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一章
二話 - 一
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天井が高い。寝ぼけ眼でぼんやり左右を見渡す。障子の向こうは明るかった。〔春日〕に来た初日、乱暴に組み敷かれた仄羽は熱を出した。あの行為のあと部屋を訪ねてきた暁はまるで仄羽の状況がわかっているかのように外で待機し、女性に世話をさせた。翌日も寝こみ、「おそらく疲れとショックからくるもんじゃないすかね」と養生を命じてやはりまた女に任せ、それから会っていない。
体はだいぶ楽になった。熱もなさそうだ。枕元に置かれた水を飲み始めると咽喉がからからに乾いていたことに気づき、二杯三杯と重ねる。
ほう、と一息つくと今度は空腹の証拠に腹が鳴った。自分以外はいない部屋で仄羽は頬を赤く染める。
病が治ったあとの体はいつもどこか重い。ずっと横になっていたからだろう。きしむ筋肉に鞭打って立ちあがり、障子を開けてみた。がやがやとした喧騒があり、下を覗いてみるとたくさんの人が談笑している様子が見える。
春霞は夜こそ子どもは出入りを禁じられ、大人の駆け引きと欲望が渦巻くが、昼間は単なる繁華街だ。買い物、食事、憩いや交流の場として、老若男女が利用している。
幼いころ見た春霞の記憶がよみがえり、頬が先ほどとは別の意味で紅潮した。暮らしていた四区も人々がやさしく、毎日がたのしかったが、根本的に雰囲気が違う。居住区ではないからこその高揚と溌溂さがあった。
眺めていると襖の向こうから呼ばれて、返事をする。暁だった。暁は「もう大丈夫そうすね」とにこやかに言い、
「もう昼見世が始まってるんで、食事はここに持ってこさせますね。身支度を終えたころにまた来ます」
昼見世というのが何かわからなかったが、仄羽は頷いた。その後食事が運ばれ、家よりも随分よい献立に驚いた。使用人に着つけまで面倒を見られそうになって断り、布団はしまわれ、部屋の中心でぽつんと暁を待つ。
もっと早急に働かされるものだと思っていたので少々拍子抜けだ。むしろ待遇のよさに面喰らう。襲ってきた男に関しては、誰にも言えずにいた。もしかしてあれが初仕事で、あの男は客だったのだろうか。
暁に相談すべきだろうか、と思う。しかしどう言えばよいのか。まさか犯されたなどと告白する勇気は仄羽にはわかなかった。思い出したくもないし、考えているとただの悪い夢だったような気がしてくる。
特に男の瞳。暗闇のなかで意識が途切れる直前に見たひとつの光は、赤い色をしていた。この町で赤い目なのは――。
「仄羽さん」
ぱっと意識が弾ける。いつの間にか暁が傍に座っていた。その奥に少女の姿も見える。
暁は返事がないので勝手に入った旨を謝罪すると、少女を手で示した。
「今日から仄羽さんのことは、彼女に任せます。名を初名。これからの待遇については主人と相談してからになりますが、ひとまず困ったことがあればこの子に聞いてください」
「振袖新造の初名と申します。よろしくお願いいたします」
ゆるやかに頭を下げた少女は、仄羽と年端が変わらないように見えた。すっと伸びた鼻筋に濡れたような双眸、白い肌が小さな唇の赤さを強調して、清々しい雰囲気とともに色気を感じさせる。大人びた表情に仄羽は目を奪われた。絶世の美人というわけではないが、どこか呑まれそうな独特の佇まいがあった。
「もしかして、昨日一昨日と……」
朦朧としていたのではっきりとは憶えていないものの、記憶に引っかかるものがあった。暁はあっさりと答える。
「ああ、世話していたのは初名っす」
やはり。初名に礼を言うと、初名はいえ、と一言呟き、膝に重ねていた両の指をたどたどしく絡めた。
「それじゃ初名、よろしく頼んます。たぶん深更の刻あたりで一度呼ぶことになると思うんで」
「承知いたしました」
暁が出ていくと、初名は改めて仄羽に頭を下げた。仄羽も同じように頭を下げて名乗る。
「いまはもう昼見世が始まっていて各部屋の案内やあねさまたちの紹介ができないので、現在お困りのことなどあればお答えいたします」
淡々とした口調で初名は言い、黒々とした丸く大きな瞳を仄羽に向けた。表情は無感動で変化に乏しい。
「あの、昼見世、って何ですか?」
文脈から「あねさま」というのがほかの花魁ということはなんとなく察せられるのだが、暁も言っていた「昼見世」が何のことなのかやはりわからない。初名は何度か瞬いた。どうも常識のひとつのようだ。
「ごめんなさい。言い訳なんですが、あまり春霞のことは知る必要ないって遠ざけられてきて、わたしも知ろうとせずきてしまったものだから」
「いいえ。自分が知っているからと、相手が知らないことを責めるのはよくないことだと教わりました。こちらこそ失礼いたしました」
初名の黒髪がさらりと音を立てて肩をすべり落ちた。謝罪されるとは思わず、仄羽は慌てる。初名はやはり無表情のまま顔を上げた。
「ひとつずつ説明いたします。それと、敬語は結構です。わたしは敬われる立場ではないので」
そんなことない、少なくともこの場では先輩であると伝えたいのに、あまりにもきっぱりと言い渡されて戸惑う。仄羽はぎこちなく了承し、「それならわたしにも普通にしゃべってくれて大丈夫だよ」と言えば、「いえ、これが普通なので」と固辞されてしまった。
昼見世とは簡単に言えば昼の営業のことであった。客を引き、遊郭内で饗する。夜の営業は夜見世と言い、昼と夜の大きな違いは枕のあるなしだ。新造や芸者、幇間が芸を披露し、飲み食いをする点では昼夜一緒だが、昼見世では決して客と交わらない。そして御職と呼ばれる各遊郭一の花魁は顔を出さない。どんな馴染み客でも指名はできないのだ。
また、深更の刻とは客と枕を交わす時間のことだ。しゃんしゃんと鉾先鈴の音が廊下に響けば深更の刻に入った合図らしい。昨日寝こんでいたときに聞いたような、聞いていないような。
「女性客は昼見世のほうが多いです」
普通の飲食店よりは高額だが、夜見世よりは安く済む。ただ一度の贅沢な食事としての利用だろう。夫婦や家族連れも、夜とは異なり足を運ぶ。
そういえば近所の老夫婦が〔春日〕の華やかさを語っていたなと仄羽は思い出す。そのときは結局、父克登に診察の手伝いを頼まれて話の途中で席を立ったのだった。
父。ふとしたときのふとした自分の思考で、突然かなしみの崖から落ちかける。目頭を押えると、初名が覗いてきた。心配そうにしている、気がする。微々たる変化なので自信はないけれど。
「ごめんなさい。大丈夫です。父のことを思い出してしまって……」
ここで働く覚悟を決めることと、父母の死を乗り越えることは別の話だ。もしかすると一生乗り越えられないのかもしれない。
初名は軽く首を傾げた。
「ここに来た理由は暁さまから伺いました。そういうものですか。本来」
どういう意味かわからず、仄羽も首を傾げる。尋ねてよいことなのか考えあぐねていると、初名は無感動な声で続けた。
「わたしも親の関係でここに来ました。母はいません。父の行方は知りません。生きているのか死んでいるのかも……どちらにせよこの場にいないのだから死んだと同じことだと思っています。親の死とは、かなしむものなんですね」
仄羽は頷くことも否定することもできなかった。指先が冷える。物言いからして、初名には親の記憶がないか、ひどい目に遭わせられたか、あるいは〔春日〕に身を置いていること自体が親の非道なのかもしれない。あまりにも先ほどまでと変わらない淡々とした口調で、嫌味で言っているわけではないことがわかってしまう分、初名の無垢さが刺さる。瞬きが増えるばかりで何も返せない。
「それは……」
なんとか言葉を紡ごうとしても続かなかった。初名が目を伏せる。その睫毛、瞼、瞳、曲線があまりにもうつくしく、仄羽は眉を歪めた。
「困らせてしまったみたいです。申し訳」
「ひ、ひと」
音量を上げて重ねる。謝ってほしくはなかった。
「ひと、それぞれだと思う。無理にするべきことは、何もないと思う」
思わず飛び出た言葉だったが、仄羽は真剣だった。
沈黙が下りる。破ったのは初名だった。
「そうですか」
仄羽には、彼女がかすかに笑ったように見えた。
失礼しまーす、と暁が威の部屋に入ると、瑞矢が傍に控えていた。持っていた書類でつい顔を隠す。ゆっくりずらして目線を向けると、やはりじろりと睨まれていた。暁は勘のよさやタイミングのよさに自負があるが、瑞矢に対してはどうも鈍くなる。
「了承の返事を受けてから入れと何度言えばわかる」
叱声に身をすくませ、すんません、と謝る。威がくつくつと笑っていた。主は気にしていないことを暁は知っている。
瑞矢は暁と違い、生まれたときから祇矩藤に仕える家のひとりとして礼儀作法を叩きこまれている。もっとも家令となったのは瑞矢の代からで、それまでは家臣といっても末端に近い家柄だった、らしい。はたして威は嘘をついたりしていないだろうが、瑞矢自身は話したがらないし、暁が来たときにはすでに彼は立派に立ち回っていた。
「まずは狄塚仄羽の件です」
「うん。瑞矢も聞いていけ」
頷いた瑞矢の黒髪がなびく。威が側に置いていて、黒髪黒目なのは瑞矢だけだ。
暁は足元に広がる書類を一瞥して、簡単に分ける。座れるだけの床を確保すると、今度はきちんと作法を持って威に向かう。茶の瞳は自分ではわからないが、橙の髪はちらちらと視界に入って邪魔くさい。
「昨日からの熱は下がり、多少体を重そうにしていましたが問題はなさそうです。伊良子先生からの薬もあるっす」
「そう。それはなにより」
様式美として威は言う。心がこもっていないことは暁と瑞矢には明らかだった。
「留袖新造で大丈夫っすか?」
「かまわない。変更なんていくらでもできることだからね」
つまり、そのままにしておくつもりはないということだ。暁は威がすでに仄羽を気に入っていることを悟る。基本口元に微笑みを絶やさない主だが、表情の奥にはどんな悪意がひそんでいるのかわかったものではない。
「誰につけましょう」
新造とは花魁見習いのことだ。特定の花魁の下につき、花魁に代わり客の食事の相手をしたり、芸を磨いたり、客引きなどをする。床入れはまだしない。初名の役職でもある振袖新造は、禿と呼ばれる花魁の身の回りの世話役を経て新造となった者のことだ。基本的には年齢や修行の年数によって禿から新造になり、そのあとやはり年齢や人気の時期を見て花魁となる。対して留袖新造は禿を経ずに新造になった者のことを指す。仄羽は禿になるには年齢が重なっていた。
振袖新造も留袖新造も、客をとれない代わりに遊郭が給金を出す。〔春日〕ではすなわち、祇矩藤家だ。必要最低限以外は、すべて貸付金の返済にあたる。
「七嶺でいいだろう」
出てきた名前に、暁の小指がぴくりと動く。表に出てしまった動揺に自分自身が呆れ、小さく息を吐いた。
「いい顔したね、アカ」
「ご冗談を」
にこりと笑う。主はさらに目で弧を描き、暁を見つめた。
威は暁を「アカ」を呼ぶ。「あかつき」の「あか」だ。呼ぶのは威だけだが、まるでここに来るまでの自分とは別人になったようで暁は気分がいい。
「でも承りますかね? 禿のひとりもいやがってこれまで誰もつけてないすけど」
「そこを説得するのがお前の仕事だろう。ん? いや、こういうのは瑞矢の領分になるのかな?」
「……〔春日〕の管理ですので、私の仕事にあたります」
威の目線を受けて、瑞矢が静かに答える。普段であれば新しい働き手の案内や処遇は瑞矢が決定している。仄羽は最初に暁が担当したことと威の命令、そもそも途中で引き継ぐ余裕がなかったことが関係して、暁が面倒を見ている状態だ。
だいたいいちいち新造でいいかなどと威に聞くこと自体、本来ありえない。狄塚仄羽はすべてが例外なのだ。
「ま、いいや。今回の七嶺説得はアカ、お前に任せる」
頷くしかない。ある程度は予測できていたとはいえ、首の後ろが粟立った。
かたくなった暁を見て、威はつまらなそうに頬杖をつく。
「でも問題ないと思うよ。七嶺は聡い女だ。部屋も別だし、断る理由はないでしょ」
禿や新造は花魁の世話を焼き、花魁は禿や新造に教育を施す。部屋を同じにして共同生活を送るのだ。
「狄塚仄羽の部屋はそのままで?」
「無論だ。そのほうが都合がいい。七嶺にとってもね」
最後はついでだろう。瑞矢が薄く眉根を寄せたのが暁の側から見えた。
「また熱出させないでくださいよ。一昨日のも主人でしょ」
こんな軽口を威に対して叩けるのは暁と、現在出張で不在の鶫くらいのものである。最初のうちは瑞矢が殴らん勢いで注意していたが、やがて考えを改めたのか、単に諦めたのか、いまではいつものこととして黙って流している。
「熱は勝手に出したんだ。死んでないんだから問題ない」
それは暁も安心しているところだった。外に面した、高い部屋を宛がって飛び降りなかったのは幸いだ。威が大丈夫だと念を押したのでそのとおりにしたが、花魁たちの部屋は通常障子は開けても下は覗けないように格子窓になっている。
「いまは何してるの?」
「初名に世話を任せています」
ちらと瑞矢に目を向けると、瞬きひとつののち視線がかち合う。暁はへらりとした笑みを浮かべた。
「春霞での用語とか、よく知らないみたいなんで。異人の母親が遊郭をきらったみたいすね」
春嵐の外から来た人間が春霞を理解しないのはよくある話だ。大概は仄羽の母のように嫌悪感を示し、それ以外では遊郭を利用しようとする。
威が咽喉の奥を鳴らして笑う。
「いい人選じゃあないか。ちょうどいい。新造としての基本は初名が教えるように」
暁はもう一度瑞矢に目を向けるが、もう視線は合わなかった。肩を持ちあげて「へーい」と軽く返事をする。
「歳も近いんじゃないか? ねえ瑞矢。初名はいくつになったかな」
「…………。一七です」
振袖新造は基本的には一六までの役職であり、一七であれば花魁になっていて当然である。一〇から〔春日〕に身を置く彼女は礼儀作法、芸事はすでに達者だ。愛想は改善が必要だが、ほかは問題ない。
「いい加減返せるものも返せなくなるね。鈴は? なんて?」
鈴とは〔春日〕のなかでも一握りの太夫の称号を持った、初名がついている花魁である。
「まだ出せませんと、その一点張りです」
基本的に新造を花魁にするかどうかは、その新造がついている花魁が判断する。芸事、話術、礼儀作法等がきちんと身につき、表に出しても恥ずかしくないかどうかを見定める。店の看板を背負うことになるので妥協はしない。とはいえ花魁同士での争いがないとはかぎらないため、最終的な決定権は〔春日〕の管理をしている瑞矢が持っている。
「ふうん。鈴が言うんならそうなんだろう」
しかし威は言い、瑞矢をつつくことはしなかった。いや、現状維持のまま深くは聞かないことで瑞矢を苦しめていた。首を縄でじわじわと絞めるようなものだ。暁は唇を一文字にかたく結ぶ瑞矢を眺める。彼は別に、嘘はついていない。
「……狄塚仄羽の源氏名はどうするんすか?」
話を仄羽に戻す。源氏名とは座敷に出るときの名前だ。客には本名ではなく、源氏名で名乗る。春霞と居住区での自分をそれぞれ別の人間にするのだ。
「源氏名? 必要ないだろう。座敷には出さなくていい」
意外だった。えっ、と思わず声が出る。
「客引きもしなくていい。客の前に出すときは僕が決める」
予想していたよりもずっと仄羽を気に入っているようだ。暁は顎に手をやり、頷きながら黙考する。期待してもよいのだろうか。仄羽を座敷に出せば、まずあの髪色が話題に上るだろう。そうすれば少なくとも、彼女の幼馴染である筈井貫爾は春霞中の遊郭を探し回ることなく、まっすぐ〔春日〕に乗りこんでくるに違いなかった。
「承知しました。では万事滞りなく。次に十三天王からの報告っすが……」
これはひとつの賭けだ。
体はだいぶ楽になった。熱もなさそうだ。枕元に置かれた水を飲み始めると咽喉がからからに乾いていたことに気づき、二杯三杯と重ねる。
ほう、と一息つくと今度は空腹の証拠に腹が鳴った。自分以外はいない部屋で仄羽は頬を赤く染める。
病が治ったあとの体はいつもどこか重い。ずっと横になっていたからだろう。きしむ筋肉に鞭打って立ちあがり、障子を開けてみた。がやがやとした喧騒があり、下を覗いてみるとたくさんの人が談笑している様子が見える。
春霞は夜こそ子どもは出入りを禁じられ、大人の駆け引きと欲望が渦巻くが、昼間は単なる繁華街だ。買い物、食事、憩いや交流の場として、老若男女が利用している。
幼いころ見た春霞の記憶がよみがえり、頬が先ほどとは別の意味で紅潮した。暮らしていた四区も人々がやさしく、毎日がたのしかったが、根本的に雰囲気が違う。居住区ではないからこその高揚と溌溂さがあった。
眺めていると襖の向こうから呼ばれて、返事をする。暁だった。暁は「もう大丈夫そうすね」とにこやかに言い、
「もう昼見世が始まってるんで、食事はここに持ってこさせますね。身支度を終えたころにまた来ます」
昼見世というのが何かわからなかったが、仄羽は頷いた。その後食事が運ばれ、家よりも随分よい献立に驚いた。使用人に着つけまで面倒を見られそうになって断り、布団はしまわれ、部屋の中心でぽつんと暁を待つ。
もっと早急に働かされるものだと思っていたので少々拍子抜けだ。むしろ待遇のよさに面喰らう。襲ってきた男に関しては、誰にも言えずにいた。もしかしてあれが初仕事で、あの男は客だったのだろうか。
暁に相談すべきだろうか、と思う。しかしどう言えばよいのか。まさか犯されたなどと告白する勇気は仄羽にはわかなかった。思い出したくもないし、考えているとただの悪い夢だったような気がしてくる。
特に男の瞳。暗闇のなかで意識が途切れる直前に見たひとつの光は、赤い色をしていた。この町で赤い目なのは――。
「仄羽さん」
ぱっと意識が弾ける。いつの間にか暁が傍に座っていた。その奥に少女の姿も見える。
暁は返事がないので勝手に入った旨を謝罪すると、少女を手で示した。
「今日から仄羽さんのことは、彼女に任せます。名を初名。これからの待遇については主人と相談してからになりますが、ひとまず困ったことがあればこの子に聞いてください」
「振袖新造の初名と申します。よろしくお願いいたします」
ゆるやかに頭を下げた少女は、仄羽と年端が変わらないように見えた。すっと伸びた鼻筋に濡れたような双眸、白い肌が小さな唇の赤さを強調して、清々しい雰囲気とともに色気を感じさせる。大人びた表情に仄羽は目を奪われた。絶世の美人というわけではないが、どこか呑まれそうな独特の佇まいがあった。
「もしかして、昨日一昨日と……」
朦朧としていたのではっきりとは憶えていないものの、記憶に引っかかるものがあった。暁はあっさりと答える。
「ああ、世話していたのは初名っす」
やはり。初名に礼を言うと、初名はいえ、と一言呟き、膝に重ねていた両の指をたどたどしく絡めた。
「それじゃ初名、よろしく頼んます。たぶん深更の刻あたりで一度呼ぶことになると思うんで」
「承知いたしました」
暁が出ていくと、初名は改めて仄羽に頭を下げた。仄羽も同じように頭を下げて名乗る。
「いまはもう昼見世が始まっていて各部屋の案内やあねさまたちの紹介ができないので、現在お困りのことなどあればお答えいたします」
淡々とした口調で初名は言い、黒々とした丸く大きな瞳を仄羽に向けた。表情は無感動で変化に乏しい。
「あの、昼見世、って何ですか?」
文脈から「あねさま」というのがほかの花魁ということはなんとなく察せられるのだが、暁も言っていた「昼見世」が何のことなのかやはりわからない。初名は何度か瞬いた。どうも常識のひとつのようだ。
「ごめんなさい。言い訳なんですが、あまり春霞のことは知る必要ないって遠ざけられてきて、わたしも知ろうとせずきてしまったものだから」
「いいえ。自分が知っているからと、相手が知らないことを責めるのはよくないことだと教わりました。こちらこそ失礼いたしました」
初名の黒髪がさらりと音を立てて肩をすべり落ちた。謝罪されるとは思わず、仄羽は慌てる。初名はやはり無表情のまま顔を上げた。
「ひとつずつ説明いたします。それと、敬語は結構です。わたしは敬われる立場ではないので」
そんなことない、少なくともこの場では先輩であると伝えたいのに、あまりにもきっぱりと言い渡されて戸惑う。仄羽はぎこちなく了承し、「それならわたしにも普通にしゃべってくれて大丈夫だよ」と言えば、「いえ、これが普通なので」と固辞されてしまった。
昼見世とは簡単に言えば昼の営業のことであった。客を引き、遊郭内で饗する。夜の営業は夜見世と言い、昼と夜の大きな違いは枕のあるなしだ。新造や芸者、幇間が芸を披露し、飲み食いをする点では昼夜一緒だが、昼見世では決して客と交わらない。そして御職と呼ばれる各遊郭一の花魁は顔を出さない。どんな馴染み客でも指名はできないのだ。
また、深更の刻とは客と枕を交わす時間のことだ。しゃんしゃんと鉾先鈴の音が廊下に響けば深更の刻に入った合図らしい。昨日寝こんでいたときに聞いたような、聞いていないような。
「女性客は昼見世のほうが多いです」
普通の飲食店よりは高額だが、夜見世よりは安く済む。ただ一度の贅沢な食事としての利用だろう。夫婦や家族連れも、夜とは異なり足を運ぶ。
そういえば近所の老夫婦が〔春日〕の華やかさを語っていたなと仄羽は思い出す。そのときは結局、父克登に診察の手伝いを頼まれて話の途中で席を立ったのだった。
父。ふとしたときのふとした自分の思考で、突然かなしみの崖から落ちかける。目頭を押えると、初名が覗いてきた。心配そうにしている、気がする。微々たる変化なので自信はないけれど。
「ごめんなさい。大丈夫です。父のことを思い出してしまって……」
ここで働く覚悟を決めることと、父母の死を乗り越えることは別の話だ。もしかすると一生乗り越えられないのかもしれない。
初名は軽く首を傾げた。
「ここに来た理由は暁さまから伺いました。そういうものですか。本来」
どういう意味かわからず、仄羽も首を傾げる。尋ねてよいことなのか考えあぐねていると、初名は無感動な声で続けた。
「わたしも親の関係でここに来ました。母はいません。父の行方は知りません。生きているのか死んでいるのかも……どちらにせよこの場にいないのだから死んだと同じことだと思っています。親の死とは、かなしむものなんですね」
仄羽は頷くことも否定することもできなかった。指先が冷える。物言いからして、初名には親の記憶がないか、ひどい目に遭わせられたか、あるいは〔春日〕に身を置いていること自体が親の非道なのかもしれない。あまりにも先ほどまでと変わらない淡々とした口調で、嫌味で言っているわけではないことがわかってしまう分、初名の無垢さが刺さる。瞬きが増えるばかりで何も返せない。
「それは……」
なんとか言葉を紡ごうとしても続かなかった。初名が目を伏せる。その睫毛、瞼、瞳、曲線があまりにもうつくしく、仄羽は眉を歪めた。
「困らせてしまったみたいです。申し訳」
「ひ、ひと」
音量を上げて重ねる。謝ってほしくはなかった。
「ひと、それぞれだと思う。無理にするべきことは、何もないと思う」
思わず飛び出た言葉だったが、仄羽は真剣だった。
沈黙が下りる。破ったのは初名だった。
「そうですか」
仄羽には、彼女がかすかに笑ったように見えた。
失礼しまーす、と暁が威の部屋に入ると、瑞矢が傍に控えていた。持っていた書類でつい顔を隠す。ゆっくりずらして目線を向けると、やはりじろりと睨まれていた。暁は勘のよさやタイミングのよさに自負があるが、瑞矢に対してはどうも鈍くなる。
「了承の返事を受けてから入れと何度言えばわかる」
叱声に身をすくませ、すんません、と謝る。威がくつくつと笑っていた。主は気にしていないことを暁は知っている。
瑞矢は暁と違い、生まれたときから祇矩藤に仕える家のひとりとして礼儀作法を叩きこまれている。もっとも家令となったのは瑞矢の代からで、それまでは家臣といっても末端に近い家柄だった、らしい。はたして威は嘘をついたりしていないだろうが、瑞矢自身は話したがらないし、暁が来たときにはすでに彼は立派に立ち回っていた。
「まずは狄塚仄羽の件です」
「うん。瑞矢も聞いていけ」
頷いた瑞矢の黒髪がなびく。威が側に置いていて、黒髪黒目なのは瑞矢だけだ。
暁は足元に広がる書類を一瞥して、簡単に分ける。座れるだけの床を確保すると、今度はきちんと作法を持って威に向かう。茶の瞳は自分ではわからないが、橙の髪はちらちらと視界に入って邪魔くさい。
「昨日からの熱は下がり、多少体を重そうにしていましたが問題はなさそうです。伊良子先生からの薬もあるっす」
「そう。それはなにより」
様式美として威は言う。心がこもっていないことは暁と瑞矢には明らかだった。
「留袖新造で大丈夫っすか?」
「かまわない。変更なんていくらでもできることだからね」
つまり、そのままにしておくつもりはないということだ。暁は威がすでに仄羽を気に入っていることを悟る。基本口元に微笑みを絶やさない主だが、表情の奥にはどんな悪意がひそんでいるのかわかったものではない。
「誰につけましょう」
新造とは花魁見習いのことだ。特定の花魁の下につき、花魁に代わり客の食事の相手をしたり、芸を磨いたり、客引きなどをする。床入れはまだしない。初名の役職でもある振袖新造は、禿と呼ばれる花魁の身の回りの世話役を経て新造となった者のことだ。基本的には年齢や修行の年数によって禿から新造になり、そのあとやはり年齢や人気の時期を見て花魁となる。対して留袖新造は禿を経ずに新造になった者のことを指す。仄羽は禿になるには年齢が重なっていた。
振袖新造も留袖新造も、客をとれない代わりに遊郭が給金を出す。〔春日〕ではすなわち、祇矩藤家だ。必要最低限以外は、すべて貸付金の返済にあたる。
「七嶺でいいだろう」
出てきた名前に、暁の小指がぴくりと動く。表に出てしまった動揺に自分自身が呆れ、小さく息を吐いた。
「いい顔したね、アカ」
「ご冗談を」
にこりと笑う。主はさらに目で弧を描き、暁を見つめた。
威は暁を「アカ」を呼ぶ。「あかつき」の「あか」だ。呼ぶのは威だけだが、まるでここに来るまでの自分とは別人になったようで暁は気分がいい。
「でも承りますかね? 禿のひとりもいやがってこれまで誰もつけてないすけど」
「そこを説得するのがお前の仕事だろう。ん? いや、こういうのは瑞矢の領分になるのかな?」
「……〔春日〕の管理ですので、私の仕事にあたります」
威の目線を受けて、瑞矢が静かに答える。普段であれば新しい働き手の案内や処遇は瑞矢が決定している。仄羽は最初に暁が担当したことと威の命令、そもそも途中で引き継ぐ余裕がなかったことが関係して、暁が面倒を見ている状態だ。
だいたいいちいち新造でいいかなどと威に聞くこと自体、本来ありえない。狄塚仄羽はすべてが例外なのだ。
「ま、いいや。今回の七嶺説得はアカ、お前に任せる」
頷くしかない。ある程度は予測できていたとはいえ、首の後ろが粟立った。
かたくなった暁を見て、威はつまらなそうに頬杖をつく。
「でも問題ないと思うよ。七嶺は聡い女だ。部屋も別だし、断る理由はないでしょ」
禿や新造は花魁の世話を焼き、花魁は禿や新造に教育を施す。部屋を同じにして共同生活を送るのだ。
「狄塚仄羽の部屋はそのままで?」
「無論だ。そのほうが都合がいい。七嶺にとってもね」
最後はついでだろう。瑞矢が薄く眉根を寄せたのが暁の側から見えた。
「また熱出させないでくださいよ。一昨日のも主人でしょ」
こんな軽口を威に対して叩けるのは暁と、現在出張で不在の鶫くらいのものである。最初のうちは瑞矢が殴らん勢いで注意していたが、やがて考えを改めたのか、単に諦めたのか、いまではいつものこととして黙って流している。
「熱は勝手に出したんだ。死んでないんだから問題ない」
それは暁も安心しているところだった。外に面した、高い部屋を宛がって飛び降りなかったのは幸いだ。威が大丈夫だと念を押したのでそのとおりにしたが、花魁たちの部屋は通常障子は開けても下は覗けないように格子窓になっている。
「いまは何してるの?」
「初名に世話を任せています」
ちらと瑞矢に目を向けると、瞬きひとつののち視線がかち合う。暁はへらりとした笑みを浮かべた。
「春霞での用語とか、よく知らないみたいなんで。異人の母親が遊郭をきらったみたいすね」
春嵐の外から来た人間が春霞を理解しないのはよくある話だ。大概は仄羽の母のように嫌悪感を示し、それ以外では遊郭を利用しようとする。
威が咽喉の奥を鳴らして笑う。
「いい人選じゃあないか。ちょうどいい。新造としての基本は初名が教えるように」
暁はもう一度瑞矢に目を向けるが、もう視線は合わなかった。肩を持ちあげて「へーい」と軽く返事をする。
「歳も近いんじゃないか? ねえ瑞矢。初名はいくつになったかな」
「…………。一七です」
振袖新造は基本的には一六までの役職であり、一七であれば花魁になっていて当然である。一〇から〔春日〕に身を置く彼女は礼儀作法、芸事はすでに達者だ。愛想は改善が必要だが、ほかは問題ない。
「いい加減返せるものも返せなくなるね。鈴は? なんて?」
鈴とは〔春日〕のなかでも一握りの太夫の称号を持った、初名がついている花魁である。
「まだ出せませんと、その一点張りです」
基本的に新造を花魁にするかどうかは、その新造がついている花魁が判断する。芸事、話術、礼儀作法等がきちんと身につき、表に出しても恥ずかしくないかどうかを見定める。店の看板を背負うことになるので妥協はしない。とはいえ花魁同士での争いがないとはかぎらないため、最終的な決定権は〔春日〕の管理をしている瑞矢が持っている。
「ふうん。鈴が言うんならそうなんだろう」
しかし威は言い、瑞矢をつつくことはしなかった。いや、現状維持のまま深くは聞かないことで瑞矢を苦しめていた。首を縄でじわじわと絞めるようなものだ。暁は唇を一文字にかたく結ぶ瑞矢を眺める。彼は別に、嘘はついていない。
「……狄塚仄羽の源氏名はどうするんすか?」
話を仄羽に戻す。源氏名とは座敷に出るときの名前だ。客には本名ではなく、源氏名で名乗る。春霞と居住区での自分をそれぞれ別の人間にするのだ。
「源氏名? 必要ないだろう。座敷には出さなくていい」
意外だった。えっ、と思わず声が出る。
「客引きもしなくていい。客の前に出すときは僕が決める」
予想していたよりもずっと仄羽を気に入っているようだ。暁は顎に手をやり、頷きながら黙考する。期待してもよいのだろうか。仄羽を座敷に出せば、まずあの髪色が話題に上るだろう。そうすれば少なくとも、彼女の幼馴染である筈井貫爾は春霞中の遊郭を探し回ることなく、まっすぐ〔春日〕に乗りこんでくるに違いなかった。
「承知しました。では万事滞りなく。次に十三天王からの報告っすが……」
これはひとつの賭けだ。
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