあっても、邪魔をするなどありえない。たとえどんなに、主が残忍だとしても。
ほう、と仄羽はもう一度感嘆の溜息をついた。祇矩藤家の屋敷兼遊郭である〔春日〕は遠目に何度も見ていたけれど、近づくと圧倒されるほどの迫力があった。足を踏み入れてみればなおさらその大きさを実感し、宛がわれたこの部屋も家のどの部屋よりずっと広かった。祇矩藤の使用人という何人かに湯浴みや寝間着の世話をされ、戻ってきてみれば布団も敷かれていて、借金の形として来たにしてはあまりにも待遇がよすぎる。
何時間も駕籠に揺られて体は疲れていたが、ねむる気にはなれない。夜中だというのに障子の向こうはほのかに明るく、開けてみれば下のほうで提灯がいくつも並んで道を照らしていた。さすが祇矩藤家である。こんなに高さのある建物に入ったのは初めてだ。なんだかそらおそろしくなり仄羽は布団に戻った。
自分の手をじっと眺める。暗闇のなか、外からの光でぼんやりと浮かんで見えた。
これからどうなるのだろうか。春霞がどういう場所なのかはもちろん知っている。大雑把に知識はあるが、母早彰がきらったために、春嵐で暮らしていれば当然知っているはずの作法や用語の意味は仄羽の耳には入らないようにされてきた。今日はもう休むように言われたとはいえ落ちつかない。両親の死を思い出しては目頭が熱くなり、涙腺が決壊しそうになる。
「貫爾」
ぽつりとこぼれた。貫爾はどうしているだろうか。今日はもう寝ただろうか。心配しないでいてほしい、と願う。心配せず、それで、と頭のなかで言葉を続けようとするが、それ以上続けられない。きっと何年、何十年とこの〔春日〕のなかでやっていかなければならないのに、忘れられることも誰か別のひととしあわせになることも願えない。考えれば考えるほど、忘れないでほしい、ほかの誰かなんて見つけないでほしいという思いが大きくなる。
う、と呻きかけたとき、襖がからりと開かれた。廊下からの突然の光に目を細める。暁だろうか。いや、違う。男ではあるが、暁よりも背が低い。眩しさに堪えつつ顔を向けていると、やがて襖が閉じてまた暗闇が広がる。
「……どなたですか?」
「起きているみたいだね」
男は問いには答えなかった。瞼の裏でちかちかと花火が弾ける。顔が認識できない。
「泣いている?」
放たれた声が仄羽に直接絡みつく。男にされたような無視はできなかった。どこか逆らえない力が宿っていた。口調は決してつよくないのに、従うのが当然とさえ思えた。
「泣いてません」
「ふうん」
聞いてきたにも関わらず、どうでもよさそうだ。男が近づく気配がする。布団に入り上体を起こしている仄羽を通りすぎ、振り返って障子を背にした。男の輪郭は先ほどよりはっきりしたが、逆光でやはり顔まではわからない。
「お前はこれから花魁になる」
毛布を握りしめる。はっきり突きつけられると、受けとめたはずの現実が仄羽を殴った。
「こわいか?」
甘い匂いがする。いつの間にか煙があたりに充満していた。仄羽は小さく咳きこみ、毛布を握りなおす。震える声で、こわいです、と答えた。
「知らない世界は、こわいです」
取り繕うことは考えられなかった。素直な吐露だった。言ってからはっとし、顔を上げる。すると煙を吹きつけられて今度は盛大に咳きこんだ。正体は男の煙管のようだった。
「じゃあ、知ればいい。それで未知の世界ではなくなる」
え、と仄羽の唇が漏れた空気ごと男にふさがれ、体が倒れる。咥内が自分のものではない何かに蹂躙される。ぬめりとした感触、なまあたたかさに震えた。腕が宙をかき、男の腕を掴む。溺れてしまう。瞼が縫いつけられて開けず、世界が回って気持ちが悪い。やっと離されたときには空気を求めて胸が何度も上下し、その勢いに苦しくなって涙が落ちた。
しかし男は仄羽の状況など頓着しない。毛布ごとひっくり返され、しゅるりと衣擦れの音が耳を刺した。帯を外されていると気づいて体をひねろうとすれば、つよく肩を押さえつけられて許されない。うなじに舌が這い、つむじに唇を落とされる。仄羽は反射的に、ひっ、と叫んだ。くつくつと笑い声が聞こえる。
身八つ口から侵入した手が乳房をとらえた。当然これまで他人に触られたことなどない。恐怖が仄羽を支配する。背中に感じる男の体温に身の毛がよだつ。
「あっ」
男の指が直接一点に触れて声がこぼれた。もがいてはみるが、男はびくともしない。華奢な腕からは想像がつかないくらい力がある。他人どころか自分でも知らない場所に侵入され、足先がはねた。
「いや、っひ」
感じたことのない圧迫感に全身が硬直する。ぽろぽろと勝手に双眸から滴が流れていく。抵抗が意味をなさないと完全に悟ってしまうと、仄羽の思いとは裏腹に体は諦めて、ふっと弛緩する。
「あっ?」
その瞬間、突然腰から脳天にかけて何かが走り抜けていった。聞いたことのない声が自分の口から飛び出してくる。心と体が切り離されたように一致しない。
やがて解放されると、顔を布団にうずめて呼吸を整える。さまざまなところから水分が溢れていることにも気づけないくらい、仄羽は混乱していた。落ちつく前にぐっと腰を持ちあげられる。
「あっ、や、やだ、いや、いや」
やっとまた心身が重なりあい、渾身の力をもって暴れる。視界はぐらぐらとしていて、目は開いているはずなのに何も認識できない。
「いや?」
仄羽の叫び声の合間に、男の声が静かに響く。
「最高だ」
貫かれ、空気が震える。
痛い。
痛い、痛い、痛い。揺らされる体はされるがままになり、少しでも痛みを逃がすため布団を握りしめる。
「いたい、やだ、おかあさ……」
桃色の髪は暗闇に溶けこんで何色かわからない。布団に押しつけている頬の下が冷たかった。
なぜこんなことになっているのだろうか。父と母は研究がうまくいったとよろこんで、別の町に発表に向かった。仄羽にとっては初めての、ひとりきりでの留守番だった。さびしくはあったがもう子どもとは言えない年齢だ。ふたりの無事を祈り、帰ってきたときにはたくさんの料理を用意して驚かせようと思っていた。
それに、と規則的に揺すられながら、仄羽は指先にさらに力をこめる。明日。ほんとうなら、明日。
「貫爾」
ぽつりと呟くと、男は動きをとめた。
不審に思っても振り返ったり問いかけるだけの気力はもう仄羽に残っていない。これを好機と逃げる意思すらわかなかった。
「そんなものか」
ひゅう、と仄羽の咽喉が鳴った。軽蔑をこめた口調に胸の奥がずきりと痛む。乱暴をしてくる男の言葉など気にする必要はないと思うのに、この声に逆らえない。
「これがお前の仕事だ」
言われて、とめどなく流れていた涙が、瞬きひとつでとまる。
こわい。こわいし痛いが、泣いていてはだめだ。〔春日〕は春嵐を治める祇矩藤家の遊郭。泣きわめいて泥を塗るわけにはいかない。
男にのしかかられ、首元に顔をうずめられる。びくりと体がはねた。こわい。気持ちが悪い。それでも、仄羽はもう叫んだりはしなかった。小刻みに震えてしまうのを隠すため細く細く息を吐く。
再開された律動に耐える。耳の側近くで男の笑う息遣いが聞こえた。
侵入者が出ていくと、仄羽はそのまま倒れた。頭上で衣擦れの音が響く。
「やがてアカが来るだろうから、必要なものがあれば言ったらいい」
アカ? いったい誰のことなのかわからなかったが、もう声が出ない。黙ってひゅうひゅうと咽喉を鳴らしていると、視界が埋もれた。男が座ったようだった。先ほどまでの冷酷さとは一変、そっと目尻に指を当てられ、涙の跡をぬぐわれる。心地よかった。心底幸甚を感じ、とまったはずの涙がもう一筋流れたほどだった。男はまったく同じにそっと仄羽の涙をぬぐった。こんな短時間で凌辱の記憶はなかったことにはならない。ずきずきと痛む体とともに、しっかり仄羽に刻まれているというのに。
「〔春日〕へようこそ、仄羽。僕はお前が、大層気に入った」
顔を寄せられ、穏やかな声にくすぐられる。
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