ハルヒカゲ

葉生

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一章

四話 - 二

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 初名に習う内容のなかで、いちばん苦手なのは舞踊だった。走ればころび、歩けば何もないところで躓き、ろくに運動ができない仄羽は派手な動きはなくとも覚えが悪かった。頭では想像できていても体が追いつかない。舞踊は得意になれば花魁ではなくなったあとも芸者として稼げるとのことだったが、仄羽にはとても無理であった。
 反対に、いちばんたのしかったのは箏だ。三味線も得意の部類に入った。教養を身につけるための読書もおもしろくはあったものの、医学書ばかりを選んでしまい初名を困らせた。客と同等、もしくはそれ以上の知識を持って会話を盛りあげるための学習内容であり、個人的な知的好奇心を満たすための時間ではないからだ。
 ほかに書道、茶道、囲碁、礼儀作法、食べ方の所作から閨での振舞い方まで、多岐に渡った。囲碁は初名が得意で、一度も勝てたことがない。そのため仄羽は自分の実力が上がっているのか図りかねていたが、初名いわく、
「あえてお客に負けるというのも花魁の戦法のひとつとあねさまは仰られていましたが、仄羽さんは何も考えなくて大丈夫かと思われます」
 とのことだったので、推して知るべしである。
 七嶺のもとにも夜見世の前には必ず向かった。最近では会話をしない日もあるが、きらわれているというわけではなさそうだった。むしろ沈黙でいられる程度には信頼されているようだ。話しても内容は仄羽のことばかりで、七嶺は自身のことを決して語ろうとしない。
 日々はどんどんと過ぎていくのに、仄羽は源氏名をもらうことも、座敷にあがることもなかった。さすがに不審に思って暁に聞いてみても、へらへらとごまかされるばかりだ。
 朝起きて、初名に教養を習い、夜見世前に七嶺の手伝いをして、出入りを許された書庫で見繕った書籍を何冊か読み、ねむる。その繰り返しだ。覚えることはたくさんあり、学問所に通っていたころが思い出されて少したのしい。しかしこれでよいのだろうか。
 仄羽は読書をやめ、部屋の端から机の上に移動させた小さな桐箪笥の抽斗を開ける。ここに来るときに受け取った両親の着物の切れ端と、あとはがらくたが入っている。いや、仄羽にとってはすべて宝物であるのだが、他人から見ればがらくたであるからこそ、中身もそのままにあっさり持ち出しを許可されたのだろう。
 幼いころ母親が買ってくれた髪紐、父と散歩したときに摘んだ花を押し花にしたしおり、初めてもらったお小遣いで買った小物入れ。
 じわりと浮かんだ涙を堪えて、小物入れを手にとってみる。なかに何か入っていた。はたして何を入れたのだったか。使いすぎて布が擦りきれたため、長年使用しておらず、すっかり忘れている。
 開けてみると、桃色のトンボ玉の根付だった。
 あっ、と思わず声が飛び出る。貫爾が幼いころくれたものだ。こんなところにあったのか。
「懐かしい……」
 紐はすす汚れているが、トンボ玉はきれいなままだ。ぎゅっと両手で握りしめ、もう一度眺めると、もとに戻した。
 立ちあがって窓の下を眺める。春霞に休みはなく、今夜も賑やかだった。おそろしさを感じていたこの高さにももう慣れた。
 店に休みはないが花魁には定期的に休みがある。座敷に出ている花魁は名が札に書かれて店先に並び、客にわかるようにされていた。勤務日と休日を決めているのは瑞矢だ。体調の悪い者がいれば、どんなに希望しても強制的に休まされる。
 七嶺は今日が休みだった。そのため店先に札は出ていないし、〔春日〕内の札も裏返っている。その下に仄羽の札はない。いまだ札をつくってはもらっていなかった。
 このままでよいのだろうか。
 仄羽はもう一度思い、窓辺に腕をのせて頬を沈めた。威には呼び出された日を最後に会っていなかった。


「そろそろ無理なんですけどお」
 情けない声を出した暁に、威は真顔になり、瑞矢は眉根を寄せて露骨に不快を示した。二人とも「何が」とは聞いてこないので、勝手に続ける。
「仄羽ちゃんをごまかし続けるのにも限度がありますって。札もつくってないじゃないすか、あれ仮に望んでない場所にいるとしても疎外感が半端ないっすよ」
「じゃ、つくれ」
 あっさりと言った威が仕事を再開する。積まれた書類と床に散乱した書類、瑞矢が優先してもらうべく手に持っている書類の量を合わせると、まだしばらくは終わりそうにない。暁も十三天王の報告書に確認のサインをもらわなければならなかった。主人が春嵐内でもっとも多忙であることは重々承知である。
「源氏名は」
「ない。桃色にでも塗れ」
「それじゃ花魁たちの反発を買うでしょ。ね、瑞矢さん」
「……まあ、そうだろうな」
 突然話を振られた瑞矢は、ますます眉間の皺を深くして仕方なく答えた。暁ひとりでは説得できないことも、瑞矢が加わってくれれば威は多少なりと考えてくれる。
 思ったとおり威は筆を置き、小さな嘆息とともに煙管に火をつけた。炭火を焼いたようなにおいがたちまち部屋を包む。以前吸っていたものと比べると単純に焦げくさい。しかし暁が瑞矢に頼まれ見繕ったなかで威が気に入ったのはいま吸っているひとつのみだった。
「面倒な」
 煙を吐くとともにうんざりした様子で威が呟いた。最近特に仕事が立てこんでいるのでさすがに疲弊している。学問所の増加、電気供給の安定化、福祉、診療所の管理、十三天王による警備体制の見直し、外交、祇矩藤家内の婚姻の許可に至るまで。水質がよく豊富な点は管理が楽な部分であり、春嵐の自慢である。
「借金返済のために来たはずなのに、稼ぐどころか座敷にも出られないんじゃ、疑問に思うのが普通ってもんす」
 ここぞとばかりに畳みかける。威が仄羽を座敷に出す気がさらさらないのは百も承知だ。だからほかの花魁たちに挨拶はさせてもほとんどを初名とばかり過ごさせ、間違っても「そろそろ出てみる?」などとは提案しない七嶺につけている。
「借金ね」
 威はねむたげに左目をこすった。
「そういえば鶫からの連絡はどうなってるの?」
 変えられてしまった話題に、威が考えるのを放棄したのを悟る。こうなってはあまりしつこく言えば言うほど投げやりになり、普段なら自制している残忍な面が顔を出してとんでもないことを申し渡されかねない。諦めが肝心だ。暁は溜息をつく。
「まだかかるみたいっす。昼間に出張延長の郵便が届いたんで」
「あっそう」
 威は煙管を片して、右目の包帯をさすった。
 できれば鶫が帰ってくるより先に、なんとか仄羽の〔春日〕内での地位を確立してほしい。いつもなら彼の帰りが遅くなると、基本的には暁の仕事が増えるのではやく帰ってきてくれと思っていたものだが、いまは逆だ。いれば確実にややこしくなる。延長の報せは願ってもないことだった。
「瑞矢。鈴にも伝えておいてやれ」
「承知いたしました」
 威の言葉に、こういうときはやさしいのだよなあ、と暁は頭をかいた。


 今日は鈴太夫が休みだ。自動的に初名も休みになる。彼女はまじめなので休日にもきっちり同じ時間に起きて、食事だけはともにしてくれるのが、仄羽にはうれしかった。白米と玄米の混ざったご飯、焼き鯖、具だくさんの豚汁、緑茶。皆それぞれ専用の箸と箸置きを持っているが、仄羽には与えられていないのでいまも客に出されるものと同じである。もっとも客も馴染みになれば名の入った箸と膳を用意されるらしいから、いまも仄羽は〔春日〕にとって余所者だ。
 一月と少しの何事もない穏やかな日々だ。座敷は望んでいないのだから出なくてよいのならそれに越したことはなく、心苦しくなることはない。初名とは友人と呼んでよい距離になっていると思うし、これまで読みたくても読めなかった書物がたくさんあって読書はたのしい。幼いころ憧れた箏はすきに弾ける。外出はままならないとはいえ、ほかに不自由はなかった。
(威さまはどうしているのだろう)
 いや、と頭を振る。来たころが異常だったのだ。本来祇矩藤家当主にそう簡単に目通り叶うはずもない。基本的には瑞矢や暁を介すと初名も言っていたではないか。あくまで威の気まぐれであり、恩情だったのだろう。恩情と呼ぶにはかなりの抵抗があるにしても。
 高くにひとつ結んだ髪に触れる。初名たちとは違う色。暁の橙の髪と茶の瞳は気に入っても、桃色は飽きてしまったのだ、きっと。
 初名と別れて部屋で箏のおさらいをしていると、暁が訪ねてきた。一枚の用紙を手渡される。「狄塚仄羽 帳簿」と書かれてあった。
「月に一回、花魁たちに各自の売上が把握できるよう渡すもんす」
 とは言われても、新造や禿の給金は客からの稼ぎがないので経営している祇矩藤から出ているはずだ。普段の食事や座敷に出るための着物、もろもろの生活費は差し引かれたうえで残りが借金返済に充てられるため、売上などないも同然である。
 しかし、仄羽が渡された帳簿をよく見てみると、聞いた額より借金が明らかに減っている。いまも膨大な額には違いないが、それでも相当な金額が引かれていた。
「これ、書き間違いでは」
 黙っていればもしかしたらばれなかったかもしれないものの、仄羽は正直に暁に聞く。どちらかといえば驚きのほうが勝っていた。まさか取り立て時に金額が誤っていたとは考えにくいので、間違っているとすればこの用紙のはずだ。
「いいえ、合っています。よく見てください」
 暁が指さしたところを改めて確認してみれば、売上高の記載がある。差押え額というのもあるが、こちらは家にあった家具等の金額だろう。合せて暁が家に来て伝えられた額から差し引けば、ちょうど記載の金額になった。
「なんで」
 自然と疑問が漏れ出た。花魁ではなく留袖新造で、そのうえ座敷にも出ていないのだから売上などあるはずがない。それどころか〔春日〕で仕事をせずに生活している分、借金は嵩んで然るべきだ。
 去ろうとする暁を捕まえて見つめれば、暁はやがて情けなく表情を崩した。喰えない男ではあるものの、基本的には押せば話せる範囲まで話してくれる。反対に話せないところは絶対に口を割らないのだが、さわりしか伝えてこないのは単に厄介事に巻きこまれたくないだけであるともはや承知だ。そうはいかない。
 暁は言いづらそうに言葉を濁す。やがて観念したのか、仄羽の手を離して腕を組んだ。
「ここに来たころ、仄羽ちゃんは俺に言いましたよね? 主人に何をされたのか知ってたんですよねって」
 くしゃり、仄羽の手のなかで帳簿に皺が寄った。暁にその言葉を言ったときと同じく、唇が戦慄く。
「その、二回分です」
 信じられない。何かを言おうと思っても息すら音にならなかった。帳簿を無意識のうち、さらに握りつぶした。
 ありがたいと思うべきところなのだろうか。それとも、威はありがたく思うだろうと考えたのだろうか。仄羽はくしゃくしゃになった帳簿の数字を見つめ、紙の最後に威の署名と花押が添えられているのを認めると、顔に押しつけた。目頭が熱い。
 こんな感覚はおかしいのだろうか。
 最近やっと落ちついていた感情の渦が、また仄羽を容赦なく襲い始めた。
「暁さん」
「はい」
 暁は居心地悪そうにしつつも静かに頷いた。
「威さまとやりとりしたければ、本来は暁さんや瑞矢さんにお伝えしなければいけないんですよね」
「はあ、まあ、そうなってます。一応。主人とやりとりしようと考える者なんていないと思いますが……」
 それはそうだ。仄羽だって〔春日〕に行くからといって関わりが持てるとは露ほども思っていなかった。〔春日〕内でも別棟にいるので普段すれ違うことすらありえない。
 前髪と帳簿が擦れあってざらりとする。
「罰則とか、あるんでしょうか」
 たとえばどこかを傷つけられるとか。もっとも、もうこれ以上は傷つけられようもない気がする。
 暁はああ、と小さく声をあげて、体をずらして座った。穏やかに微笑まれる。
「主人にお伺いください」
 その言葉を合図に仄羽は顔を上げ、箏の爪を外す。帳簿を掴みなおして暁の横を走りすぎた。お気をつけて、と後ろから聞こえてきたが、答えず前を見据えて足を動かし続ける。そろそろ昼見世が始まるので、花魁たちは準備をしている最中のはずだ。なるべくかち合うのを避けるため、見世に出るのに利用しないであろう、知っている道を駆使して進む。
 途中、階段でこけそうになり、間一髪手すりに掴まる。そのせいで一瞬頭が冷静になり、足がすくんだ。このまま向かってもよいものかわからなくなる。
 いや、こんなふうに衝動的に、感情に身を任せて走ったのは記憶のかぎりでは初めてだ。怯むな、と自分を励まして、今度はこけないよう慎重に歩き出す。
 襖の前にたどりついたときには、興奮したせいか息があがっていた。取手に手を伸ばせば震えている。仄羽は苦笑した。礼儀作法もなく無遠慮に踏み入れようとしているのに、恐怖はあることがおかしい。
 一度深呼吸をして、仄羽は腰を下ろす。覚悟はきっといまこそ必要なのだ。
「失礼いたします」
 できうるかぎりの大声を出して、返事を待たずにすぱんと勢いよく襖を開ける。顔を上げれば、威と瑞矢の姿があった。
「お前」
 瑞矢が腰を持ちあげ、威に半身を寄せた。床に書類が散乱している。うろたえたがなるべく避けてなかへ進む。突撃したわりにはまぬけだが致し方ない。
 文机を挟んで威の前にたどり着く。
「ご無礼をお許しください。こちらの撤回をいただきに参りました」
 皺だらけの帳簿を威に向けて差し出す。当の威はつまらなそうに仄羽を一瞥した。冷えた紅い瞳にびくりと体を震わす。しかしあとには引けない。無礼を働いたくせに主張を取りやめては、無礼の意味すらなくなってしまう。
「いい。許す」
 仄羽ではなく瑞矢に威はそう言った。瑞矢は体を引いて側に控える。仄羽はちらりと瑞矢の様子を窺ってみるものの、表情からは何も読みとれなかった。
「先に理由を聞こう。これには僕の署名と花押がある。つまり公文書と変わらないわけだ。おいそれと撤回するわけにはいかない」
 言葉に詰まる。正当な理由があるわけではない。あるのは仄羽の感情だけであり、公文書と言われてしまっては太刀打ちできる気がしなかった。口にするにも瑞矢の存在が気になる。
 顔を紅潮させたままかたまっている仄羽に、威は机に腕をのせて顔を近づけた。
「言えない程度のものであるのなら、なぜ来た?」
 笑みのない威は、顔立ちが端正な分おそろしさが増す。左目がまっすぐ仄羽を見つめていた。少しばかり充血している。
 覚悟。仄羽は何度も胸のうちで繰り返す。覚悟、覚悟、覚悟。
 威が認めるのは、きっと勇気のある者だけだ。
「せっ、威さまとのこうい、行為は、仕事とは違います。お金をいただくようなことではありません」
 最初は上ずってしまった声も、口にしているうちだんだんと大きくなった。感情が昂っているせいで顔全体が熱くなる。
「ばかにしないでください」
 叫べば、その勢いでぼろりと涙が落ちた。慌てて自分で乱暴にぬぐう。ぼろぼろと落ちてくるのを、必死でこすり続けた。
 威はゆっくりと口角を持ちあげ、下瞼で弧をつくった。机から体を起こして煙管に火をつける。
「仄羽は僕の部屋に自由に出入りすることを許す」
 涙と連動してしゃくりあげていた仄羽は、聞こえてきた言葉に動きをとめる。ごうと鳴り響く耳でも確かに聞こえた。
「札の確認もしなくていい」
 休んでいるときでも仕事中でもかまわない、ということだ。もしかして破格の待遇、ではないだろうか。自分ではコントロールできずしゃくりあげ続けながらも、仄羽は頭の奥で冷静に考える。
 側で控えている瑞矢に顔を向けると、瑞矢は眉根を寄せながらも小さく頷いた。威の言うことに反論はなさそうだ。あるいは、瑞矢にも思惑があるのかもしれない。仄羽が入ってきたときに警戒はしても、追い返す素振りは見せなかった。
「花魁と客の関係を例に出したのはお前だったと思ったけどね」
 とんとん、と威は帳簿を指で叩いた。
 仄羽は口を噤んで涙を拭き続けた。威の言うとおりであったし、反論の言葉が頭に浮かんでもいまの状態では声にならないので睨みつけるくらいしかできない。
「ふ、よく泣く……」
 不意に相好を崩されてどきりとする。油断していると煙を吹きかけられて咳きこんだ。
「ま、どちらにせよ撤回はできない。こんな額をおいそれと訂正しては瑞矢の首が飛ぶ」
 全身に血が駆けめぐる。仄羽の気持ちより瑞矢の立場をとるのは威としては当り前のことだ。首が飛んでしまう細かい理由は仄羽にわからなかったが、瑞矢は〔春日〕の管理を務めていると言っていたから、その関係だろう。理屈は想像できても納得はいかない。
 威の手が伸びてきて、反射的に身を引く。かたまっていると威の手が下りた。機嫌を損ねた、と仄羽でもわかる。
「隣で待っていろ」
 威は最後に一口煙管を咥えると、灰吹きに灰を落として言った。
「見てのとおり僕はいま忙しい。できるな?」
 小さな子どもに言うような口ぶりにむっとする。仄羽は姿勢を正し、作法に倣って頭を下げた。部屋を出て襖を閉めると、また勢いよく涙が流れてきた。奥歯を噛み締めて耐える。悔しさや怒りではなかった。いや、多少なりと含まれているのかもしれないが、もっと大きな何かが仄羽を責めていた。
 体を丸めて声を押し殺し、ぐすぐすと泣き続けていると、ふと冷静になった。泣いている理由が自分でもわからないまま勝手に苦しんでいるのがばかばかしい。洟をすすりながら、おとなしく隣室に向かう。相変わらず文机と布団、煙草盆だけの簡素な部屋だった。前と違うのは布団が敷いたばかりの様相で、障子が開けられて格子窓から風が入ってきているせいか空気が清々しかった。灰吹きにも灰が入っていない。
 きちんと休んでいるのだろうか。威の目が充血していたのを思い出す。暁と瑞矢にしても、初名は札が裏返っているところをほとんど見たことがないと言っていた。少なくとも七年は〔春日〕にいる初名がである。
 布団を避けて、窓辺に体を預ける。ぽかぽかとして眠気が誘われた。小鳥のさえずりが聞こえて姿を探してみる。
 本の一冊でもあれば覗き読んだのに、何もない。文机の抽斗を開けたり、押し入れを開けるのは憚られる。書庫で見繕ってこようかとも思ったが、もしその間に威が部屋に来て咎められてはいやだ。
 睡眠は日々充分とっているというのに、瞼が重くなってきた。〔春日〕に来てから休みという休みは仄羽にはない。初名の休日に合わせて何もしないこともできたが、座敷にも出ず、ただ身を置いているだけの環境を考えると、すきに過ごそうとは思えなかった。
 明らかに父母を思う時間も、貫爾のことを考える時間も減っている。四区での暮らしを懐かしむことはほとんどなくなった。それどころか、箏や読書の時間は非常にたのしい。体調を崩したのも来た当初を最後に、ずっと健康である。とはいえまだ一ヶ月を過ぎたところであるから、単に自分の心身を保つため、無意識に自衛しているだけかもしれない。借金の額からしてもう居住区には戻れないとわかっていることもあり、適応しようと必死になっている可能性はある。
 怒涛の試練のなかでもがいているのならまだしも、思考して行動できるだけの余裕がある。それなのに、自分が明らかに変わってしまったのがわかる。
 思いが執着になるのはいやだ。けれど〔春日〕に来るまでの暮らしと、そのとき想像していた未来を完全に切り捨てることはまだできない。
 感情の変化を責めていたら、ここじゃ潰れるわよ、と、かつて七嶺に言われた言葉が思い出された。
 変化。頭のなかを占めている人物が誰であるのか。これからされるだろうことは概ね予想がつくのに、おとなしく言われたままこの部屋で待っていること。「なぜ」ばかりが溢れていた気持ちが、いまは凪いでいること。
 はっとする。いつの間にかねむってしまっていたようだ。視界に広がる空は青いままでほっとした。寝ているところを見られては粗相にも程がある。
 襖の開く音がしてびくりとした。心臓が高鳴る。振り返れば、変わらず着流しの威の姿があり、首を傾げられる。
「まだ泣いているのか」
 え、と自分の頬に手をやれば、確かにぬるりとした感触がある。夢を見た記憶はないが、指摘されると途方もなくかなしい夢を見た気がしてきて、滴が大粒になって流れていく。威が笑い、仄羽に足を向けた。
 しゃがみこまれて、やはり反射的に身を引いた。体は窓縁にぶつかり、今度はふたりの間を分かつ机がないのでこれ以上逃げようがない。
「触られたくないのか」
「触られたくないです」
 威の問いに、仄羽は即答した。伸ばされた手が何をしてくるのか、いかに久しぶりでもいい加減承知している。感触も、手つきも、心地よさまではっきり記憶している。仄羽はぎゅっと衿元で拳をつくった。
「これ以上、威さまのことを考えたくない」
 視線を合わせていられず、仄羽はうつむく。威はしばらく何も言わなかったが、やがて唇で弓を描いて仄羽の涙をぬぐった。びくりと体がはねる。ひどいことをして傷つけられたと思ったら、慰められる。ずっと胸で暴れていた渦は威のせいだと仄羽はわかっていた。
「おもしろいことを言う。僕のことをずっと考えていたのか」
「あ、当り前です。あんな、こと、されて」
 指先が涙をぬぐい終わると、無理矢理に顎を持ちあげられた。うつくしい顔が目の前にある。仄羽は視線を威に向けたり伏せたりしながら続けた。
「それなのに、あれから呼ばれることも部屋に来られることもなくて」
「うん」
「も、桃色の髪はもう飽きたんだろうなって」
「まるで僕に会いたかったかのような口ぶりだ」
「会いたくなんて」
 視界が歪む。会いたくなんてなかった。乱暴を働かれて、おかげで花料に指名して踏んぎりがつくかもしれなかった貫爾への思いはくすぶったままだ。これまで抱くことがなかった殺意を覚えさせられ、そのくせあんなにやさしく触れてくる。穏やかだった気持ちも、威を前にすると乱される。
「僕は仄羽に会いたかったよ」
 仄羽は威に目線を向ける。膜が張って表情がわからない。もどかしさに瞬きをひとつして視界を明瞭にし、できうるかぎり涙が溢れてくるのを堪える。
「桃色の髪の女ではなく、仄羽に会いたかった」
 都合のいいことを。怨み節はいくらでも胸のうちに湧き出てくるのに、ひとつも声にはならなかった。よわよわしく威の胸を叩く。軽い感触が伝わってくるだけで、叩いている手は痛くならないし威が動じている様子もない。
「威さまなんか、きらいです」
 顎を離された代わりに両手首があっさり掴まって、体を縮めるくらいしか抵抗の術がなくなる。威がさらに近づいたのがわかる。手首はびくともしなかった。
「顔を上げろ」
「わ、わたしは、わたしがすきなのは貫爾です」
 言いながらも、仄羽の頭には貫爾の顔が浮かんでこない。まるで自分に言い聞かせているみたいだった。名前は口に出せても具体的に考えるほどの余裕はないともいえるし、もっとほかのことで頭がいっぱいだともいえた。
 ふん、と威が鼻を鳴らす。
「異人ならともかく、そいつも春嵐の町民だろう。僕を誰だと思っているんだ」
 さらさらとした黒い髪に、紅い左目が、仄羽の視界を、心を、抵抗力を奪う。
 やっぱり少し瞳が充血してる。目を伏せることもできず、仄羽はぼんやりと思った。
「祇矩藤家当主が自らの民を受け入れずにどうする。そいつへの恋情ごと、僕がお前をもらい受ける」
 明瞭で声高に言い渡され、二の句が継げなかった。小鳥のさえずりが遠くで聞こえる。近づけられた威からは、あのいやな甘いにおいが香ってこない。
「だが」
 手首が離され、注視される。逃げだすとしたらいまが最後の機会だった。仄羽は動かない。動けないのではない。じっと視線を返す。あまりに近いので口元は見えないが、やがて威がふっと笑った気がした。
「いまはその男の話はするな」
 ついに唇と唇が重なり、仄羽は威にすがりついた。
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