ハルヒカゲ

葉生

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一章

四話 - 一

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 かん、と灰吹きに煙管が叩きつけられ、瑞矢は握り拳に力をこめた。煙管が傷つきへこむ可能性のあるこの不作法を、威は普段絶対にしない。するのは腹を立てているときだけだ。
「ばれないとでも考えたのか」
 紅い瞳に睨まれて身がすくむ。目を逸らしたくなるが、視線を逸らすと主人はもっと機嫌を悪くするだろう。ぐっと堪えて瞬きを増やすことでやりすごす。
 小鳥のさえずりが聞こえてくる。春霞は朝がもっとも静かだ。昼夜を問わず見世の間は食事や芸事で音が賑やかであるし、揉め事も起きやすい。多くは客が威張り散らしているだとか、支払いをしぶっているだとか、禿や新造に文句をつけたりなど、従業員が巻きこまれている形が多く、最終的な判断は〔春日〕全体の管理を任されている瑞矢がすることになる。明け方客は帰り、遊郭は店じまいをする。今日はすでに花魁たちは各々部屋に戻っている。
 威は裏でこそこそと共謀されることをもっともきらう。幼くして後継者争いの渦中に身を投げ、当主となってからもしばらくは祇矩藤家内の謀略に巻きこまれたせいだ。祇矩藤家当主としての威厳は春嵐町民には絶大だが、同じ祇矩藤家内では畏敬の念がぐっと落ちる。
「申し訳ございません」
 結局瑞矢には頭を下げることしかできない。波良家は長く祇矩藤家に仕えてきた家柄だ。しかし代々家令を継いできた家は別にあり、現在の瑞矢の地位は威による采配によって得たものである。瑞矢は祇矩藤家当主にというより、威個人に対して忠誠を誓い、感謝をしている。
 肩を蹴飛ばされたのか張りあげられたのか、無理矢理体を起こされた瑞矢は胸倉を掴まれて噎せる。威の冷徹な表情が刺さった。
「今後はすべて報告しろ。いいね」
 押し返されるように離されて首をさする。
 仕える主人として威は優秀だ。実際春嵐の政治はうまく回っているし、〔春日〕の評判も売上もよく、祇矩藤内でもかつてあれだけ向けられていた軽侮がいまやぴたりとやんで、威は一目置かれている。そのうえ威が気に入り側に置いているなかでも、瑞矢は別格の扱いを受けていて、自覚もあった。無理を強いられたこともない。尊敬して余りある。それでもときどき、主人のことが心底おそろしい。
 狄塚仄羽は威を変えるのではないか、という暁の見解を、根拠が直感である点以外は、瑞矢もほんの少し信じてみたくなる。
 これは威に対する不満だろうか。いや、違う。違うと瑞矢はわかっている。口にしたらきっと威はいやがるだろう。
 承知いたしました、と返事をしながら、衿を正す。
「それと、煙草を変えてくれ。なんでもいい。いまのでなければ……」
 灰吹きに叩きつけた煙管の雁首がへこんでいるのを確認して、威は躊躇なくゴミ箱に捨てた。別の煙管を文机の抽斗から取り出す。一度憤怒をぶつけたら、のちのち揶揄のために話に出すことはあっても、引きずらないのが威の長所であり、家臣としてありがたいところだ。すでに様子が平素と変わらない。
 煙管を新調しなければと考えながら、瑞矢は威の吐き出した煙の甘い香りに包まれる。威が長く吸ってきた煙草だ。いまさらどうしたのか。
「では、暁と相談してみます。あれはたまに吸っているので」
 対して、瑞矢はまったく吸わない。作法は知っているしいざとなれば交流の手段として利用できる程度に吸うことはできるが、味や好みの判断はつけられなかった。
 これも狄塚仄羽の影響だろうか。昨夜彼女が威の寝室で休んでいると聞いたときには驚いた。瑞矢以外には誰も他人を入れず、襖さえ開けさせなかった部屋だ。凝り固まってしまった関係は外からの人間のほうが壊しやすいとはいえ、こんなにもはやくに威の心を動かせるものなのか。いったい何をしたのか。
 特に信じられなかったのは、威の首にある鬱血の痕だ。明らかに絞められたあとである。実際、威に確認すれば肯定が返ってきた。
 本来であれば家臣として、主に殺意を持って接した相手を許すことはできない。しかし、しかしだ。威が仄羽に力で負けるとは思えない。威が仄羽を咎めている様子もない。つまり威が甘んじて受け入れたということだろう。実に奇妙だった。瑞矢が知っているかぎり威は死を望んでいるはずはない。
「筈井貫爾に関しましても、できうるかぎり調べてご報告いたします」
 命じられる前に宣言すると、威は瑞矢を一瞥して灰を落とした。


 頭がなでられる感覚がした。覚えがある手だ。誰なのか知っている。それなのに顔も名前も出てこず、仄羽は心地よさに身を任せながら悩む。そうだこの手は、と思い出したところで知らぬ天井が目に入り霧散した。障子から外の光が透けて眩しい。またこのパターンか。仄羽は情けなさに細く息を吐いてのろのろと体を持ちあげる。これまでに憶えのない脚の部分が筋肉痛で重い。
 何か大切にしなければいけない夢を見ていた気がするが、もう忘れてしまった。ゆっくりと左右を見渡す。狭い。狭いといっても仄羽が育った家の自室と大差ない広さだ。短い期間にすっかり〔春日〕に感化されている自分がおかしくて笑った。
 立ちあがって障子を開ける。眩しさに目を細めた。格子窓になっていて、下は覗けそうにない。いまは朝だろうか。それとももう昼になっているのだろうか。
 押し入れと小さな文机、枕元に煙草盆があるだけの簡素な部屋だった。机上にも何も置かれていない。
 毛布のうえに倒れこみ、深く息を吸う。甘いにおいがした。きっともう布に染みついているのだ。いやなにおいだと思うのにまどろんで瞼を落とすと、昨夜の行為がよみがえった。驚いて目を見開く。呼吸が浅くなり、衿元をぎゅっと握りしめた。瞬きのたび、瞼の裏にちかちかと映像が張りついて現れる。頬に触れている部分の毛布が熱を持ったのが気持ち悪くなり寝返りを打つ。腰のあたりがぞわりとした。
 唇に触れる。どう触られていたのだったか。一瞬でも意識すると考えるより先に記憶が反応して体をなでていく。逃げるように枕に顔をうずめれば別のにおいがして安心した。と同時に、びくりと足先がはねる。
 熱い。暑いというよりは、熱い。
 これまで感じたことのない、芯からの熱に臆して、仄羽は勢いよく腕を立てて体を起こした。いま、何をしようとしていたのか。荒くなっている呼吸を整えてうつむく。桃色の髪が垂れ落ちてきた。
 とりあえず支度をしなければと自分に言い聞かせて襖を開けると、すぐ側の柱に初名が座っていてどきりとした。
「起きられましたか。おはようございます」
 まっすぐに前を向いて、仄羽のほうを見ようとはしないまま、初名が言った。脇に本が数冊積まれている。読書をしながら待っていてくれたらしい。
「そちらは威さまの個人的なお部屋ですので、拝見することは禁じられているのです。目線を合わせられないことをご容赦ください」
 やはり、という気持ちと、そうなのか、という気持ちが併せてわきあがる。仄羽が宛がわれた部屋のほうが二倍か三倍ほど広い。祇矩藤家当主の自室としては手狭ではないだろうかと半信半疑であったが、空気やにおいは完全に威のものであった。
 襖を閉めて、初名に近寄る。長く勤める初名が見ることすら禁じられていて、なぜ自分は許されたのか。
「威さまは……」
 深くねむりに落ちていたので確かとはいえないが、誰かが入ってきた気配はなかった。仄羽が布団を占領していたのだから、威は寝られなかったはずである。
 本の角をきっちり合わせて手に持つと初名は立ちあがり、仄羽を見つめた。
「おそらくはこちらの仕事部屋にいらっしゃると思います。威さまの札が裏返っているところは見たことがありません」
 仕事部屋と言われた部屋の襖に目を向ける。しんとして、人のいる気配はなかった。
「ひとまずは支度を済ませて、食事をいたしましょう。風呂桶にもお湯が張ってあります」
 言われて、仄羽は小さく頷いた。
 湯舟に浸かるとどっと疲労が押し寄せ眠気に襲われたが堪え、着替えと髪結いを終えると初名と食事をした。白米に玄米が混ぜられたお茶碗に、豆腐と玉ねぎの味噌汁、大豆の昆布煮、大根ときゅうりの漬物。ほかほかと立っている湯気を見れば唐突に空腹を感じ、腹が鳴って赤面する。おかわりしたくなるほどおいしかった。箸も盆も、改めて気にしてみると手触りがよく品がいい。
 これから一緒に食事をするという初名は食べ方がきれいで、所作に見とれた。箸の持ち方はもちろん、欲張りすぎず少なすぎず自分に合った一口分を運んでいく様は見ていて気持ちがよかった。
「初名ちゃんは、威さまにお会いしたことはあるの?」
 敬語も敬称もいらないと固辞されて、落ちついた妥協点が「ちゃん」付けだった。初名は湯呑にふうふうと息を吹きかけて冷ましている。
「あります。ほんの少しの時間でしたが、祇矩藤家のご当主はやはり懐が深く、寛仁であられます」
 あち、と緑茶が飲めずにいる初名に水を注いでやりながら、仄羽は何度も瞬く。懐が深くて寛仁。会ったのははたして同じ相手なのだろうか。
「ただ、わたしは特例です。御職の七嶺あねさま、太夫のあねさま、あとは特筆して〔春日〕に貢献した料理番や使用人以外は会ったことがないと思います。基本的には威さまの側近である瑞矢さまか暁さま、もしくは鶫さまを介してやりとりがなされますので」
 札が分けられていた三人だ。黒く塗られていた瑞矢が黒髪、橙に塗られていた暁が橙の髪色をしていることを考えると、出張中という鶫は青髪の可能性が高い。
 初名に案内してもらったとき、髪や瞳が黒以外であった人は見当たらなかった。花魁、新造、禿、料理番から使用人まで、みんな黒髪黒目だった。もし鶫が青髪であるとして、側近の三人のうち二人が異人との間の子であるならば、威に呼ばれたのは桃色の髪のせいなのだろうか。仄羽は束ねた髪に触れる。何度もつむじに唇を落とされたのが思い出された。
「初名ちゃんは、ほんとうなら花魁の年齢なんだよね……」
 新造や禿の説明をしてくれながら、初名が言ったことだ。基本的に新造は一六までの役職であり、禿からの持ちあがりである振袖新造であればそのまま花魁になる。それが初名の場合、一七になったいまも新造を命じられている。直接のあねである鈴には初名のほかにも新造や禿がついていて、充分世話のできる人数がいるから、きっと自分が仄羽の世話役に任じられたのだろう、と。
 仄羽もそうだ。振袖新造とは違って禿を経ていない留袖新造を言い渡されたが、年齢は初名と同じ。いまは座敷に出たこともなく、廓の見世の雰囲気すら理解していない状態だが、いつ命じられて花魁となってもおかしくない。
 冷えていく指先で、仄羽は毛先をもてあそぶ。初名は湯呑を置くとまっすぐに仄羽を見つめて頷いた。
「はい。はやく花魁となって、ご恩をお返ししたいです」
 禿からの持ちあがりということは、ほとんどを〔春日〕で過ごしているということだ。たとえ話に聞いて育ち、客を選ぶことができるとしても、決して望んだ相手とはいえないだろう。
 お前の覚悟なんてそんなものだ。
 威に言われた言葉が頭の奥で響く。貫爾に会いたかった。あのまま暮らしていたら、貫爾とああいうことをしたのだろうか。きっと真剣な顔をするだろう。きっと真剣な顔をした、その先がどうしても想像できない。手をつないだり、ともに暮らしたりする想像ならいくらでもできるのに。
「こわくないの?」
 ではどうして、昨夜威の部屋から逃げなかったのか。部屋をあとにしていたら、追いかけてはこなかっただろう。威の寝室で寝ることもなく、ひとりには広すぎる部屋で休んだはずだ。
「でも、初めての相手は、こちらから指名できますから。充分です」
「え?」
「同じ鈴あねさまについていた道尾は今日がつきだしで、暁さまを指名していました」
 つきだしは、花魁となり客を初めてとる日のことだ。今日の昼見世から道尾は新造ではなく花魁ということである。
 そういえば〔春日〕に来るときから毎日様子を見に来ていた暁の姿が見えない。単に休んだ場所が自室ではなかったことと、もう初名と七嶺にすべてを任せたためかと思っていた。
 詳しく聞けば、つきだしは花魁が唯一相手を指名できる日であり、日程も指名した相手の都合に合わせて決定するとのことだった。同じ遊郭内や春霞内に留まらず、居住区にいたとしても、春嵐の町民であれば既婚者を除き誰でも指名ができる。ただし指名された相手も拒否をすることは可能で、必ずしも希望が叶うとは限らない。とはいえ花料はなりょうと呼ばれる「初めての相手」を誰にするかは、花魁たちにとって胸躍らせる悩みである。
 瑞矢や暁は花魁たちにとって憧れの対象らしく、〔春日〕の花魁であれば基本は拒否をしないのだそうだ。
「花魁に対するひとつの敬意だと瑞矢さまは仰られていました」
 多くは指名した相手で破瓜を経験し、花魁たちはその後仕事をこなしていく。
 仄羽の手が湯呑に当たり、なかに入っていた緑茶がこぼれる。初名がすぐに手拭いで拭いてくれた。ごめんなさい、と言いつつ仄羽は動けない。
 すべて片づけたあとに初名が仄羽を見て、おそるおそる尋ねた。
「大丈夫ですか? お顔が真っ青です」
 大丈夫、と答えたつもりが、口のなかで消えてしまって声にはならなかった。
 人を呼んでこようとする初名を制して、仄羽は無理矢理に笑った。たとえ相談できる相手がいたとしても、いまはうまく説明できる気がしない。たくさんの感情が混ざって仄羽自身でも把握しきれないのだ。「なぜ」ばかりが襲ってきて、自分がどうしたいのかさえわからなかった。
「居住区では、一五をすぎると結婚する方も多いのですか?」
 初名が言った。眉ひとつ動かさず、無表情のまま黙っていたのは話題を変えようと思いをめぐらせてくれていたのだ。表情に感情がのらないだけで、初名はやさしい。
「そんなことないよ。確かに一五で成人だけど、結婚は二十歳過ぎてからのほうが多いんじゃないかな」
 少なくとも仄羽が住んでいた四区周辺ではそうだった。仄羽もなんとなく、結婚は二十歳ごろにするのだろうとぼんやり思っていた。
 借金が完済できれば〔春日〕から出ることができる。春霞ではなく居住区で生活が許される。あるいは、借金を含めた身請け金を誰かが払ってくれれば、出ることができる。額を考えればほとんどありえない話だが、一応、二十歳までに〔春日〕を出て結婚する可能性もまだあるのだな、と思う。特別したいわけではない。だいたいそうなるだろうと考えていたから、想像しやすいだけだ。ただ、そのとき隣に立つ相手がどうしても考えられなかった。
「初名ちゃんは結婚したいの?」
 大きな黒目をまっすぐ仄羽に向けて、初名はきっぱりと答えた。
「いいえ。許されるかぎりここに身を置いて、ご恩を返し続けるつもりです」
 唾を飲みこむと、咽喉がごくりと鳴った。仄羽は小さく、そっか、と呟いた。


 夜見世の準備を手伝いに七嶺のもとへ向かう途中、暁と会った。歩き姿から疲労が見えたが、暁は仄羽に気づいた途端、いつもの飄々とした態度で笑みとともに手を振った。
「昨日はあちらこちらと慌ただしくてすんませんでした。疲れてませんか?」
「暁さんは、知っていたんですよね」
 何を、とは聞かず、暁は薄く笑ったまま仄羽を見つめる。
「わたしがここに来た夜に何をされたのかも、昨日暁さんたちが出ていったあと何をされたのかも」
 知っていて放置した。暁や瑞矢はあくまで威に仕える身であり、威を仄羽よりも優先するのはもちろんわかる。だが、初日に受けた行為はまぎれもなく暴行だった。暗闇で襲われて、仄羽は助けを求めたのだ。
 短時間だったので間に合わなかったというわけではないだろう。倒れている仄羽を介抱したのは初名であり、暁は襖の向こうで指示をしていた。まるで状況がわかっているみたいに、ではなく、明確にわかっていたのだ。
「知っています」
 あっさりと返された答えに、仄羽は拳を握る。爪が肉に喰いこむ感触がした。
「というより、するだろうと思っていて仄羽ちゃんを見て確信を得た、が正しいっすね」
 続けて悪びれもなく言われる。かっと紅潮した。唇が戦慄く。
 暁は眉をハの字に落として困ったような表情をつくった。
「お怒りはもっともっす。ですが謝ることはできません。主人の行為を侮辱することになりますんで」
 侮辱。侮辱を受けたのはこちらではないのか。思いつつも、仄羽はやるせなさに嘆息した。昨日の様子からして、威が暁や瑞矢に対し絶対的な力を持っているのは明らかだ。報告を怠っただけで目玉を抉り出されてはたまらない。暁を責めたところで何も解決はしないのだ。
 暁は今朝花料を務めているのだと初名が言っていた。道尾という新造を仄羽は憶えている。鈴の後ろに隠れるようにして、終始どこか照れた様子でいた小柄な女の子だ。彼女は今日つきだしで、もう新造ではなく花魁になった。
「男のひとは、誰が相手でもそういうことをできるんですか」
「ん? ああ、花料のことですかね」
「暗いなかで、顔が見えない相手でも……」
「え?」
 存外大きな声に、仄羽はぱっと顔を上げる。暁は長身なので考えているより高く上げなければ目線が合わない。
 しかしどちらにしろ、暁の視線は他所に向けられていた。眉根を寄せて考えるような素振りを見せている。問いに対して答えに詰まっている様子ではない。
「主人なら、夜目が利くので暗いなかでも顔は見えていると思いますが……」
 呟くように言われる。こちらは顔が見えず何をされているのかもわからない暗闇で、男が自由に動けていたのはそういうことかと合点がいったものの、暁の態度を不審に思って顔を覗きこむ。
 暁は改めて仄羽に向きあった。
「概ね把握いたしました。恐怖を隠し通してくださり感謝します。俺をなじる分には自由になさってください。顔も見たくなければ、ほかの者をつけましょう」
 突然の言葉に、仄羽は困惑する。暁の表情はまじめなもので、誠意をもって申し出てくれているのが感じられる。
 そこまででは、と気づいたら口にしていた。
 暁と別れ、再び七嶺の部屋に向かいながら、仄羽は重い溜息をつく。半分は八つ当たりだった。自分のなかで消化しきれない感情を、暁にはぶつけてよいと判断した。それなのに結局こうして後悔している。いらだちを持続させることが仄羽にはできない。相手には相手の立場や理由があるのだろう、と思ってしまう。実際、暁は仄羽が考えていたよりもすべてを知っていたわけではなかった。感情がくすぶったまま、また深くに沈んでいく。
「七嶺さん、仄羽です」
 初名がそうしているようにあねさま、と呼んだほうがいいのか悩んだが、気恥ずかしさが勝った。
 返事がない。留守だろうかと首を傾げ、念のためもう一度伺おうと口を開けば、どうぞ、という声が奥から聞こえてきた。
 失礼いたします、と襖を開けて顔を上げると、七嶺は窓辺に上半身を投げ出して座っていた。煙管から出た煙が細くゆるやかに外へ流れていく。長襦袢姿で髪もまとめられておらず、格好だけを見ればだらしないのに、むしろ妖艶さが増しているように見えてどきりとする。
「閉めて」
「えっ」
「閉めてくれる? そこ」
 言われて、仄羽は慌ててなかに入って襖を閉める。七嶺は億劫そうに体を持ちあげ、髪をかきあげた。ほぼ落ちている夕日の光に当たって虹色がきらめく。
「今日のあたしは機嫌が悪いの。ここにいると当たっちゃうかもしれないわよ」
 言下に出ていけと言われた気がしたが、仄羽は動かずにこりとする。七嶺は仄羽を一瞥すると煙管を置いた。
「あなた、我慢づよいタイプ?」
「さあ、自分ではよく……あっでも、幼馴染にそう言われたことはあります」
「幼馴染」
 おそらく家の手伝いをしていたからだろう。父克登も母早彰も患者やその家族には忍耐づよくあったし、常に患者第一で、自分たちのことは後回しだった。たとえ食事をしていても急患があればそちらを優先していた。不満や疑問を抱くより先に、そういうものだと認識していたから、貫爾に「我慢づよい」と言われたときには驚いたものだった。
「女? 男?」
「男の子です」
 七嶺は笑って、仄羽の言葉を繰り返した。男の子、ねえ。
 化粧のため鏡台に向かって七嶺が座り、仄羽は鏡越しに視線を合わせる。七嶺の美貌があれば、化粧など必要ないのではないかと思えた。
「恋人同士だったのかしら? だとしたら気の毒ね」
 箪笥から黒の着物を取ってくるよう命じられ、仄羽は箪笥の抽斗を引く。三種類ほどあったが、どれでもいいと言われ、流水紋様の描かれたものを選んだ。
「いえ、恋人では……」
 渡しながら答える。七嶺はじっと仄羽を見つめ、ありがとう、と着物を受け取った。何でもよいので帯も見繕うようついでに命じられて、再び箪笥と向き合う。
 ちりりとかすかな痛みが走り、仄羽はそっと衿元を押えた。
「感情の変化を責めていたら、ここじゃ潰れるわよ」
 驚いて七嶺に顔を向けるが、化粧を終えた七嶺は髪をまとめ始め、仄羽を見ようとはしなかった。
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