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一章
三話
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男は驚くほど端正な顔立ちをしていた。彼を形作る輪郭の曲線すべてが滑らかで、黒々とした髪と病的なまでに白い肌が互いを対比させている。右目は包帯で隠されているものの、左目は祇矩藤の証である紅い瞳が仄羽を捉えていた。穏やかな微笑みを口元に浮かべているが、威圧感が拭えない。長年人の上に立ってきたためなのか、彼自身の性質なのか、とにかく逆らってはいけない、と思わせた。
「祇矩藤家ご当主、祇矩藤威さまです」
部屋の中心で、仄羽は改めて一礼する。威が頬を持ちあげて煙管をくゆらせた。着流しに片足を立てて、行儀がいいとは言えない。それでも品があるように見えるのは、祇矩藤家当主がなせる業だろうか。
「で、奥に控えているのが威さまの右腕」
「波良瑞矢だ。威さまの補助、〔春日〕の管理を担っている」
丁寧に名乗られる。しっかりした体格で、棒のように細長い暁や華奢な威に比べると力がありそうだ。右腕ということは護衛も兼ねているのかもしれない。
瑞矢を見ていると少しだけ貫爾を思い出させた。顔立ちはまったく似ていないし、立ち居振る舞いも比べものにならないほど瑞矢のほうがしっかりしていてうつくしいのに、黒髪黒目の男性を久しぶりに目にしたからだろうか。だとしたら随分滑稽である。
「もっとはやく呼ぶつもりだったんだけど立てこんでいてね。これでも繰り上がったほうだ。瑞矢ときたら鬼のように仕事を持ってくる」
とんとんと灰を落として、威が軽い調子で言う。言われた瑞矢は鋭い目つきを威に向けただけで、何も答えなかった。
この部屋は最上階で、そのうえ客が入る廓とは棟が違うためか、夜の喧騒は聞こえてこない。初名に案内をしてもらったのも必要最低限の部分だけであり、全貌はわからなかったほど広い屋敷だ。明確な位置はわからないが、外の通りとも離れているのだろう。
「ああ、でも、がんばったかいはあった。やはりきちんと明りのもとで見るものだ」
うっとりと目を細められて、仄羽はさっと視線を落とす。あの赤い瞳に見つめられるとまるで動けなくなってしまう。
「ところで、貫爾とは誰だ、アカ」
威の突然の低い声に、空気が張り詰める。貫爾の名前に仄羽が顔を上げると、威の視線は仄羽の隣にいる暁に向けられていた。暁を見れば、いつもの軽薄な笑みは消えて唇を結んでいる。あのとき言われた「アカ」というのはどうやら暁のことらしい。
「威さま」
「なんだ瑞矢。お前も知っているわけだな。だがいま僕はアカに聞いているんだ」
今度はじろりと瑞矢が睨みつけられる。瑞矢は開きかけた口をやがて閉じ、小さく頭を下げて姿勢を戻した。つい先ほどまでとは異なる冷血な表情に仄羽も震える。顔立ちがうつくしい分、おそろしさも倍増した。代わって説明をできるような雰囲気ではなかった。
「報告不備、大変失礼いたしました。筈井貫爾、仄羽と同齢の幼馴染です」
「なぜ黙っていた。理由だけ聞こうか」
「互いに懸想しあっている様子だったので」
懸想、という言葉に仄羽の頬が赤くなる。こんな冷えた空気のなかでよく意識できると自分でも感心するほどだったが、不意をつかれたので仕方がない。まさかそんな説明をされるとは思っていなかった。だいいち貫爾の気持ちはまだ聞いていない、とはいえ、期待はしていた。
頬に手をやると、冷たさがちょうどよかった。表情を戻そうと奮起する。威はそんな仄羽をちらと見やり、納得したように顎を小さく上げて暁に続きを促した。
「主人の差配を邪魔する要因になると判断しました」
「ということにした?」
歪んだ笑みに、さっと仄羽は青ざめた。体がこわばって頬にやった手も下ろせないまま、威から目が離せなくなる。
煙管を置いた威はゆっくりと立ちあがり、暁の前へと来る。暁の髪を指ですき、額からつたって右瞼の上で二本の指をとめる。体に不似合いなほど細くて長い、骨ばった指だった。
「もう一度聞こうか。なぜ黙っていた」
威は口元こそ笑っていたが、目はまったく笑っていなかった。
暁の咽喉がこくりと上下に動く。徐々に顔を上げ、威と視線を合わせた。威の指は瞼の上から動かない。
「仄羽ちゃんに期待をしました」
え、と仄羽は暁を見る。暁は威をまっすぐ見つめていた。いつものように口角を持ちあげている。
「主人に筈井貫爾を利用されるのではなく、俺が利用してやろうと思ったんす」
宣言でもするかのごとく明瞭な物言いだった。威の唇はさらに深い弧を描き、彼の指に力が入った。う、というかすかな呻きが隣から聞こえてきて、仄羽はとっさに目を瞑る。
しかしそれ以上は何も起こらなかった。指は離れ、暁が瞼をなでる。
「ま、いいだろう。茶の瞳は惜しいしね」
「ご寛大、痛み入ります」
ほっとしたのも束の間、ゆったりとした足取りで仄羽の前に威が立ちふさがった。しゃがまれ、眼前で微笑まれる。どきりとしてうつむいた。感情の整理がつかない。威は間違いなく仄羽に乱暴を働いた男であり、行為は仄羽のなかで深い傷となっている。だが憎らしくはなく、なじったりもできなかった。それどころか魅せられている自分が微少ながら確実に存在している。これは春嵐の町民として致し方のないことなのだろうか。
「だ、そうだけど? 仄羽」
威の着物で視界がほとんど奪われる。高くひとつに結んだ髪を前方から覆うようにして触られているのだと一拍置いてから気づいた。鼻腔をくすぐるにおいはあのときを想起させる煙管のものと、おそらくは威自身のものが混ざっていた。抗えない。仄羽は精一杯の抵抗としてぎゅっと目をつよく閉じた。
すると一瞬においがさらにきつくなり、唇が生温かい感触に襲われた。反射的に威を押しのけようとするが阻まれる。この細い腕のどこにそんな力があったのか、掴まれたままびくともしなかった。
「興が乗った。予定をずらす。いいな瑞矢」
「……承知いたしました」
瑞矢が頭を下げ、暁ともども部屋をあとにする。待ってと言いたいのに、仄羽はただ出ていくふたりを見ていることしかできなかった。ふさがれていたからではない。唇は自由だった。なぜなのか仄羽自身もわからず困惑する。
「瑞矢。お前との話はあとでする」
障子が閉まる直前威が言い放ち、瑞矢は返事をせずに頷いて完全に障子を閉めた。
威は犬のしつけでもするかのように仄羽の咥内に親指をつっこみ、反対の手で仄羽の前髪をなでた。こわくなるほどやさしい手つきだった。
「アカに期待されるだなんて相当だね。貫爾とは恋人だったのかな」
できるかぎりの力で首を横に振る。威の指に顔を固定されているためかすかな動きになった。
「ふうん。でも、まだ、すき?」
びくりと体が震えた。気持ちを指摘されたのは同じであるのに、今度は顔面蒼白になる。肯定と変わらなかった。威の笑顔がおそろしい。まるでこの世のものではないような。
それでも咽喉元までせりあがってきた言葉は、「違う」だった。
違う、違います。そんなこと、ありません。
しかし結局口からは何も出てこなかった。咥内は乾いて息を吸うたび少しひりひりした。
「じゃ、きらい?」
貫爾の笑顔が脳裏に浮かんだ。小さなときから一緒で、周りに揶揄されても決して離れず、ずっと守ってくれていた幼馴染。
がちん、と音が鳴った。自分の歯と歯がぶつかった音だった。間一髪、威は指を引き抜き、さらに瞳を愉快そうに細める。前髪をつままれ、瞼、頬、輪郭、そして仄羽の首をなでた。表面に触れる程度のもので痛みは一切なかったが、暁の呻り声が耳元で再生される。首から離れない指がどう動くのか、どう力を入れられるのか、恐怖でまたがちんと歯が鳴った。
「き、き、きらいになんか、なれません」
なかなか噛み合わずに震えるのにかまわず、仄羽は威に言った。じわりと視界がにじんだがぐっと堪え、逸らしそうになる視線を必死に威に向け続ける。
「貫爾はわた、わたしの大切なおさなな、幼馴染です。きっと、一生、きらいになんかなれません」
威は一度真顔に戻り、首を傾けた。仄羽の首元に置かれた指が輪郭をなぞってせり上がり、くんと簡単に顎を持ちあげられる。
顔が近づいてきた、と思ったときにはすでに唇は重なっていた。上から重なるようにかぶせられて、威の胸元を叩く。どん、と鈍い音がしたが、威は動かない。必死に口を開くまいと抵抗したものの、呼吸がつらくなった一瞬を威は見逃さなかった。ぬるりとした感触に再び胸元を叩く。だんだんと力がなくなり、最終的に威の腕にすがるほかなかった。いやじゃない、のが、いやだった。
まるで望んでいたかのように、あっけなく仄羽は押し倒された。やっと離れた威が仄羽を見下ろし、仄羽の目尻に浮かんだしずくをそっと指で拭き取る。この感覚には覚えがある。こんなにひどいことをされているのに、なぜ胸のうちが熱くなるのか。決して仄羽の意思ではなかった。
「僕のことをひどい奴だと思っているだろう」
包帯で隠された右目もこちらを見ている、と仄羽は感じた。顔には凹凸があるのにほとんど隙間なく巻かれてまったく気配の覗けないその瞳も、きっと紅い。
「だがきらいにもなれないだろう。そういうものだ。そういうものだった」
気怠げな言い方に、仄羽は押し黙る。まったくそのとおりで、威も別段反論してほしいなどとは思っていないようだった。
だが、独り言にも似た言葉は仄羽の胸をついた。威の言うことは理解ができない。いかに彼が諦観していても、そこに至る過程をくみ取ることはできそうになかったし、乱暴を働いた男に対してする必要もないように思えた。ただ、ここまでずっと目線を逸らさなかった威が、いまは空を見つめている。なんだかその様子が、人間みたいに見えたのだ。
「きらいです」
口にした途端、自分で言ったにも関わらずがんと頭を殴られた心地がした。好意。恐怖。尊敬。畏怖。悲憤。綯交ぜになっている威に対する感情のなかでどうしても見つけられない嫌悪。言ってはならないことを言ってしまった、そんな後悔が全身を毒す。
再び向けられた威の瞳を睨みつけようとしてうまくいかず、意に反して仄羽は薄く微笑んだ。
「威さまなんて、きらいです」
真顔で黙っていた威が、やがて笑った。少なくとも仄羽がともにいるこの短い時間のなかで、初めて威が形だけではなく笑んだ瞬間だった。あまりの優美さに目を奪われる。おそろしさを含んだ蠱惑的なところはなりを潜め、そのうつくしさにどんな雄大な景色も霞んでしまうのではないかと思われた。
顔に影ができて、仄羽はびくりと瞼を閉じる。何度目か、唇が重なる。これまでとは明らかに異質な、やさしい口づけだった。ちゅ、と小さな音が立って威が離れ、恥ずかしさに仄羽は耳まで赤くする。これではまるで恋人ではないか。吐息のかかりそうなほど間近な位置で威が瞬くのを見つめる。
睫毛が長い。紅い瞳の奥に自身が映っているのがおぼろげながらわかる。時折り目を伏せながら、仄羽は動けずにいた。逃げるならいまが恰好のときだと頭ではわかっている。仄羽が困惑しつつも威を観察しているように、おそらく威も仄羽を観察していた。
「いいよ逃げても」
仄羽の考えを見透かしたように威が言った。
「逃げたいんでしょ」
掴まれていた手首をおそるおそる動かすと、威の拘束はあっさりと解けた。その手で威の胸元をやんわりと押し返せば、自分よりも秀麗な顔の男は簡単に離れた。呆気なさに茫然とする。
どうしたらよいかわからず、仄羽はひとまず座って衿を正した。威は仄羽が部屋に入ってきたときと同じく、片足を立てている。
「逃げていいって言ったんだ」
言われた内容が咀嚼しきれず、まぬけな顔になる。すでに余裕のある笑みを口元にたたえていた威は、動こうとしない仄羽に言葉を重ねる。
「これじゃ抜け出しただけだ」
さすがに仄羽も理解して小さく頷き、うつむく。自分の手が小刻みに震えていた。はたして心無いことを口にしたためなのか、威に襲われたためなのか、もはや判然としなかった。
恐怖はまだある。明らかにくすぶっている。いまはおとなしくしているが、いつ火種が大きくなるかわかったものではない。威の気が変わる前にはやく出ていかなければ。そう思うのに、足が動かなかった。こちらは恐怖のためではない、と仄羽はきちんと知っていた。
祇矩藤家当主には逆らえない。命令ならば従わざるをえない。それなのに選択肢を残されては、仄羽は混乱して次の行動がとれなかった。
「花魁は」
何を言っているのだろう。仄羽は頭をかきむしりたくなった。話せば話すほど貫爾が遠くなっていく心地がした。
きっといまだ。居住区と春霞をつなぐ唯一の出入り口、大門の前に、いま立っている。仄羽は振り返る。貫爾が追いかけてくる。必死に走って、仄羽に手を伸ばしているのがわかる。仄羽、と叫んでいるのが聞こえる。仄羽の足は、貫爾とは反対側、春霞の方向に進む。見えている。聞こえている。戻りたいと思う。いや、戻れたりはしないのだ。ここに来てはいけなかった。大門の向こうで、紅い瞳の男がじっとこちらを眺めている。男は仄羽の名を叫んだりはしない。仄羽に手を伸ばしたりもしない。
こわい。行きたくない。行ってはならないとさえ思う。思うのに、同時に、行かなければ、と思う。
「客の選り好みはできないのではないですか」
大門が閉まる。仄羽は貫爾ではなく、男の側に立っていた。
途端威が、ははは、と声をあげて笑った。
「残念だができる。花魁は気に喰わない客の相手はしなくていい」
啖呵を切るくらいのつもりで言ったのに返されて、仄羽は赤面した。
初会、客は花魁と口も利けない。同じ座敷内にはいるが離れて座る。芸者を呼んで財力を示すのが客の主な役割であり、このときの態度等で花魁にふさわしくないと判断されれば以降その花魁を指名することはできないのだ。もちろん客を断るということはその分稼ぎがなくなる可能性もあり、よほど粗暴でなければ決断するのは花魁自身である。
「座敷において上位なのは常に花魁だ。仮に僕も客になるのなら下位となる」
祇矩藤家当主が。仄羽は頭がついていかずかすかに眉根を寄せた。ありえない。現当主である威自身が言っているにも関わらず、信じられなかった。
「望んでもいないことを口にするな」
二回目、あるいは裏という言い方をするが、やはり客は花魁と口が利けない。初会よりは近くに腰を下ろすものの、することは同じだ。揚げ代と称される支払いばかりが嵩む。
三回目、やっと会話が許される。と同時に、床入れも望むのであれば可能だった。客は花魁の「馴染み」となり、一度馴染みとなるとほかの花魁のもとへ通うことは許されない。
「覚悟があると思うだろう。それではつまらない」
立ちあがりかけた威の着物の裾を掴む。威が一瞬、不快そうに仄羽を睨んだ。迫力にひるんで手を離しそうになったものの、すぐに掴みなおす。
「覚悟をしろと言ったのは威さまです」
ほとんど叫ぶように発して、我に返った。言っただろうか。近いことは言われた気がするが、覚悟というのは仄羽の解釈であって、威にその気はなかったかもしれない。
とはいえもはや引けなかった。真剣な表情で威を見つめる。紅い瞳がこちらを見つめ返す。無礼を謝罪したい気持ちがわきあがるのをぐっと堪えた。目の前の男は祇矩藤家当主であるが、自分に乱暴を働いた男でもあるのだ。遠慮なんていまさら、必要はないはずだ。
威は座りなおし、裾を掴んでいた仄羽の手をとった。仄羽よりも一回りか二回り大きい。
「じゃあ、貫爾よりも僕に尽くせ」
仄羽の首を掴んで、威は言った。指が肉に喰いこむ感触がする。痛くも苦しくもないが、いつでも痛くも苦しくもできる境目で力を加減されていた。
脅しだった。頷くしかない。頷かなければ首にあるこの手に何をされるかわからないし、何度も仄羽を支配している春嵐町民としての矜持が祇矩藤家当主の否定を許さなかった。けれど仄羽は絶句したまま、肯定も否定もできず、ただうろたえた。
「お前の覚悟なんてそんなものだ」
威は仄羽から離れ、煙管に火をつけた。冷ややかな視線を送られる。ぞっとするほど鋭く暗い目だった。
姿勢もそのままに動けずにいる仄羽に、威は口の端を歪めて笑った。
「はっきり言ってあげようか? 部屋に戻れ、仄羽」
じわりと視界が揺らめき、ぼたぼたと大量のしずくが零れ落ちる。人前で泣くだなんてはしたない。祇矩藤家当主の前でなんて失礼な。そもそもなぜ泣いているのだろう。思考と現実が切り離されたように、頭のなかはぐるぐるとさまざまな思いがひっきりなしに渦巻くのに対して、現状をどうにかしようという考えは一切浮かばなかった。
ああ、戻らなければ。威さまがそう仰るのだから。
立ちあがろうと足に力を入れるが、うまくいかない。無様に倒れこむ。そのまま慟哭しようと口を開いた。泣くときの声のあげ方など忘れてしまったらしく、あ、と小さな音が咽喉の奥から出ただけで、それもうまくいかなかった。
畳に影が落ちる。少しだけ頭を上げると、威の足が見えた。甘いにおいにまとわれている。
「顔を上げろ」
低い声での命令に、びくりと震える。決壊をとめられぬままおそるおそる従うと、威は嘆息とともに座りこんだ。義務でもあるかのごとく、また仄羽の頬や鼻筋をつたう涙を丁寧にぬぐい、目尻の水たまりをそっと指でふきとった。
近づいてきた威の顔に、顎を引いて抵抗する。
「こちらを向け」
「い、いやです」
ひっく、としゃくりながら答える。威を押し返そうとする腕に力が入らない。全身が震えて仕方がなかった。
腕には力が入らないのに、顎にかけられた指には渾身の力をもって拒否を示す。ぼろりと涙が落ちて、威はそのたび攻防をやめぬぐいとった。
「そ、そのにおい、いや。いやです」
襲われた夜がちかちかと脳裏に浮かんでは消える。
あのときいまと同じく「いや」と主張した仄羽に威が何と答えたか。憶えていても言わずにはいられなかった。
「いやです……」
ぐずぐずと幼子のように泣き始めた仄羽を、威はゆっくりとなでた。暁の手よりも丁寧で、あたたかい。
突然抱き寄せられる。鼻腔いっぱいに煙管のにおいが広がって苦しい。もがいているとさらにぐっと首元に顔を押さえつけられた。煙管のにおいに混じって、別のにおいが鼻をつつく。やがてそちらのにおいがつよくなってくると安堵した。
人の体がこんなに安心できるものだとは知らなかった。威はやはりおそろしいことには変わりなく、震える全身はまったく治まる様子を見せないのに、心地よい。混乱していて、きっといま自分は正気ではない、と仄羽は頭の片隅で思う。
「百面相だなお前は」
ぽつりと耳元で呟かれた言葉に、やみかけた雨がまた勢いを取り戻す。いつか貫爾に言われた言葉だ。このたった数日で、貫爾のことを忘れることなど当然できない。自分に乱暴をしたこの赤目の男を許すこともできない。それなのになぜ、いま自分は貫爾ではなく、威の腕のなかにいるのか。おそろしくてかなしくてくるしいのに、なぜ気持ち悪いと突っぱねることができないのか。なぜ、貫爾を思って拒みきることができないのか。
だらりと力なく下ろされた震える仄羽の腕を掴み、威は自身の首に触れさせた。威が仄羽にしたように、いつでも首が絞められる状態になる。
威が仄羽を見下ろしている。仄羽も威を見上げて、涙で霞むなか見つめ続ける。
祇矩藤の証である紅い瞳があった。威の視界のすべてである紅い左目。あのとき、暗闇で光った赤。
こいつが!
突如、仄羽の腹の底に潜伏していた嚇怒が溢れ出した。瞳孔を開いて歯を食いしばり、指を喰いこませる。威はあっさりと倒れ、仄羽は無我夢中で馬乗りになり両手をかけた。もはや紅い瞳など見ていなかった。喰いこんでいく自身の指、筋が立って殺意の塊となる手の甲、覆われた白い肌の首。
噎せるような声とも咳ともつかない小さな音が耳を刺し、はっとして仄羽は手をどけた。途端、威がげほげほと咳きこむ。首元には仄羽の指で傷ついた赤い喰いこみの痕があった。
ぽろぽろと、また涙が落ちる。なんておそろしいことを、取り返しのつかなくなることをしていたのか。自分の手が気持ち悪くなり、どうにか外そうと両手を揉み合わせたりなどしてもてあそぶ。もちろん、外れたりなどできるわけがない。本能的に逃げようと腰を上げかけると、がっと手首を掴まれた。
「逃げるな」
殺されかけたというのに、威の口元にはもう笑みが戻っていた。血の気のなさに自分のしたことのおそろしさが波となって襲ってくる。
威は一切の抵抗を見せなかった。まるで促すように仄羽の手を自身の首に持ってきて、暴れたりはせず、受け入れていた。
ますます考えていることがわからず不気味で、仄羽は腰を浮かせたままになる。
体を起こした威は改めて座り、仄羽を膝の上にのせた。何度目かの恐怖が仄羽の体を萎縮させる。
「悔いる必要も気に病む必要もない」
けほ、と威はまだじゃっかん咳きこみつつ言った。
「お前が自分で自分をおそろしくなる、そうなるほどのことをしたのが僕だ」
呼吸を深くしつつ、仄羽の涙をぬぐう。いやがられることなく、指先がおざなりになることなく繰り返される。
仄羽のちょうど目線の先に、威の首がある。赤黒く鬱血した痕はしばらく消えないだろう。祇矩藤家当主の玉体に傷をつけた罪悪感で謝りそうになり、しかし威が言うように、威が仄羽に乱暴を働いたゆえの傷だ。ひどいことをしたと言いつつ威は謝らない。仄羽はぐっと言葉を飲みこみ、代わりにそっと威の首に触れた。
つむじに柔らかい感触が伝わる。唇を落とされたのだと気づくと、首に触れていた手をとられた。
自分の手はやはり小刻みに震えていたが、胸のうちはどこか穏やかだった。単につよい感情を吐き出した疲弊で何も考えられないだけかもしれない。
もう顎を引いて抵抗したりはしなかった。威に口づけられるのに任せ、威に導かれるまま従う。部屋の光の下に晒されるのがいやだと言いそうになり、しかし暗闇は乱暴された夜を想起させてこわい。結局黙って従った。
「叫んでもいいよ。誰にも聞こえないからね」
握るように促された威の衿を溺れないよう必死で掴み続ける。叫んでも誰も助けてはくれないということなのだろうが、もはや仄羽にはどうでもよかった。
合わせをずらされ、胸元が広がる。差し入れられた威の手は仄羽の乳房を覆い、びくりと体が反応した。同時に脚がなでられ、自分でも普段意識しない輪郭がはっきりと境界線をつくっていくのがわかる。
前とは違う。何をされるかわからず、どこを触られているのかもわからず、ただ得体の知れない怪物に襲われて恐怖ばかりが支配したあのときとは、まったく。
じわ、と飽きもせず仄羽の視界を奪う水を、両手がふさがっているからか威は落ちる前に舐めとった。そのまま唇をふさがれ、手に力が入る。脚にあった手はいつの間にか境目の近くにまで登ってきていて、触れられた瞬間、体が小さくはねた。無意識のうちにふさがれている唇の奥で声をあげる。
帯をほどかれ、背中に回った威の指がつうと背骨をなぞった。ぎゅっと目を瞑ってうつむくと頭に何度も唇を落とされる。ひとつに結ばれた桃色の髪が揺れた。
仙骨のあたりをとんとんと叩かれる。秘部をかき回されるのをまぎらわせてくれたが、長くは続かなかった。細かく反応して体がはねるのも、そんなところを触れられているのも恥ずかしく、羞恥をごまかすように威の首元に顔をうずめた。着物に染みついた煙管のにおいとは別になって香る、おそらくは威自身の芳しさが仄羽の気持ちを落ちつかせる。
「力を抜け」
肩にうずめたせいで耳元でささやかれる形となり、仄羽は低音に動揺しつつも首を横に振った。力を抜くとどうなるか知っている。
「仄羽」
まるで愛しいものを呼ぶような穏やかで少し甘えた声音に、仄羽は一瞬、意識を手放した。その一瞬で威には充分だった。
「あっ、あっあっあっ」
次から次へとひっきりなしに襲ってくる何かに、仄羽は衿ではなく威の腕にすがりつく。あれだ。正体不明の、腰から脳天にかけて駆け上がる、何か。
あられのない自分の姿など問題ではなかった。思わず自分の指を噛むと、すぐに奪われて無防備になる。
「こわがるな」
「だって、やだ、こわい」
流れる仄羽の涙を初めて威は放置して、こわくない、と言い聞かせた。
「こわくない」
視界の端に威の紅い瞳が飛びこみ、腰を中心に仄羽の足先から頭のてっぺんまで、電撃が走った。
弓なりに反った仄羽の体を威は抱えこんだ。やがてくたりと脱力した仄羽に口づける。
わけもわからず息を弾ませる仄羽に、威は小さく首を傾げた。
「自分で触りたくなったこともないのか」
仄羽は無意識にきゅっと威の腕を掴みなおし、心底不思議そうにしている威に答える。
「あり、ますけど……。でも、こんなんじゃ、なかったので」
そうだ。こんな感覚は知らない。仄羽にも当然、性欲はある。行為自体に興味はあったし、いつかは結婚して子どもを産むだろうと漠然と思っていた。まさかこんなことに、〔春日〕に来ることになるなんて想像もしていなかった。祇矩藤家当主の腕のなかに捕らわれることになるとも。
留袖新造を命じられた仄羽は、倣いでいけばいずれ花魁になる。客と枕を交すことが仕事となる日がくるのだ。
(いやだな)
わかっているつもりで考えないふりをして、ふわふわと宙に浮いていた意思が、初めてはっきりと形になった。
はじめは仕方がないと思っていた。借金は事実であるし、それがたとえ仄羽の知らないところで嵩張っていた親のものであっても、責任は少なからず自分にもあると。いや、正しくは、借金返済義務が自分に移ることで、亡くなった親と唯ひとつながり続けていられる証だと、どこかで思っていた。
春霞が栄えるのは、春嵐の町民が花魁という職業をきちんと敬っているからだ。大工や医者と同じ、職業のひとつ。ただし身を削っているという点において、むしろほかの職よりも高く考えられている。母早彰が露骨に嫌悪感をあらわにするのが、幼いころ仄羽にはわからなかった。
いまならなんとなく汲むことができる。あくまでもなんとなくであって、説明はできない。
「貫爾とこうしたかった?」
仄羽の前髪を分け目に沿ってなでながら、威は言った。癖と思われる笑みが鬱陶しい。
どうだろうか。よくわからなくなってしまった。とりあえずはっきりとわかっているのは、いまは貫爾のことは考えたくない、ということだ。
ぺちん、とまぬけな音が響いた。仄羽が威の頬を叩いた音だ。予想外だったのか威が瞬く。自分の指先が熱いのが頬に触れていると感じられた。
「威さまは、ひどいことがしたいんですね」
赤目が仄羽を覗きこむ。寂寥感が揺らめいた気がしたが、勘違いかもしれなかった。
黙ったまま唇を重ねられ、仄羽の手は威の首に回る。かすかに開いた隙間に侵入してくることもなく、威はただ何度も重ねた。息苦しさに胸が詰まった。
気まぐれなのだろう。気まぐれであるならば、こんなふうに触れないでほしい。行き場を失った威の感情に押しつぶされそうでたまらない。こんなふうに、柔らかく触れないでほしい。
体が持ちあげられ、ゆっくりと落とされる。痛い。痛いのに、耐えたいと思う。
「力を抜いて息を吐け」
従いたくとも体は言うことを聞かず、威の頭をぎゅっと抱きかかえる。結果として押しつける形となった乳房を歯と舌でもてあそばれ、知らず力が抜けた。
異物感が気持ち悪い。体の中心にある空洞を埋められていく。いじられ続け、だらりとだらしなく体液が漏れていくのが自分でもわかり、それがまた気持ち悪さを助長した。
呼吸がうるさい。あとどれくらいだろうか。声をあげる余裕もなかった。
ちゅ、と音を立てて口づけられ、仄羽は自分が瞼を閉じていたのを知った。おそるおそる開いてみれば、変わらぬ笑みを浮かべつつも、余裕がなさそうに薄く汗を流している威の顔があった。
先ほど叩いた頬をなでる。白くて、すべすべとして、いつまででもこうしていられる気がした。その白さの分、首についた爪の痕は痛々しく映った。
仄羽の口元がかすかに弧を描く。いつの間にかまた流れていた涙を、やはり威がそっとぬぐいとった。思えば暗闇にいたときから、手つきだけはやさしい男だった。
合図も言葉もなく、仄羽は腰を掴まれ、ゆっくりと上下に動いた。もはや必要がなかった。このときに限っては、呼吸や視線だけで充分お互いに伝わった。
くるしい。くるしい。くるしい。
せりあがってくる感情が自分のものなのか、それとも威のものなのか、判別がつかない。
「痛い」
仄羽ではなく、威が言った。胸元に顔を寄せられる。発汗のためかそれとも威の着物が崩れているせいか、もう仄羽には煙管のにおいが消えたように感じられた。代わりに威の香りが鼻腔を刺激する。さらに求めて、仄羽も寄せられた威の頭に顔をくっつけた。
「痛い?」
「吐き出したい」
乱暴を働いた男と同一人物とは思えぬ呟きをした威に仄羽は困って、答えず黒髪をなでた。
しかし威は引き続きゆっくりと仄羽を上下させた。だんだんと笑みもなくなり、余裕のなさが浮き彫りになる。
「痛い?」
今度は問いかけられて、息も絶え絶えに仄羽は頷く。この状況で一生を終えるのではないかとさえ思う。
「そう」
威の伏せられた睫毛が頬に影をつくった。つくりもののような端正な目鼻立ち。七嶺も鈴もきれいだったが、花魁よりも主人がいっとううつくしいだなんて、嘘みたいな話だ。祇矩藤家当主は現在いくつだっただろうか。姿からは年齢が割り出せない。
びくりと仄羽の体がはねる。中途半端に冷静な分、自分とは到底思えない声に羞恥で口をふさいだ。何が起こったのかわからなかった。
「あ、あっ」
続けてわからない「何か」が仄羽を襲い、ふさいだ指の隙間から声がこぼれる。震えているのは恐怖のためではなかった。
「ふ、顔が僕の目みたいな色だ」
柔らかに綻ばれて、なおさら仄羽の顔が赤くなる。そんな表情は向けないでほしい。
「及第点だな」
ぐっと一度腰を押しつけられたあとはゆっくりと抜かれ、仄羽は着物が汚れないように座らされた。代わりに畳が汚れてしまうと慌てたが、威にいらない心配するなと一言されたので、素直にへたりこんだ。
威は自身をしごき、避妊具のなかに欲を吐き出した。初めて目にする屹立したものを恥じらう気力すらすでに使い果たしていた仄羽は、朦朧とする頭でぼんやりと威を見つめる。
手拭いを渡されてももはや動けずにいると、
「こんなことを僕にさせるのはお前くらいだよ」
と、さっさと着物を整えた威が仄羽の顔や秘部の液体を拭き取った。途中で我に返ったがむしろ威は仄羽の様子を見ると嬉々として譲らなかった。
着物は完全に脱がされ、のろのろとして覚束ない仄羽に威は浴衣を着つけた。困惑していると、裸のままがよかったかと嘲笑われ首を横に振る。
すでに先ほどまでの行為がまるで朧気だ。頭が働いていない。あんなに無遠慮に傍近く寄せていた威が、いまはもう「祇矩藤家当主」にしか見えなかった。とはいえ、無礼な言動を伏したくなるほどの意識はない。
「隣室に布団が敷いてあるからそこで寝ろ。風呂……は明日にしておけ」
茫然としている仄羽に威は言い放ち、腰を上げる。
遊郭内はそろそろ深更の刻に入る頃合いだった。廓とは棟が違うにしてもへたに動くなということなのか、あるいは階段をすべり落ちていきそうなほどよわっている仄羽を気遣ったのかは威のみが知るところだ。
「威さまは」
抵抗する気も起きず尋ねると、
「当然、仕事だ」
威は片足を立てて、文机の前に鎮座した。必要なことは伝えたとばかり、すでに墨を磨りながら書類を読み始めている。
右目を覆う包帯をさすっている姿を見て、あれだけ汗をかいたのだから変えたほうがよいのではないかと思ったが、進言する気力がない。仄羽は思考を一旦放棄して、足をもつれさせながら隣室へ向かうと、何分の一かという小ぢんまりとした部屋だった。
確かに布団は敷いてあったが、明らかに威の使ったあとである。毛布は端がめくれていて、枕元には煙草盆が置いてある。ここで仄羽が寝てしまっては、彼はどこでいつ寝る気なのか。
いや、ここは祇矩藤家だ。布団くらいいくらでもあるだろうと、仄羽は潜りこむ。心身ともにすべてを持っていかれたような心地が、寝転がっただけで幾分か癒された。しかし自分でも驚くほど動きが鈍く、毛布をかけるのも一苦労である。
布団からは煙管のにおいがした。あの甘いにおいだ。眉根が寄る。少しでも気を抜いたらすぐ夢の世界に行けるほどの眠気が仄羽を支配しているにも関わらず、いやだという気持ちがつよすぎてこのままねむるのを自分自身が許さない。かといって抜け出して自室に戻ることは、もはや敷き布団と毛布に挟まれたいま、不可能だった。
逃れようと体をよじり、枕に顔をうずめれば、奥からほんのり威のにおいがした。思いこみかもしれないし、睡眠に身をゆだねるため自分の記憶が引っ張り出されているのかもしれなかったが、仄羽にはどちらであっても問題なかった。かすかな香りを最後に、彼女は深くねむりについた。
「祇矩藤家ご当主、祇矩藤威さまです」
部屋の中心で、仄羽は改めて一礼する。威が頬を持ちあげて煙管をくゆらせた。着流しに片足を立てて、行儀がいいとは言えない。それでも品があるように見えるのは、祇矩藤家当主がなせる業だろうか。
「で、奥に控えているのが威さまの右腕」
「波良瑞矢だ。威さまの補助、〔春日〕の管理を担っている」
丁寧に名乗られる。しっかりした体格で、棒のように細長い暁や華奢な威に比べると力がありそうだ。右腕ということは護衛も兼ねているのかもしれない。
瑞矢を見ていると少しだけ貫爾を思い出させた。顔立ちはまったく似ていないし、立ち居振る舞いも比べものにならないほど瑞矢のほうがしっかりしていてうつくしいのに、黒髪黒目の男性を久しぶりに目にしたからだろうか。だとしたら随分滑稽である。
「もっとはやく呼ぶつもりだったんだけど立てこんでいてね。これでも繰り上がったほうだ。瑞矢ときたら鬼のように仕事を持ってくる」
とんとんと灰を落として、威が軽い調子で言う。言われた瑞矢は鋭い目つきを威に向けただけで、何も答えなかった。
この部屋は最上階で、そのうえ客が入る廓とは棟が違うためか、夜の喧騒は聞こえてこない。初名に案内をしてもらったのも必要最低限の部分だけであり、全貌はわからなかったほど広い屋敷だ。明確な位置はわからないが、外の通りとも離れているのだろう。
「ああ、でも、がんばったかいはあった。やはりきちんと明りのもとで見るものだ」
うっとりと目を細められて、仄羽はさっと視線を落とす。あの赤い瞳に見つめられるとまるで動けなくなってしまう。
「ところで、貫爾とは誰だ、アカ」
威の突然の低い声に、空気が張り詰める。貫爾の名前に仄羽が顔を上げると、威の視線は仄羽の隣にいる暁に向けられていた。暁を見れば、いつもの軽薄な笑みは消えて唇を結んでいる。あのとき言われた「アカ」というのはどうやら暁のことらしい。
「威さま」
「なんだ瑞矢。お前も知っているわけだな。だがいま僕はアカに聞いているんだ」
今度はじろりと瑞矢が睨みつけられる。瑞矢は開きかけた口をやがて閉じ、小さく頭を下げて姿勢を戻した。つい先ほどまでとは異なる冷血な表情に仄羽も震える。顔立ちがうつくしい分、おそろしさも倍増した。代わって説明をできるような雰囲気ではなかった。
「報告不備、大変失礼いたしました。筈井貫爾、仄羽と同齢の幼馴染です」
「なぜ黙っていた。理由だけ聞こうか」
「互いに懸想しあっている様子だったので」
懸想、という言葉に仄羽の頬が赤くなる。こんな冷えた空気のなかでよく意識できると自分でも感心するほどだったが、不意をつかれたので仕方がない。まさかそんな説明をされるとは思っていなかった。だいいち貫爾の気持ちはまだ聞いていない、とはいえ、期待はしていた。
頬に手をやると、冷たさがちょうどよかった。表情を戻そうと奮起する。威はそんな仄羽をちらと見やり、納得したように顎を小さく上げて暁に続きを促した。
「主人の差配を邪魔する要因になると判断しました」
「ということにした?」
歪んだ笑みに、さっと仄羽は青ざめた。体がこわばって頬にやった手も下ろせないまま、威から目が離せなくなる。
煙管を置いた威はゆっくりと立ちあがり、暁の前へと来る。暁の髪を指ですき、額からつたって右瞼の上で二本の指をとめる。体に不似合いなほど細くて長い、骨ばった指だった。
「もう一度聞こうか。なぜ黙っていた」
威は口元こそ笑っていたが、目はまったく笑っていなかった。
暁の咽喉がこくりと上下に動く。徐々に顔を上げ、威と視線を合わせた。威の指は瞼の上から動かない。
「仄羽ちゃんに期待をしました」
え、と仄羽は暁を見る。暁は威をまっすぐ見つめていた。いつものように口角を持ちあげている。
「主人に筈井貫爾を利用されるのではなく、俺が利用してやろうと思ったんす」
宣言でもするかのごとく明瞭な物言いだった。威の唇はさらに深い弧を描き、彼の指に力が入った。う、というかすかな呻きが隣から聞こえてきて、仄羽はとっさに目を瞑る。
しかしそれ以上は何も起こらなかった。指は離れ、暁が瞼をなでる。
「ま、いいだろう。茶の瞳は惜しいしね」
「ご寛大、痛み入ります」
ほっとしたのも束の間、ゆったりとした足取りで仄羽の前に威が立ちふさがった。しゃがまれ、眼前で微笑まれる。どきりとしてうつむいた。感情の整理がつかない。威は間違いなく仄羽に乱暴を働いた男であり、行為は仄羽のなかで深い傷となっている。だが憎らしくはなく、なじったりもできなかった。それどころか魅せられている自分が微少ながら確実に存在している。これは春嵐の町民として致し方のないことなのだろうか。
「だ、そうだけど? 仄羽」
威の着物で視界がほとんど奪われる。高くひとつに結んだ髪を前方から覆うようにして触られているのだと一拍置いてから気づいた。鼻腔をくすぐるにおいはあのときを想起させる煙管のものと、おそらくは威自身のものが混ざっていた。抗えない。仄羽は精一杯の抵抗としてぎゅっと目をつよく閉じた。
すると一瞬においがさらにきつくなり、唇が生温かい感触に襲われた。反射的に威を押しのけようとするが阻まれる。この細い腕のどこにそんな力があったのか、掴まれたままびくともしなかった。
「興が乗った。予定をずらす。いいな瑞矢」
「……承知いたしました」
瑞矢が頭を下げ、暁ともども部屋をあとにする。待ってと言いたいのに、仄羽はただ出ていくふたりを見ていることしかできなかった。ふさがれていたからではない。唇は自由だった。なぜなのか仄羽自身もわからず困惑する。
「瑞矢。お前との話はあとでする」
障子が閉まる直前威が言い放ち、瑞矢は返事をせずに頷いて完全に障子を閉めた。
威は犬のしつけでもするかのように仄羽の咥内に親指をつっこみ、反対の手で仄羽の前髪をなでた。こわくなるほどやさしい手つきだった。
「アカに期待されるだなんて相当だね。貫爾とは恋人だったのかな」
できるかぎりの力で首を横に振る。威の指に顔を固定されているためかすかな動きになった。
「ふうん。でも、まだ、すき?」
びくりと体が震えた。気持ちを指摘されたのは同じであるのに、今度は顔面蒼白になる。肯定と変わらなかった。威の笑顔がおそろしい。まるでこの世のものではないような。
それでも咽喉元までせりあがってきた言葉は、「違う」だった。
違う、違います。そんなこと、ありません。
しかし結局口からは何も出てこなかった。咥内は乾いて息を吸うたび少しひりひりした。
「じゃ、きらい?」
貫爾の笑顔が脳裏に浮かんだ。小さなときから一緒で、周りに揶揄されても決して離れず、ずっと守ってくれていた幼馴染。
がちん、と音が鳴った。自分の歯と歯がぶつかった音だった。間一髪、威は指を引き抜き、さらに瞳を愉快そうに細める。前髪をつままれ、瞼、頬、輪郭、そして仄羽の首をなでた。表面に触れる程度のもので痛みは一切なかったが、暁の呻り声が耳元で再生される。首から離れない指がどう動くのか、どう力を入れられるのか、恐怖でまたがちんと歯が鳴った。
「き、き、きらいになんか、なれません」
なかなか噛み合わずに震えるのにかまわず、仄羽は威に言った。じわりと視界がにじんだがぐっと堪え、逸らしそうになる視線を必死に威に向け続ける。
「貫爾はわた、わたしの大切なおさなな、幼馴染です。きっと、一生、きらいになんかなれません」
威は一度真顔に戻り、首を傾けた。仄羽の首元に置かれた指が輪郭をなぞってせり上がり、くんと簡単に顎を持ちあげられる。
顔が近づいてきた、と思ったときにはすでに唇は重なっていた。上から重なるようにかぶせられて、威の胸元を叩く。どん、と鈍い音がしたが、威は動かない。必死に口を開くまいと抵抗したものの、呼吸がつらくなった一瞬を威は見逃さなかった。ぬるりとした感触に再び胸元を叩く。だんだんと力がなくなり、最終的に威の腕にすがるほかなかった。いやじゃない、のが、いやだった。
まるで望んでいたかのように、あっけなく仄羽は押し倒された。やっと離れた威が仄羽を見下ろし、仄羽の目尻に浮かんだしずくをそっと指で拭き取る。この感覚には覚えがある。こんなにひどいことをされているのに、なぜ胸のうちが熱くなるのか。決して仄羽の意思ではなかった。
「僕のことをひどい奴だと思っているだろう」
包帯で隠された右目もこちらを見ている、と仄羽は感じた。顔には凹凸があるのにほとんど隙間なく巻かれてまったく気配の覗けないその瞳も、きっと紅い。
「だがきらいにもなれないだろう。そういうものだ。そういうものだった」
気怠げな言い方に、仄羽は押し黙る。まったくそのとおりで、威も別段反論してほしいなどとは思っていないようだった。
だが、独り言にも似た言葉は仄羽の胸をついた。威の言うことは理解ができない。いかに彼が諦観していても、そこに至る過程をくみ取ることはできそうになかったし、乱暴を働いた男に対してする必要もないように思えた。ただ、ここまでずっと目線を逸らさなかった威が、いまは空を見つめている。なんだかその様子が、人間みたいに見えたのだ。
「きらいです」
口にした途端、自分で言ったにも関わらずがんと頭を殴られた心地がした。好意。恐怖。尊敬。畏怖。悲憤。綯交ぜになっている威に対する感情のなかでどうしても見つけられない嫌悪。言ってはならないことを言ってしまった、そんな後悔が全身を毒す。
再び向けられた威の瞳を睨みつけようとしてうまくいかず、意に反して仄羽は薄く微笑んだ。
「威さまなんて、きらいです」
真顔で黙っていた威が、やがて笑った。少なくとも仄羽がともにいるこの短い時間のなかで、初めて威が形だけではなく笑んだ瞬間だった。あまりの優美さに目を奪われる。おそろしさを含んだ蠱惑的なところはなりを潜め、そのうつくしさにどんな雄大な景色も霞んでしまうのではないかと思われた。
顔に影ができて、仄羽はびくりと瞼を閉じる。何度目か、唇が重なる。これまでとは明らかに異質な、やさしい口づけだった。ちゅ、と小さな音が立って威が離れ、恥ずかしさに仄羽は耳まで赤くする。これではまるで恋人ではないか。吐息のかかりそうなほど間近な位置で威が瞬くのを見つめる。
睫毛が長い。紅い瞳の奥に自身が映っているのがおぼろげながらわかる。時折り目を伏せながら、仄羽は動けずにいた。逃げるならいまが恰好のときだと頭ではわかっている。仄羽が困惑しつつも威を観察しているように、おそらく威も仄羽を観察していた。
「いいよ逃げても」
仄羽の考えを見透かしたように威が言った。
「逃げたいんでしょ」
掴まれていた手首をおそるおそる動かすと、威の拘束はあっさりと解けた。その手で威の胸元をやんわりと押し返せば、自分よりも秀麗な顔の男は簡単に離れた。呆気なさに茫然とする。
どうしたらよいかわからず、仄羽はひとまず座って衿を正した。威は仄羽が部屋に入ってきたときと同じく、片足を立てている。
「逃げていいって言ったんだ」
言われた内容が咀嚼しきれず、まぬけな顔になる。すでに余裕のある笑みを口元にたたえていた威は、動こうとしない仄羽に言葉を重ねる。
「これじゃ抜け出しただけだ」
さすがに仄羽も理解して小さく頷き、うつむく。自分の手が小刻みに震えていた。はたして心無いことを口にしたためなのか、威に襲われたためなのか、もはや判然としなかった。
恐怖はまだある。明らかにくすぶっている。いまはおとなしくしているが、いつ火種が大きくなるかわかったものではない。威の気が変わる前にはやく出ていかなければ。そう思うのに、足が動かなかった。こちらは恐怖のためではない、と仄羽はきちんと知っていた。
祇矩藤家当主には逆らえない。命令ならば従わざるをえない。それなのに選択肢を残されては、仄羽は混乱して次の行動がとれなかった。
「花魁は」
何を言っているのだろう。仄羽は頭をかきむしりたくなった。話せば話すほど貫爾が遠くなっていく心地がした。
きっといまだ。居住区と春霞をつなぐ唯一の出入り口、大門の前に、いま立っている。仄羽は振り返る。貫爾が追いかけてくる。必死に走って、仄羽に手を伸ばしているのがわかる。仄羽、と叫んでいるのが聞こえる。仄羽の足は、貫爾とは反対側、春霞の方向に進む。見えている。聞こえている。戻りたいと思う。いや、戻れたりはしないのだ。ここに来てはいけなかった。大門の向こうで、紅い瞳の男がじっとこちらを眺めている。男は仄羽の名を叫んだりはしない。仄羽に手を伸ばしたりもしない。
こわい。行きたくない。行ってはならないとさえ思う。思うのに、同時に、行かなければ、と思う。
「客の選り好みはできないのではないですか」
大門が閉まる。仄羽は貫爾ではなく、男の側に立っていた。
途端威が、ははは、と声をあげて笑った。
「残念だができる。花魁は気に喰わない客の相手はしなくていい」
啖呵を切るくらいのつもりで言ったのに返されて、仄羽は赤面した。
初会、客は花魁と口も利けない。同じ座敷内にはいるが離れて座る。芸者を呼んで財力を示すのが客の主な役割であり、このときの態度等で花魁にふさわしくないと判断されれば以降その花魁を指名することはできないのだ。もちろん客を断るということはその分稼ぎがなくなる可能性もあり、よほど粗暴でなければ決断するのは花魁自身である。
「座敷において上位なのは常に花魁だ。仮に僕も客になるのなら下位となる」
祇矩藤家当主が。仄羽は頭がついていかずかすかに眉根を寄せた。ありえない。現当主である威自身が言っているにも関わらず、信じられなかった。
「望んでもいないことを口にするな」
二回目、あるいは裏という言い方をするが、やはり客は花魁と口が利けない。初会よりは近くに腰を下ろすものの、することは同じだ。揚げ代と称される支払いばかりが嵩む。
三回目、やっと会話が許される。と同時に、床入れも望むのであれば可能だった。客は花魁の「馴染み」となり、一度馴染みとなるとほかの花魁のもとへ通うことは許されない。
「覚悟があると思うだろう。それではつまらない」
立ちあがりかけた威の着物の裾を掴む。威が一瞬、不快そうに仄羽を睨んだ。迫力にひるんで手を離しそうになったものの、すぐに掴みなおす。
「覚悟をしろと言ったのは威さまです」
ほとんど叫ぶように発して、我に返った。言っただろうか。近いことは言われた気がするが、覚悟というのは仄羽の解釈であって、威にその気はなかったかもしれない。
とはいえもはや引けなかった。真剣な表情で威を見つめる。紅い瞳がこちらを見つめ返す。無礼を謝罪したい気持ちがわきあがるのをぐっと堪えた。目の前の男は祇矩藤家当主であるが、自分に乱暴を働いた男でもあるのだ。遠慮なんていまさら、必要はないはずだ。
威は座りなおし、裾を掴んでいた仄羽の手をとった。仄羽よりも一回りか二回り大きい。
「じゃあ、貫爾よりも僕に尽くせ」
仄羽の首を掴んで、威は言った。指が肉に喰いこむ感触がする。痛くも苦しくもないが、いつでも痛くも苦しくもできる境目で力を加減されていた。
脅しだった。頷くしかない。頷かなければ首にあるこの手に何をされるかわからないし、何度も仄羽を支配している春嵐町民としての矜持が祇矩藤家当主の否定を許さなかった。けれど仄羽は絶句したまま、肯定も否定もできず、ただうろたえた。
「お前の覚悟なんてそんなものだ」
威は仄羽から離れ、煙管に火をつけた。冷ややかな視線を送られる。ぞっとするほど鋭く暗い目だった。
姿勢もそのままに動けずにいる仄羽に、威は口の端を歪めて笑った。
「はっきり言ってあげようか? 部屋に戻れ、仄羽」
じわりと視界が揺らめき、ぼたぼたと大量のしずくが零れ落ちる。人前で泣くだなんてはしたない。祇矩藤家当主の前でなんて失礼な。そもそもなぜ泣いているのだろう。思考と現実が切り離されたように、頭のなかはぐるぐるとさまざまな思いがひっきりなしに渦巻くのに対して、現状をどうにかしようという考えは一切浮かばなかった。
ああ、戻らなければ。威さまがそう仰るのだから。
立ちあがろうと足に力を入れるが、うまくいかない。無様に倒れこむ。そのまま慟哭しようと口を開いた。泣くときの声のあげ方など忘れてしまったらしく、あ、と小さな音が咽喉の奥から出ただけで、それもうまくいかなかった。
畳に影が落ちる。少しだけ頭を上げると、威の足が見えた。甘いにおいにまとわれている。
「顔を上げろ」
低い声での命令に、びくりと震える。決壊をとめられぬままおそるおそる従うと、威は嘆息とともに座りこんだ。義務でもあるかのごとく、また仄羽の頬や鼻筋をつたう涙を丁寧にぬぐい、目尻の水たまりをそっと指でふきとった。
近づいてきた威の顔に、顎を引いて抵抗する。
「こちらを向け」
「い、いやです」
ひっく、としゃくりながら答える。威を押し返そうとする腕に力が入らない。全身が震えて仕方がなかった。
腕には力が入らないのに、顎にかけられた指には渾身の力をもって拒否を示す。ぼろりと涙が落ちて、威はそのたび攻防をやめぬぐいとった。
「そ、そのにおい、いや。いやです」
襲われた夜がちかちかと脳裏に浮かんでは消える。
あのときいまと同じく「いや」と主張した仄羽に威が何と答えたか。憶えていても言わずにはいられなかった。
「いやです……」
ぐずぐずと幼子のように泣き始めた仄羽を、威はゆっくりとなでた。暁の手よりも丁寧で、あたたかい。
突然抱き寄せられる。鼻腔いっぱいに煙管のにおいが広がって苦しい。もがいているとさらにぐっと首元に顔を押さえつけられた。煙管のにおいに混じって、別のにおいが鼻をつつく。やがてそちらのにおいがつよくなってくると安堵した。
人の体がこんなに安心できるものだとは知らなかった。威はやはりおそろしいことには変わりなく、震える全身はまったく治まる様子を見せないのに、心地よい。混乱していて、きっといま自分は正気ではない、と仄羽は頭の片隅で思う。
「百面相だなお前は」
ぽつりと耳元で呟かれた言葉に、やみかけた雨がまた勢いを取り戻す。いつか貫爾に言われた言葉だ。このたった数日で、貫爾のことを忘れることなど当然できない。自分に乱暴をしたこの赤目の男を許すこともできない。それなのになぜ、いま自分は貫爾ではなく、威の腕のなかにいるのか。おそろしくてかなしくてくるしいのに、なぜ気持ち悪いと突っぱねることができないのか。なぜ、貫爾を思って拒みきることができないのか。
だらりと力なく下ろされた震える仄羽の腕を掴み、威は自身の首に触れさせた。威が仄羽にしたように、いつでも首が絞められる状態になる。
威が仄羽を見下ろしている。仄羽も威を見上げて、涙で霞むなか見つめ続ける。
祇矩藤の証である紅い瞳があった。威の視界のすべてである紅い左目。あのとき、暗闇で光った赤。
こいつが!
突如、仄羽の腹の底に潜伏していた嚇怒が溢れ出した。瞳孔を開いて歯を食いしばり、指を喰いこませる。威はあっさりと倒れ、仄羽は無我夢中で馬乗りになり両手をかけた。もはや紅い瞳など見ていなかった。喰いこんでいく自身の指、筋が立って殺意の塊となる手の甲、覆われた白い肌の首。
噎せるような声とも咳ともつかない小さな音が耳を刺し、はっとして仄羽は手をどけた。途端、威がげほげほと咳きこむ。首元には仄羽の指で傷ついた赤い喰いこみの痕があった。
ぽろぽろと、また涙が落ちる。なんておそろしいことを、取り返しのつかなくなることをしていたのか。自分の手が気持ち悪くなり、どうにか外そうと両手を揉み合わせたりなどしてもてあそぶ。もちろん、外れたりなどできるわけがない。本能的に逃げようと腰を上げかけると、がっと手首を掴まれた。
「逃げるな」
殺されかけたというのに、威の口元にはもう笑みが戻っていた。血の気のなさに自分のしたことのおそろしさが波となって襲ってくる。
威は一切の抵抗を見せなかった。まるで促すように仄羽の手を自身の首に持ってきて、暴れたりはせず、受け入れていた。
ますます考えていることがわからず不気味で、仄羽は腰を浮かせたままになる。
体を起こした威は改めて座り、仄羽を膝の上にのせた。何度目かの恐怖が仄羽の体を萎縮させる。
「悔いる必要も気に病む必要もない」
けほ、と威はまだじゃっかん咳きこみつつ言った。
「お前が自分で自分をおそろしくなる、そうなるほどのことをしたのが僕だ」
呼吸を深くしつつ、仄羽の涙をぬぐう。いやがられることなく、指先がおざなりになることなく繰り返される。
仄羽のちょうど目線の先に、威の首がある。赤黒く鬱血した痕はしばらく消えないだろう。祇矩藤家当主の玉体に傷をつけた罪悪感で謝りそうになり、しかし威が言うように、威が仄羽に乱暴を働いたゆえの傷だ。ひどいことをしたと言いつつ威は謝らない。仄羽はぐっと言葉を飲みこみ、代わりにそっと威の首に触れた。
つむじに柔らかい感触が伝わる。唇を落とされたのだと気づくと、首に触れていた手をとられた。
自分の手はやはり小刻みに震えていたが、胸のうちはどこか穏やかだった。単につよい感情を吐き出した疲弊で何も考えられないだけかもしれない。
もう顎を引いて抵抗したりはしなかった。威に口づけられるのに任せ、威に導かれるまま従う。部屋の光の下に晒されるのがいやだと言いそうになり、しかし暗闇は乱暴された夜を想起させてこわい。結局黙って従った。
「叫んでもいいよ。誰にも聞こえないからね」
握るように促された威の衿を溺れないよう必死で掴み続ける。叫んでも誰も助けてはくれないということなのだろうが、もはや仄羽にはどうでもよかった。
合わせをずらされ、胸元が広がる。差し入れられた威の手は仄羽の乳房を覆い、びくりと体が反応した。同時に脚がなでられ、自分でも普段意識しない輪郭がはっきりと境界線をつくっていくのがわかる。
前とは違う。何をされるかわからず、どこを触られているのかもわからず、ただ得体の知れない怪物に襲われて恐怖ばかりが支配したあのときとは、まったく。
じわ、と飽きもせず仄羽の視界を奪う水を、両手がふさがっているからか威は落ちる前に舐めとった。そのまま唇をふさがれ、手に力が入る。脚にあった手はいつの間にか境目の近くにまで登ってきていて、触れられた瞬間、体が小さくはねた。無意識のうちにふさがれている唇の奥で声をあげる。
帯をほどかれ、背中に回った威の指がつうと背骨をなぞった。ぎゅっと目を瞑ってうつむくと頭に何度も唇を落とされる。ひとつに結ばれた桃色の髪が揺れた。
仙骨のあたりをとんとんと叩かれる。秘部をかき回されるのをまぎらわせてくれたが、長くは続かなかった。細かく反応して体がはねるのも、そんなところを触れられているのも恥ずかしく、羞恥をごまかすように威の首元に顔をうずめた。着物に染みついた煙管のにおいとは別になって香る、おそらくは威自身の芳しさが仄羽の気持ちを落ちつかせる。
「力を抜け」
肩にうずめたせいで耳元でささやかれる形となり、仄羽は低音に動揺しつつも首を横に振った。力を抜くとどうなるか知っている。
「仄羽」
まるで愛しいものを呼ぶような穏やかで少し甘えた声音に、仄羽は一瞬、意識を手放した。その一瞬で威には充分だった。
「あっ、あっあっあっ」
次から次へとひっきりなしに襲ってくる何かに、仄羽は衿ではなく威の腕にすがりつく。あれだ。正体不明の、腰から脳天にかけて駆け上がる、何か。
あられのない自分の姿など問題ではなかった。思わず自分の指を噛むと、すぐに奪われて無防備になる。
「こわがるな」
「だって、やだ、こわい」
流れる仄羽の涙を初めて威は放置して、こわくない、と言い聞かせた。
「こわくない」
視界の端に威の紅い瞳が飛びこみ、腰を中心に仄羽の足先から頭のてっぺんまで、電撃が走った。
弓なりに反った仄羽の体を威は抱えこんだ。やがてくたりと脱力した仄羽に口づける。
わけもわからず息を弾ませる仄羽に、威は小さく首を傾げた。
「自分で触りたくなったこともないのか」
仄羽は無意識にきゅっと威の腕を掴みなおし、心底不思議そうにしている威に答える。
「あり、ますけど……。でも、こんなんじゃ、なかったので」
そうだ。こんな感覚は知らない。仄羽にも当然、性欲はある。行為自体に興味はあったし、いつかは結婚して子どもを産むだろうと漠然と思っていた。まさかこんなことに、〔春日〕に来ることになるなんて想像もしていなかった。祇矩藤家当主の腕のなかに捕らわれることになるとも。
留袖新造を命じられた仄羽は、倣いでいけばいずれ花魁になる。客と枕を交すことが仕事となる日がくるのだ。
(いやだな)
わかっているつもりで考えないふりをして、ふわふわと宙に浮いていた意思が、初めてはっきりと形になった。
はじめは仕方がないと思っていた。借金は事実であるし、それがたとえ仄羽の知らないところで嵩張っていた親のものであっても、責任は少なからず自分にもあると。いや、正しくは、借金返済義務が自分に移ることで、亡くなった親と唯ひとつながり続けていられる証だと、どこかで思っていた。
春霞が栄えるのは、春嵐の町民が花魁という職業をきちんと敬っているからだ。大工や医者と同じ、職業のひとつ。ただし身を削っているという点において、むしろほかの職よりも高く考えられている。母早彰が露骨に嫌悪感をあらわにするのが、幼いころ仄羽にはわからなかった。
いまならなんとなく汲むことができる。あくまでもなんとなくであって、説明はできない。
「貫爾とこうしたかった?」
仄羽の前髪を分け目に沿ってなでながら、威は言った。癖と思われる笑みが鬱陶しい。
どうだろうか。よくわからなくなってしまった。とりあえずはっきりとわかっているのは、いまは貫爾のことは考えたくない、ということだ。
ぺちん、とまぬけな音が響いた。仄羽が威の頬を叩いた音だ。予想外だったのか威が瞬く。自分の指先が熱いのが頬に触れていると感じられた。
「威さまは、ひどいことがしたいんですね」
赤目が仄羽を覗きこむ。寂寥感が揺らめいた気がしたが、勘違いかもしれなかった。
黙ったまま唇を重ねられ、仄羽の手は威の首に回る。かすかに開いた隙間に侵入してくることもなく、威はただ何度も重ねた。息苦しさに胸が詰まった。
気まぐれなのだろう。気まぐれであるならば、こんなふうに触れないでほしい。行き場を失った威の感情に押しつぶされそうでたまらない。こんなふうに、柔らかく触れないでほしい。
体が持ちあげられ、ゆっくりと落とされる。痛い。痛いのに、耐えたいと思う。
「力を抜いて息を吐け」
従いたくとも体は言うことを聞かず、威の頭をぎゅっと抱きかかえる。結果として押しつける形となった乳房を歯と舌でもてあそばれ、知らず力が抜けた。
異物感が気持ち悪い。体の中心にある空洞を埋められていく。いじられ続け、だらりとだらしなく体液が漏れていくのが自分でもわかり、それがまた気持ち悪さを助長した。
呼吸がうるさい。あとどれくらいだろうか。声をあげる余裕もなかった。
ちゅ、と音を立てて口づけられ、仄羽は自分が瞼を閉じていたのを知った。おそるおそる開いてみれば、変わらぬ笑みを浮かべつつも、余裕がなさそうに薄く汗を流している威の顔があった。
先ほど叩いた頬をなでる。白くて、すべすべとして、いつまででもこうしていられる気がした。その白さの分、首についた爪の痕は痛々しく映った。
仄羽の口元がかすかに弧を描く。いつの間にかまた流れていた涙を、やはり威がそっとぬぐいとった。思えば暗闇にいたときから、手つきだけはやさしい男だった。
合図も言葉もなく、仄羽は腰を掴まれ、ゆっくりと上下に動いた。もはや必要がなかった。このときに限っては、呼吸や視線だけで充分お互いに伝わった。
くるしい。くるしい。くるしい。
せりあがってくる感情が自分のものなのか、それとも威のものなのか、判別がつかない。
「痛い」
仄羽ではなく、威が言った。胸元に顔を寄せられる。発汗のためかそれとも威の着物が崩れているせいか、もう仄羽には煙管のにおいが消えたように感じられた。代わりに威の香りが鼻腔を刺激する。さらに求めて、仄羽も寄せられた威の頭に顔をくっつけた。
「痛い?」
「吐き出したい」
乱暴を働いた男と同一人物とは思えぬ呟きをした威に仄羽は困って、答えず黒髪をなでた。
しかし威は引き続きゆっくりと仄羽を上下させた。だんだんと笑みもなくなり、余裕のなさが浮き彫りになる。
「痛い?」
今度は問いかけられて、息も絶え絶えに仄羽は頷く。この状況で一生を終えるのではないかとさえ思う。
「そう」
威の伏せられた睫毛が頬に影をつくった。つくりもののような端正な目鼻立ち。七嶺も鈴もきれいだったが、花魁よりも主人がいっとううつくしいだなんて、嘘みたいな話だ。祇矩藤家当主は現在いくつだっただろうか。姿からは年齢が割り出せない。
びくりと仄羽の体がはねる。中途半端に冷静な分、自分とは到底思えない声に羞恥で口をふさいだ。何が起こったのかわからなかった。
「あ、あっ」
続けてわからない「何か」が仄羽を襲い、ふさいだ指の隙間から声がこぼれる。震えているのは恐怖のためではなかった。
「ふ、顔が僕の目みたいな色だ」
柔らかに綻ばれて、なおさら仄羽の顔が赤くなる。そんな表情は向けないでほしい。
「及第点だな」
ぐっと一度腰を押しつけられたあとはゆっくりと抜かれ、仄羽は着物が汚れないように座らされた。代わりに畳が汚れてしまうと慌てたが、威にいらない心配するなと一言されたので、素直にへたりこんだ。
威は自身をしごき、避妊具のなかに欲を吐き出した。初めて目にする屹立したものを恥じらう気力すらすでに使い果たしていた仄羽は、朦朧とする頭でぼんやりと威を見つめる。
手拭いを渡されてももはや動けずにいると、
「こんなことを僕にさせるのはお前くらいだよ」
と、さっさと着物を整えた威が仄羽の顔や秘部の液体を拭き取った。途中で我に返ったがむしろ威は仄羽の様子を見ると嬉々として譲らなかった。
着物は完全に脱がされ、のろのろとして覚束ない仄羽に威は浴衣を着つけた。困惑していると、裸のままがよかったかと嘲笑われ首を横に振る。
すでに先ほどまでの行為がまるで朧気だ。頭が働いていない。あんなに無遠慮に傍近く寄せていた威が、いまはもう「祇矩藤家当主」にしか見えなかった。とはいえ、無礼な言動を伏したくなるほどの意識はない。
「隣室に布団が敷いてあるからそこで寝ろ。風呂……は明日にしておけ」
茫然としている仄羽に威は言い放ち、腰を上げる。
遊郭内はそろそろ深更の刻に入る頃合いだった。廓とは棟が違うにしてもへたに動くなということなのか、あるいは階段をすべり落ちていきそうなほどよわっている仄羽を気遣ったのかは威のみが知るところだ。
「威さまは」
抵抗する気も起きず尋ねると、
「当然、仕事だ」
威は片足を立てて、文机の前に鎮座した。必要なことは伝えたとばかり、すでに墨を磨りながら書類を読み始めている。
右目を覆う包帯をさすっている姿を見て、あれだけ汗をかいたのだから変えたほうがよいのではないかと思ったが、進言する気力がない。仄羽は思考を一旦放棄して、足をもつれさせながら隣室へ向かうと、何分の一かという小ぢんまりとした部屋だった。
確かに布団は敷いてあったが、明らかに威の使ったあとである。毛布は端がめくれていて、枕元には煙草盆が置いてある。ここで仄羽が寝てしまっては、彼はどこでいつ寝る気なのか。
いや、ここは祇矩藤家だ。布団くらいいくらでもあるだろうと、仄羽は潜りこむ。心身ともにすべてを持っていかれたような心地が、寝転がっただけで幾分か癒された。しかし自分でも驚くほど動きが鈍く、毛布をかけるのも一苦労である。
布団からは煙管のにおいがした。あの甘いにおいだ。眉根が寄る。少しでも気を抜いたらすぐ夢の世界に行けるほどの眠気が仄羽を支配しているにも関わらず、いやだという気持ちがつよすぎてこのままねむるのを自分自身が許さない。かといって抜け出して自室に戻ることは、もはや敷き布団と毛布に挟まれたいま、不可能だった。
逃れようと体をよじり、枕に顔をうずめれば、奥からほんのり威のにおいがした。思いこみかもしれないし、睡眠に身をゆだねるため自分の記憶が引っ張り出されているのかもしれなかったが、仄羽にはどちらであっても問題なかった。かすかな香りを最後に、彼女は深くねむりについた。
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