ハルヒカゲ

葉生

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一章

二話 - 二

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 昼見世と夜見世の合間に簡単に〔春日〕内を案内してもらい、初名が「あねさま」と呼ぶ花魁、そして新造、禿たちを紹介してもらった。人数は思っていたほど多くはなかった。いわく、「〔春日〕は春霞内でも高額なので、多くは借金を完済して出ていく」のだそうだ。どうしても芸がうまくならず花魁になれない者は料理番や使用人になることもあるらしい。反対に芸はうまいがなかなか人気が出ない場合は花魁ではなく芸者として活躍をするなど、さまざまだ。
 とはいえ基本的には上からの許可が必要なうえ、花魁に比べて一度に稼げる額がぐっと落ちるので当然返済期間がかなり延びてしまう。仄羽の場合は借金の額が額なので許されない。
 借金を返しても行く場所のない、あるいは出ることを希望しない場合は、そのまま籍を置ける。そんなひとがいるのだろうかと仄羽は思ったが、初名がついている鈴太夫がそうだという。
 鈴は太夫の称号のとおり、〔春日〕のなかでかなりの人気を誇る花魁である。「鈴を転がすような声」なので源氏名が「鈴」で、美貌はもちろんのこと、仄羽も鈴の声には心がときめいた。無表情の初名とは違い、おっとりとした微笑みが庇護欲をくすぐる。しかし感情が読みとりにくい点でふたりは似ていた。鈴はなんというか、気を許されているのではとこちらに勘違いをさせる力を持っていた。人気を支える一因だろう。
 誰が休みか、誰が座敷に出ているかは札によって管理をしている。花魁たちに限らず〔春日〕で働く者全員分の木札がずらりと壁一面に並んでいて圧倒された。客引きの当番の確認もできるようになっている。いまは昼見世が終わり、夜見世を待っている状態なので、花魁たちの札はすべて裏返っていた。
「いずれ仄羽さんの札もどこかに並ぶと思います」
 こちらは敬語ですらないのにさん付けは距離を感じてもどかしかったが、最初のさま付けに比べれば妥協してもらったほうだ。夢うつつではっきりとした記憶はないにせよ、倒れていたときに介抱をしてくれたからか、〔春日〕に来て初めて出会った歳の近そうな女の子だからか、仄羽はすでに初名に親愛の情を持っていた。
 いちばん上が花魁、受け持ちの新造、禿と続く。初名の札は鈴の札の下にあった。その下にさらに三つ並んでいる。
「あの札は?」
 少し離れた場所かつもっとも高い場所に札が一枚あり、三枚が横並びになって下にかけられている。そのうち一枚には「出張」と書かれた札が重ねられていた。ほかの札は名前が書かれてあるのに対して、計四枚の札には色だけが塗られている。
「いちばん上の赤が祇矩藤家ご当主威さまのお札、連なる三枚がそれぞれ威さま直属の方々のお札です。向かって左から黒が瑞矢さま、橙が暁さま、出張とかけられた青が鶫さま」
 知らない名前が二人も出てきて混乱する。とりあえず祇矩藤家当主直属というのだから、偉いひとには違いない。ここに来なければ出会うこともなかったであろう、春嵐を支えるひとたちだ。
「休んでいるときには札が裏返っているはずなのですが、わたしはほとんど見たことがありません。いったいいつ寝ていらっしゃるのか……心配です」
 ぽつり、と最後に落とされた呟きに、仄羽は初名を見やる。家が病院を営んでいたからわかる。いまのは心底懸念しているときの声音だ。子どもが急に高熱を出して走りこんできたときの母親であったり、妻が病気になって不安がっている夫からよく聞いた。
 祇矩藤は絶大な支持のもと春嵐を治めてきた。仄羽がいた四区は恩恵が実感しづらいこともあり一区や二区ほどではないが、かといって反抗心はほぼない。おそらく祇矩藤が滅びるときは春嵐も滅びるときであり、漠然とずっと続くものと誰もが思っている。
 しかし〔春日〕では祇矩藤がよくも悪くも身近なのだ。
「偉大なひとたちだね」
 言えば、初名は静かに首肯した。
「んあ、ここにいたんすね」
 後ろから声がして振り返る。口調からの予想どおり、暁がこちらに向かってくる。
「仄羽ちゃんの処遇が決まりました。留袖新造として七嶺の下についてもらいます」
 確か〔春日〕の御職だ。ずらりと並ぶ花魁たちの札のなかで、いちばん左上に「七嶺」の文字があった。その下には鉤があるばかりで一枚も札がない。
 暁が笑って七嶺の札を指さした。
「ただそこを見てもらうとわかるとおり、全部ひとりでやっちゃうひとなんでね。基本は引き続き初名が教えてあげてほしいっす。鈴には話を通してあるんで」
「承知いたしました」
 うやうやしく初名が頷く。暁の言動が気安いので忘れがちだが、春嵐での権力者の一人だと思い出させられる。仄羽としては、出会ってからここまで世話をしてくれているからか、暁が傍にいるとどことなくほっとしていた。
「いまから挨拶に行きましょう。夜見世が始まると夜が明けて昼まで七嶺の都合がつかないすからねえ」
 どんなひとなのだろうか。御職なのだからつまり〔春日〕でいちばん人気、〔春日〕でいちばんということは春霞でいちばん人気ということだ。新造も禿もついていない花魁は札を見るかぎり、七嶺以外にはいない。
「初名は一旦休憩す。夜見世の準備をして、そのまま座敷に出てください」
 初名はまたうやうやしく頷く。結局かすかな変化こそ見られたものの、仄羽といる間、彼女は無表情を崩さなかった。
「初名。瑞矢さんは部屋にいるっすよ。報告してきなさい」
 つけたされた命令に、初名が振り返って深く頭を下げた。小走り気味に階段を上っていく。
「瑞矢さんていうのは、威さまの右腕っす。初名は瑞矢さんが連れてきたんすよ」
 いずれ会うと思うんで。言いながら、暁は瑞矢の札を裏返した。黒がひっくりかえって、単なる木札になった。
 親の関係で〔春日〕に来た、と初名は言っていた。全員が全員、暁に連れられてくるのではないのだな、と仄羽は思う。わからないことばかりだ。祇矩藤のことも、〔春日〕のことも、春霞のことも。これまでなんとなく知っていた気でいた世界はなんて狭かったのだろう。
 暁の後ろについて、階段を上っていく。
 棟がいくつもあるなかで、表通りに面した〔春日〕の遊郭としての玄関がある棟とは別の、最奥の最上階が祇矩藤家当主の部屋だ。同じ建物内にいらっしゃるのだと思えば不思議な感覚がした。側近の暁はきっと毎日のように会っているのだろう。仄羽のなかでは概念的なものになっていたが、実在するのだ。考えていると無意識に体がぶるりと震えて首を傾げる。
 太夫と御職の部屋は、ほかの花魁たちの部屋よりひとつ上の階にあった。現在仄羽に宛がわれている部屋とおそらくは同じ階だ。おそらく、というのは渡り廊下によって棟が分けられているからであり、ぐるぐると階段を上っている間に混乱してしまったせいである。自室と棟が違うことはわかるのだが。
「あの、何か気をつけるようなことはありますか」
 おぼつかない足取りで暁を追いかけながら言う。仄羽が住んでいたのは長屋だったので、階段に縁はない。普段使わない筋肉に響いて足が疲れていた。
「んー、特には。しいて言うなら踏みこまれるのをきらってるくらいすかね」
 踏みこまれる。聞きすぎるなということだろうか。
 煌びやかな装飾が施された襖の前にたどりつく。初名にも「いずれ」と紹介してもらえなかった七嶺の部屋である。鈴太夫たちの襖もきれいだが、この部屋がもっとも上位であると一瞥するだけでわかった。
 座るよう手だけで促され、仄羽は慌てて姿勢を正した。対して暁は立ったままである。
「七嶺。入るっすよ」
 返事を待たずに引手に手をかけ開けてしまう。
 凛、と音が鳴った気がした。まだ着飾らず、化粧もされていないのに、彼女は輝いているようだった。多少吊りあがっている眦はすっと横長で形がよく、くるりと大きな黒目を際立たせる。遠目からでもわかるきめ細やかな肌、薄い唇、整えられた眉。着物の衿は長い首を映えさせていた。そしてなにより、目を奪われたのは髪だ。多くの春嵐出身者と同じく黒々とした髪であるのに、虹色に反射している。
「これは暁さま」
 澄んだ声音は鈴の声とはまた違った響きがある。仄羽は動くことができず、ただ見とれた。
「女の部屋に許しの声なく入るのは、いささか不躾では? 立ったままとはまたお行儀の悪い」
「何をいまさら」
 ふん、と暁は鼻で笑い、仄羽に入るよう命じる。はっとしてなかに進む。暁は立ったまま襖を閉め、仄羽の隣に座った。
 視線を感じる。顔を上げられずに仄羽はかたまっていた。七嶺は長く〔春日〕の御職を務めていると聞いた。こうして会ってみると納得だ。引き寄せられる。動作の一つひとつを見るにつけ、触りたい、触ってほしいと願う。慣れているのかもしれないが、隣でしれっとしている暁が信じられなかった。
「先ほど話した狄塚仄羽っす。今後は受け持ちの新造として気にかけてやってください」
「え、狄塚仄羽と申します。右も左もわからずご迷惑をおかけするかもわかりませんが、よろしくお願い申しあげます」
 最初こそ声が上ずったが、あとは問題なく言えた。深々と頭を下げる。こんなひとがいるだなんて。胸がどきどきと高鳴る。
「そうね。迷惑はかけるのが新人の仕事みたいなものだもの。ほら、顔を上げて」
 七嶺の近づく気配がしてうろたえていると、つ、と扇子を顎にかけられ持ちあげられた。端正な顔が眼前に迫っている。にこりと微笑まれて紅潮した。扇子をどけた七嶺は両手を床に添える。
「七嶺と申します。よろしくお願いいたします」
 まさに妖艶。落ちかけた日が後光となって七嶺を照らし、仄羽はその光景の非現実感にくらくらした。呑みこまれそうになる。しかしやはり平然としている暁が、いつもの調子で仄羽に言った。
「それじゃあ夜見世の準備もありますから退散しましょうか、仄羽ちゃん」
 暁と七嶺の顔を交互に見やる。
「新造は、花魁を手伝うのでは……?」
 世話係という意味では禿の役割だが、その禿が七嶺にはいない。新造は花魁の名代として座敷にもあがるはずだ。初名に教わったばかりの知識を間違えて憶えているのだろうかと不安になる。
 本来はね、と暁が頷く。ひとまず記憶が正しかったことに安堵した。
「けど七嶺には必要ないんす。だから……」
「そうね」
 ぱんと七嶺の声が空間を支配した。暁が七嶺に目を向ける。
「今日から手伝ってもらうことにしましょう。初名が世話をするといっても、彼女にも夜見世の出番はあるのだし、その間暇でしょう」
「七嶺」
 咎めるように鋭く暁が呼びかけるが、七嶺はゆっくりと首を斜めに傾げるだけで答えない。つい先ほどまで感じていた艶麗さは冷然とした雰囲気に姿を変え、背筋が冷えた。仄羽が怒られているわけでもないのに青ざめる。いくら緊張していても、ふたりの間にただならぬ空気が流れているのは仄羽にもわかった。
 立場は暁のほうが上だ。証拠として七嶺は暁をさま付けで呼んでいるし、〔春日〕を経営する側が雇われているほうの花魁の手綱を持つのは道理である。それとも御職ともなると変わってくるのだろうか。まさか。祇矩藤家当主の直属が下になるなんてありえない。
 双方睨みあっていたが、やがて根負けしたのか暁が嘆息した。
「いいでしょう。どちらにせよ準備だけで、座敷には出さないでください」
「無論。ご命令は違えません。威さまからのご命令とあらば」
 うつくしく弧を描く七嶺の唇に対して、暁の唇は片方に持ちあがっていびつな弧を描いた。
 口を挟めない。どうしたらよいかわからず仄羽が内心おろおろとしていると、すでにいつものゆるやかな笑みを浮かべている暁がぽんと仄羽の頭をなでる。小さな子どもでもあやすような手つきだった。
「俺は戻るんで、あとは七嶺の指示に従ってください。こわがらせて申し訳ないっす」
 言うだけ言って、行ってしまった。
 そんなに恐怖が顔に出ていただろうか。これでももう子どもと大人の境である一五は過ぎているのだけれど。
 七嶺に向きなおれば、目を細めて暁が出ていった襖を睨んでいた。声をかけてよいものかわからず口が開閉する。やがて仄羽がいることを思い出したのか、七嶺がぱっと表情を変えた。眉をハの字にしてよわよわしく微笑む。
「巻きこんでしまったわね。少し話しましょう」
 一気に七嶺の態度が軟化して、少々うろたえる。所作や顔立ちこそ濃艶さは失っていないが、つんとして近寄りがたく感じていた部分が消えた。これは暁がいなくなったからなのだろうか。
「夜見世のご準備は……」
「ああ、まだ大丈夫。わたしの出番は後ろのほうだから」
 おそるおそる尋ねた仄羽の言葉に七嶺はあっさりと返して、束ねて留めていた髪をほどいた。見れば見るほど魅力にあてられる。どれだけ手入れをされた髪であっても、こんな輝きを持つものだろうか。
「あなたの経緯については暁さまから概ね伺いました。その髪、きれいな色ね」
 恐縮だ。七嶺さんのほうが、という言葉を飲みこんで、礼を言う。
「習わしどおりなら今日からこの部屋で寝食をともにするのだけれど、わたし、ひとりがすきなの。だからいま宛がわれている場所でそのまま過ごしてください。それがあなたを受け入れる条件のひとつなので」
「わかりました」
 初めて〔春日〕に来たとき部屋の広さに驚いたものだが、御職の部屋とあってここはさらに広い。数人で生活することを前提としているためだろう。ひとりがすきだとしても、仄羽であればさびしくなってしまいそうだ。
「それから昼見世は出ないから、だいたいいまぐらいに来てくれれば充分です」
 御職はたとえ馴染みの客が来たとしても昼見世に出番はない。初名の説明によると、太夫も絶対ではないもののほとんど座敷にはあがらないそうだ。そう簡単には拝めないのが御職であり、太夫はその遊郭を盛りあげる一環としてたまに顔を出す。花魁は客よりも上位というのだから意外だった。
 普段の世話は初名が見てくれるとのことだったので、花魁から新造や禿が習うという芸事や作法は初名が教えてくれるのだろう。
 はたして七嶺につく意味はあるのかわからなかったが、命じられるのだからきっと仄羽がわからないところであるに違いなかった。
「まだよくわかっていないでしょう」
 え、と七嶺を見つめる。七嶺は髪に櫛を入れ始めていて、手伝いたかったが来なくていいと全身が告げていた。
「わたしたちに与えられている源氏名は、春霞内でだけの人生を象るもの。つまり居住区にいたころに持っていたものは一度まっさらになったの」
 仄羽は部屋の隅にいつの間にか置かれていた桐箪笥を思い出す。頼んだとおり、中身もそのままだった。唯一許された居住区での思い出だ。
「もしまだ引きずっている思いがあれば」
 引きずっている思い。
 貫爾の声が耳元でこだました。無理矢理になってしまったけれど、最後に聞いたのが自分の名前でよかったと仄羽は思っている。満足しているつもりで、だけどほんとうはもっとたくさん呼んでほしかった。あの屈託ない笑顔をもう一度見たい。
 うつむきかけ、しかし沈黙がおりていることに気づいて顔を上げる。手慣れているのだろう、髪はすでにほぼまとまっていた。
「……いいえ。失言でした。どこにいても思いなんて引きずるものよね」
 忘れて、と微笑まれる。はかなさすら七嶺をうつくしく見せた。
 つまみ簪が挿される。小ぶりの白い花は目立つものではなかったが、だからこそ七嶺の黒髪を際立たせ、着飾る道具に決して派手である必要はないと示しているようでもあった。
「その簪、すごくお似合いですね」
 踏みこみすぎないこと、という暁の忠告が仄羽の言葉に制限をかけた。どこまでが許されて、どこからが「すぎる」ことなのか判断がつかない。結局口にした当たり障りのない褒め言葉に、七嶺はありがとう、とたおやかに笑った。


 瑞矢さま、と襖の外から呼びかけられて、閉じかけた瞼を開く。名乗りはなくともいまの声だけで誰なのか充分にわかった。札は裏返すように暁に言ったはずだが、彼が裏返す前に確認して来てしまったのか、それとも裏返っていることを承知で来たのか。おそらくはどちらでもない。おおかた暁がけしかけたのだ。札を変えたのはそのあとに違いない。いい加減あの男のやることくらい察しがつく。
「入れ」
 短く応え、組んでいた腕をといた。つまりある程度承知だったということだ。
 ためらうような間があり、静かに襖が開いた。座していたのはやはり初名で、深々と頭を垂れている。覗くうなじが白い。
 入れ、ともう一度告げると、初名はやっと顔を上げてなかに入った。音もなく襖を閉める。鈴の教育もあって、どんな上客が相手であっても恥ずかしくない成長をした。表情がどうしてもうまく変えられないことを気にしているようだが、この顔立ちと所作であれば文句を言う奴はそうはいまい。
 窓際から腰をあげ、初名に向き合う形で座る。瑞矢が問いかけるまで初名はいつも口を開かない。
「どうした。すきに話せ」
 途端、初名は睫毛で影をつくり指先を絡めた。行儀のいい初名が自身の指先をもてあそぶのは照れている証拠である。瑞矢はじっと待つ。初名は顔には出ないので誤解を受けやすいようだが言語化が遅いだけで、無視をしているわけでも無口というわけでもない。
「仄羽さんの世話係に任命されました。さま付けをいやがられて、なぜでしょう」
 自分以外の人間を敬うのは初名にとって自然なことだ。たとえ幼子相手でも敬語を使う。
「歳が近いせいじゃないか。それにここではお前が先輩だ」
 禿から長く〔春日〕に身を置く初名がいまだ新造のままであることをほかの新造や花魁たちがどう言っているのか、瑞矢は知っている。一七。倣いであればとっくに花魁だ。いくらあねである鈴の言葉であっても、いや、言わせているのはきっと自分なのだ。
 初名はもともと別の遊郭に行くはずであった。初めて会ったとき、みすぼらしい恰好と体中の痣で、どんな扱いを受けているのかおおかたの予想はついた。何の気まぐれだったのかまさにその日借金の形として売られるところであった初名を引き取り、〔春日〕に連れてきたのは瑞矢である。そのため借金を持つ花魁は祇矩藤に返済義務があるのに対して、初名だけは瑞矢に返済義務がある。
 せんぱい、と言われた言葉を咀嚼するように初名は口のなかで呟き、続けた。
「でも、わたしは落ちこぼれなのです。あねさまたちが仰られていました」
 落ちこぼれなわけがあるものか。陰口をたたくような花魁たちよりよほど初名のほうがしゃんとした姿勢を保ち、頭のてっぺんから指先までしなやかに舞う。ここに来たときには文字の読み書きもできなかったのが、いまでは立派に筆を扱う。
「それは違う」
 瑞矢は腕を組み、一度うつむいた。まるで言い訳だ。改めて初名を見れば、黒く濡れた双眸をまっすぐにこちらに向けていた。泣いているわけでも、決して泣きそうなわけでもないのに、煽られる。本人に自覚がないのは瑞矢にとって幸いであった。
「他人からの評価は参考にすべきではあるが、鵜呑みにするべきではない。思いこむな。お前はお前だと前にも言ったろう」
 自己肯定が低く、外からの意見をそのまま受け入れるのは初名の悪い癖だ。もっともその誹りについては瑞矢に責任の一端があるのだが。どの口が言うのだかと自嘲する。
 しかし初名は他者の言葉、特に瑞矢の言葉を丸呑みにしてしまうことを瑞矢自身わかっているので、うかつなことは言えない。
「少なくとも暁に世話役を任されるのは、信頼されている証拠だと思っていい」
 こちらは本意だった。瑞矢を揶揄する気持ちはあっただろうが、暁は私的な理由を優先して差配を違えるほど愚かな男ではない。
 初名は黙りこくり、瑞矢を見つめた。いま彼女のなかではさまざまな考えがめぐっているに違いない。この癖は治させなければ無表情と相まって客を怒らせることもあるかもしれない、と瑞矢は薄く笑った。
 また自身の指先を絡めて、初名が瑞矢に言う。
「あの、あと、仄羽さんに、無理にするべきことは何もないと言われました。親のことを必ずしもかなしむ必要はないと」
「そうか」
 狄塚仄羽は親の死を受け入れていないのだろうか。いや、初名のことであるから、仄羽が困るようなことを臆面もなく他意もなくまっすぐ聞いたのだろう。瑞矢はまだ仄羽に会ったことがないのですべては想像の話だが、暁からの報告と照合することはできる。
「死はかなしむものですか。瑞矢さま」
 背が伸び、色気が出て、初名の体はもう完全にひとりの女性だ。少女ではない。芸事も達者になった。それなのに内面だけが成長をとめているようだ。まるで幼子のように無垢な初名は表情とともに精神性をあの痣だらけのころに置いてきてしまったのだろうか。
「……わからない。だがかなしむのもかなしまないのも、結局は自分自身のためだろう」
 瑞矢さまは、と初名がひとりの女性のように呼びかけた。
「瑞矢さまは、わたしが死んだらかなしみますか」
 黒々と丸く、濡れたような初名の双眸。瑞矢はその瞳がいっとう苦手だった。
 視線を逸らさず、真剣な表情の初名を見つめる。口元が知らず弓をつくる。
「かなしい」
 すると初名は細く息を吐くと同時に肩を下げ、表情こそ大差ないものの柔和な様子でかすかに頬を紅潮させた。
 はやくご恩を返せればいいのに、という呟きに、瑞矢は今度こそ視線を逸らした。


 ぽつんと再び与えられた部屋でひとり待機している仄羽は、そろりと障子を開けて下を覗いてみる。来た日と同じくたくさんの提灯が灯され、がやがやとした喧騒があった。
 七嶺は夜見世の準備を手伝ってもらうと言っていたが、結局せいぜい頼まれた着物を押し入れから出したくらいで、着付けのひとつも手助けしていない。触られるのがいやなのだろうか。父克登が診ていた患者のなかでも着物は必ず自分で脱ぎ着する人が一定数いた。
 患者だった人たちも困っているだろうなあ、と嘆息する。診療所はぽつぽつ存在しているとはいえ、同じところで診てもらったほうが楽に決まっている。いまはとりあえず大病している人がいなくてよかった。
 しかし七嶺は艶やかだった。本人はもちろんのこと、着物もである。途中すれ違った鈴太夫と比べると簪が地味ではあったが、七嶺にはきっと関係ないだろう。
「仄羽ちゃん」
 暁の声だ。返事をすると襖が開き、やはり暁の姿があった。
「ばたばたしててすんませんね。主人がお呼びっす」
「主人って……」
「もちろん、祇矩藤家当主の威さまっす」
 瞬時にぴんと背筋が伸びる。〔春日〕にいれば機会はあるのかもと思っていたが、まさかほんとうにお目にかかることができるだなんて思ってもみなかった。それもこんなはやくに。
 祇矩藤威。春嵐を治政するそのひとであり、〔春日〕の経営者。そして仄羽の莫大な額の債権者である。とにかく失礼がないようにしなければならない。祇矩藤家当主について知っている情報を頭のなかで急いで引き出す。当時一二歳という史上最年少で当主となり、それから十余年、大きな混乱もなく春嵐を治めている。また威の代で犯罪率が下がり、十三天王による検挙率は上がった。まれに祭りのときなど御簾越しに市井に現れるが、姿を知っている町民はほぼいない。異人との間に生まれないかぎりは黒髪黒目である春嵐出身者のなかで、唯一祇矩藤だけは君主の証として黒髪に赤目である。
 赤目。
 はっとしたときには、もう威の部屋の前だった。体がかたかたと震える。寒気がとまらない。端から冷えていくのが自分でもわかった。
 斜め前に座っている暁が振り返り、薄く微笑んだ。気づいている。このひとはすべてに気がついているのだ、と仄羽が察したときには、襖が隙間をつくっていた。待ってと叫ぶが声にはならない。仄羽は反射的に手をついて頭を下げ、暁も開けた襖の奥に頭を下げた。
「狄塚仄羽、連れてまいりました」
 流れてくる甘い匂い。うん、と答えた声。
「面を上げて入れ。待っていたよ、仄羽」
 飛びこんできた男の瞳の赤い輝き。ああ、と仄羽の口から嘆声がこぼれた。
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