ハルヒカゲ

葉生

文字の大きさ
12 / 22
一章

六話 - 一

しおりを挟む
 貫爾が出ていったあと、休みだというのに初名が来てくれた。どうやら祇矩藤にとって――正しくは祇矩藤当主に仕える暁や瑞矢にとって――都合の悪いことが起きれば、対応は初名になるようだと気づいた。確かに初名ならあねである鈴にもかたく口を閉ざすだろうし、すでにいくつか仄羽の介抱を行っているから警戒するにしても初名ひとりで済む。
 相変わらずの無表情のまま、初名は仄羽の衿を黙って整えた。
「ごめんね、ありがとう」
 仄羽がよわよわしく礼を言えば、
「いいえ。わたしはあとから対応しているだけで、仄羽さんにはなれませんから」
 と断じられた。一理ある。初名の同情をしすぎない、きっぱりとした自分と他人の線引きは清々しく、仄羽を楽にさせた。
 すぐに風呂に入り、さっぱりしたころにはだいぶ落ちついた。体は小刻みに震えていたが、ものを掴めないほどではない。来ないので心配していたという初名とともに昼食を終え、自室で読書をした。日が落ちて、窓の下が騒がしくなってきたころ、一頁も進んでいないことに気づいて本を閉じる。
 七嶺の部屋に夜見世の手伝いに行くと、七嶺はすでに化粧も髪も終えていた。いつもなら仄羽が来てから準備を開始するというのにめずらしい。
「七嶺さん」
 着物を手渡しながら、仄羽は聞く。全の話は話せばなんとなく叱られてしまう気がして飲みこんだ。源氏名があるのは居住区にいたころに持っていたものを一度まっさらにするため、と仄羽に教えてくれたのは七嶺だ。だとすれば、全のことも、七嶺にとっては「まっさら」になったひとつに違いなかった。
「すきな男性と枕を交すのをいやがるのは、おかしなことなのでしょうか」
 言ってからすぐ、これでは何があったか暴露しているようなものだと思ったが、仄羽は訂正も否定もせずに七嶺の返答を待つ。七嶺はじっと仄羽を見つめ、発言の撤回がないことを確認すると、立ちあがっていま着ている着物を脱いだ。
「あるでしょう。普通のことよ」
 脱ぎ捨てられた帯と着物を回収し、仄羽は七嶺を見あげる。
「そもそもお互いの意思が重なったときにする行為なのだから、仕方なく応じることも、求めて応じることも、気分ではないことも、すべて普通よ。当り前にある感情」
 しゅっ、と七嶺は鏡を見ながら衿を抜く。手慣れた動きだ。花魁の着物は普段着に比べ裾が長くひとりでは着づらいつくりだが、七嶺は難なく形を整えていく。
「気持ち悪くなることが、七嶺さんにもあるんですか」
 さすがに踏みこみすぎた不躾な問いだと気づいてすぐに頭を下げたが、ないわ、と七嶺はきっぱりと断言した。
「気持ち悪くなるのなら、それはもうすきな男ではないわね」
 仄羽は頭を下げたまま、いまだ震え続けている指先を見つめる。
「なし崩しでも肌を許すのは、少なからずその相手がすきだから。気持ち悪く感じて好意がなくなるのか、好意がなくなったから気持ち悪くなるのかはそのときどきによるだろうけれど、触れられるのがだめになったら、恋愛はもうだめでしょう」
 黒く塗りつぶされた怪物が一瞬、瞼の裏に映し出された。顔を上げられずにいる仄羽に、七嶺は知らぬ顔で「帯とってくれる?」と言った。動く口実を得て、仄羽はやっと慌てて役目を果たした。
 部屋に戻る途中、吐き気が襲ってきてうずくまる。せりあがってきた吐瀉物を必死で飲みこんだ。げほげほと咳きこむ。胃液もともに上がっていたのか咽喉がひりひりとして、かすかな酸味が咥内に広がった。ここで吐いてしまっては完全に貫爾を拒否してしまう気がして、仄羽は堪える以外の選択肢をとれない。
 準備を終えた花魁たちの華やかな声が聞こえてきて、仄羽は体を引きずりながらなんとか自室にこもる。夕飯は食べられそうになかった。また初名に心配をかけてしまう。そう思うのに、もう部屋から出られそうにない。押し入れから引きずるように自分で布団を出し、毛布にくるまった。窓の外の賑やかさがいまは頭の奥に響いてうるさい。
 ねむりに落ちる直前、トンボ玉が客間に落としたままになっていることに気づいたが、仄羽はゆっくり瞼を落とした。


 ふっと目覚めると、部屋には暗闇が広がっていた。障子の向こうは街灯で明るい。まだ夜見世か、せいぜい深更の刻を過ぎたあたりだろう。仄羽は小さく溜息をつき、額に手を当てる。熱は出ていない。ほっとした。手探りに水を求め咽喉を潤し、再びねむろうと瞼を閉じるが、不思議なほど頭が冴えている。起きていたくなかった。起きていれば必ず、考えたくないことを考えてしまう。
 ずきん、と突然手首に痛みが走り、仄羽は顔を歪める。そろりと触れてみれば腫れているのか少し盛りあがっていた。
 氷でももらってこようか、と考えつつも、面倒くささが勝って動けない。すると廊下からの明かりが部屋に差しこんだ。仄羽は眩しさに目を細めながら、襖の方向に寝返りを打つ。
「威さま……?」
 確信はなく、ろくにシルエットも見ないまま口にすると、こげくさいにおいがふわりと香ってきた。
「起きているじゃないか」
 この声。確かに威だった。威は襖を閉めて仄羽の隣に腰かけた。ぼんやり輪郭だけが浮かびあがっているが、表情やしぐさがわかるほどは認識できない。
「泣いている?」
「……泣いてません」
 いつかの日のようだった。できれば思い出したくない、最低最悪の日だ。あの日と同じに進むのであれば、これから威にされることはひとつである。しかし仄羽は、もう威があんな乱暴を働かないとどこかで信じきっている。誰より信頼していた貫爾に受けた暴行は威に受けたものと大差がない、いや、威のほうがよほどひどいのに、結局今日、とっさに口から出たのは威の名前だった。
 不可思議だ。理解ができない、と自分で思う。この男も真黒な化け物であったのに。
「威さまは夜目がきくって暁さんが言っていました。いまも見えていますか」
 体が重く、うまく動かないのを自分への言い訳にして、仄羽は毛布にくるまったまま言った。うん、と威が頷く。暗闇のなかに白い煙が吐かれるのが見えた。
「見えているよ。全部」
 仄羽の頬についた髪をやさしく耳にかけて、威は言った。
 赤黒い痕を威につけられたのは、今朝が初めてだった。まさか貫爾が来ていることを事前に知っていたわけではないだろうが、貫爾との面会を許可したのはキスマークと歯型を刻んでいたからだろう。実際、貫爾が暴走したのは痕を見つけたからだった。まぬけにも仄羽は事前に気づいたにも関わらず、深く考えずに髪を高くいつもどおり結った。ひとつも嘘を言っていないとはいえ、すべてを話していないのは、はたして貫爾にどう映ったのか。結果はもう出ている。
「ひどいんですね、威さまは」
 言えば、威は咽喉の奥を鳴らしてくつくつと笑った。愉快そうに左目を細めている、気がする。
「わたし……わたしも、ひどいんです」
 遠い天井を見つめる。貫爾が来てくれたことはほんとうにうれしかった。会えたこと、もう一度名前を呼んでくれたこと、仄羽が居住区を出たあの日から、貫爾は変わらずにいてくれたこと。仄羽は変わらずにはいられなかった。
 全部、全部威のせいだ。そう罵りたいのに声が出てこない。通常の留袖新造と同じ道をたどっていれば、貫爾への思いを募らせたままでいられた。だけれど、それでは今日はこなかった。きっと貫爾が来たことを知らされることはなく、ただ〔春日〕での日々を過ごしていただろう。
「ひどいことばっかりです」
「これ」
 仄羽の言葉を聞かず、威が暗闇のなかで小さなものを投げた。仄羽は驚いて体を丸める。正体がわからないのでおそるおそる手にとってみると、根付のようだった。帯飾りに結びつけられている。丸い感触が指先にあった。
「お前のだろう。桃色のトンボ玉だなんてべたな」
 ふん、とばかにするような息遣いが聞こえた。仄羽は指先でトンボ玉をつまむ。暗闇で色は確認できないものの、輪郭だけはわかった。
「これ、貫爾にもらったんです」
「そうだろうね」
 思い出話で緩やかになる仄羽の口調とは裏腹に、威は冷ややかに言った。
「お守りのつもりで、でも、もういいんです」
 トンボ玉を手の平にのせて、仄羽は威に向ける。威は受けとろうとせず、煙管をくゆらし続けた。仄羽は諦めずにそのままじっとする。くれた本人に奪われ放り投げられ、一度は手元から離れたものだ。名残惜しさがないわけではない。けれど、いまは色すらわからない暗闇であるから、後ろ髪引かれる思いごと捨て去るのにちょうどよい。
「でも、自分で捨てる勇気はないんです」
 気丈に言い放ったつもりだ。威はやがて仄羽の手の平に指先を伸ばし、トンボ玉をとらずにそのまま手を握らせて仄羽の胸元に押し返した。
「もう忘れたのか」
 決して振り払えないほどつよく押されているわけではないが、仄羽はされるがまま動けなかった。威の言葉に首を傾げる。
「僕は筈井貫爾への恋情ごと、お前を受け入れると言ったんだ」
「…………」
「感情は自分で消化するものだ。他人に処理してもらおうなんて甘えるな」
 びくり、体がはねた。
 仄羽は重ねられている威の手を掴み、その腕にすがりついて顔を寄せた。こんな量の水分がいったいどこに隠れていたのか、それとも先ほど飲んだ水がすべて涙に回ってしまったのか、仄羽は声を押し殺して泣き続けた。威は何も言わなかった。腕に顔を密着させた仄羽は威の表情など当然見えなかったし、そうでなくとも暗闇でやはりわからなかっただろう。
 ひとしきり泣いて落ちつき始めると、威が解放された手で仄羽の頬をぬぐった。
「ほんとうに、お前はよく泣く」
 我慢づよくてめったに泣かないよな、と、かつて貫爾に言われた。百面相という同じ言葉で仄羽を表した威と貫爾が、まったく別の言葉を仄羽に向ける。だとすればやはり、変わったのは仄羽なのだ。
「せ、威さまが、泣かせているんです」
 ぐずぐずと泣きながら悪態づくと、威は声をあげて笑った。
「威さま」
「なに」
 よほどおかしかったのか余韻を引きずりながら、威は仄羽の涙をぬぐい続ける。この指はすきだ、と仄羽は素直に思った。
「キスしてくださいって言ったら、してくれますか」
 瞬きのたび、涙が落ちた。そろそろ顔が見たい。表情はわからないが笑いはやみ、威からは溜息が聞こえてきた。
「子守りなら別に頼め」
「子どもじゃないです」
 引きかけた威の指を掴み、仄羽は自分の口元にあてる。
「威さま以外も、いやです」
 くっ、と押し殺した笑いが響く。体中が熱い。いまさら心臓がばくばくと高鳴り始めた。威の夜目はどこまで認識できるのだろう。耳まで真赤に染まっているのがばれていないように仄羽は願うしかない。
 間が持たず、仄羽は混乱しつつある頭で言った。
「せ、威さまは、わたしなんて、どうでもいいんだろうけど……」
「仄羽」
 頬を手で覆われ、顎を持ちあげられる。
「僕にここまでされてそんなことを言うのはお前くらいだろうな」
 重なった唇は心地よく、気持ち悪くなかった。ここまで間近になれば暗闇の膜が視界を覆っていても、威の顔がわかる。宝石のような紅い瞳が仄羽を見下ろしていた。
 無言でもっととねだれば、威は通じているかのごとく応える。前にもこんなことがあった。重ねて、食んで、柔らかくついばまれ、いつまでもたりない。トンボ玉を握りしめたまま、威の首に腕を回す。もっと喰らい尽かされたかった。舌が絡んで、歯をなぞられる。
 どちらからともなく離れると、威は低く呟いた。
「どこを触られた」
 答えようとするとふさがれて、なかなか言わせてもらえない。重ねた唇の端からこぼすように伝えれば、威の口元が下りて首元に移る。咬まれた部分に歯を立てられて、足に力が入った。痛い。痛いが、甘い疼きが走って腰元がぞわぞわとした。
 仄羽が貫爾に何をされたのか、威はすべて知っているのだろう。一切他言しないとして全が見張りについていたが、威が報告を命じれば、全は従わざるをえない。仮に〔春日〕を抜け出す算段を整えていれば事である。仄羽としても、威への報告は予想がついていたので特に驚きはしなかった。
 衿元を開かれるかとぎゅっと瞼を閉じれば、予想に反して頬に唇を落とされた。威の髪が目元にあたってくすぐったい。
 まただ。冷たくあしらわれたり、かと思えば大切にされていると錯覚してしまいそうなほどやさしく触れられる。
 暗闇のなかで、威の下瞼が柔らかく弓を描いた。
「威さまは、わたしをどうしたいんですか」
 ずきりと手首が痛む。しかしいま威にはぐらかされるわけにはいかない。威の首から降ろしかけた腕に力をこめた。
「わたしは、威さまの何なんですか」
「それを聞いて、お前はどうする」
 質問に質問で返されて、仄羽は返事に窮する。黙っていると、威が続けた。
「お前は僕にどうされたいんだ」
 考えたこともなかった。瞬きすら忘れて威を見つめる。仄羽が物心ついたときには、威はすでに祇矩藤家当主だった。史上最年少、白眉の当主、穎脱した手腕と学問所では美辞麗句とともに習い、遠い存在でありつつ敬って然るべき対象として育ってきた。こうして威が眼前にあっても、根底では変わらない。春嵐の町民はきっと、いつか威が言っていたように、祇矩藤家当主に何をされても否定的な感情は持てないようになっているのだ。
 最適解はわかっている。「威の思うままに」だ。ともすれば口がそう発そうとするのを、仄羽は堪える。その言葉を言えば威を心底失望させてしまうことだけはなぜかわかっていた。仄羽の脳裏に浮かぶのは、威に「きらい」と伝えたときの威の綻んだ顔だ。
 威が仄羽の手首を掴む。痛みに思わず声が飛び出し、トンボ玉が手からこぼれた。
「また熱を出すぞ」
 ずきずきと掴まれた手首が大きく脈打つ。熱い。気を抜くと叫びそうになり、奥歯を噛み締めた。二倍も三倍も膨張しているのではないかと錯覚する。
 やがて威が手を離した。仄羽はうずくまって耐える。
「今日は休め。氷なら厨でもらってこい」
 文句のひとつも言いたいが、手首の熱さと痛みに口が開けない。耐えるために腕に力が入り、腕に力が入ることで痛みが増す悪循環だ。
 やがて煙管のにおいとともに、威は部屋を出ていった。仄羽は氷をもらうためのろのろと起きあがる。言われたとおりにするのは多少なりと癪ではあったが、威が代わりにもらってきてくれるなんてことは、万が一にも絶対にない。廊下の眩しさに目を細めつつ、仄羽は厨に向かった。


「冷やしたのが大正解」
 小さめの丸眼鏡をかけた伊良子メメが、仄羽の両手首に包帯を巻きながら声を弾ませて言った。ひんやりとした湿布が包帯の下で熱を冷まして心地よい。
 伊良子は代々祇矩藤家、特に当主と〔春日〕を担当するいわば奥医師だ。仄羽は憶えていなかったが〔春日〕に来た初日、熱を出した際にメメに診察をされている。メメは恰幅がよく首や手には年齢を感じさせる皺があったが、はきはきとした言動が彼女を若々しく見せていた。日々祇矩藤家当主や、花魁を中心とした〔春日〕で働く人々をたったひとりで診ているというのだから恐れ入る。
 傍で様子を窺っていた初名が、じっと仄羽の包帯を見つめた。
「伊良子先生、包帯はどれくらいで変えたらいいのですか」
「包帯っていうか、湿布ね。夜お風呂あがりにでも変えたら充分。明日も痛むようならまた朝に。ま、大丈夫だと思うけど」
 ぽん、と手首を叩かれて仄羽は小さく跳ねる。油断していたぶん、つきんと鋭い痛みが走った。祇矩藤に近い人間は容赦がないという特徴でもあるのだろうか。
「でも左手はちょっと長引くかもね。あんまり痛むようだったら、また言って。明日も来るから」
 威に掴まれたほうだ。はい、と仄羽は素直に返事をする。昨夜よりはずいぶんマシにはなったものの、力は入れづらい。おそらく仄羽が渾身の力で誰かの手を掴んでもこうはならないだろう。男女の力の差に改めてぞっとする。それと同時に、かつて威の首に残した自分の指痕が思い出されてうつむく。
「痛みますか」
 心配そうに仄羽の顔を除きこむ初名に、慌てて首を横に振る。メメが大丈夫よ、とあっけらかんと笑った。
「骨も折れてないし、すぐ治る治る。威さまによっぽどかわいがられてんのね」
 仄羽は反射的にメメを見る。メメは仄羽の赤い手首を見た初名が連れてきたので、てっきり初名の気遣いだと思っていた。しかしそれならば威の名前が出てくるはずはない。仄羽の視線に気づいたメメが、眼鏡を衿元にかけながら笑う。
「あ、別に心配はされてないと思うけど」
 それはそうだろう。仄羽は小さく頷く。初名が仄羽とメメを交互に見て、傍観の姿勢をとった。
「一応あたしも、ほとんど毎日来てるんだけどね。今日はあなたを診るようにってお達しがあったから。まー他人のことなんて、側近の三人以外は眼中にないようなお方だから驚いちゃって。思わず聞き返したもの。玉音を聞き返すのって不敬なんだけどね」
 笑い上戸なのか、あははは、と声を出してメメは朗笑した。無感動な表情を浮かべている初名とは対照的だ。笑ってよいことかわからなかったが、笑い声を聞いているとだんだんおかしくなってきて、仄羽も笑う。
 汚れたとき用の替えの包帯、湿布、どうしても痛みがつよく治まらないときのための錠剤を置いて、メメは次の仕事があると去っていった。軽い感じが貫爾の母親と似ている。貫爾にもらったトンボ玉の根付は、桐箪笥の抽斗に仕舞いなおしていた。
 手首が自由に動かせないので、今日の勉強は読書と囲碁だ。鈴は昼見世に出なくとも初名は新造として当番があると行ってしまった。初名が選んだ、特に興味のない伝奇物語を読みながら、仄羽は自身に巻かれた包帯を見つめる。威の右目を覆う包帯は、メメが取り替えているのだろうか。
 頁が進められず、仄羽は本を閉じる。昨夜威に問われた、どうされたい、という言葉が、頭のなかでぐるぐると渦巻いていた。何度考えてもわからない。周りばかりが勝手に仄羽を威のお気に入りとして扱ってくる。
 座りこんでいても埒が明かない。いっそもう一度聞いてしまおう、と仄羽が部屋を出たのは、ある種の高揚が働いていたためだ。手首の痛みや、たまたま初名が昼見世の当番で出ていってしまったことなど、普段とは少しずれた日常が仄羽を突き動かした。
 しかし麻酔が切れたかのごとくふと冷静になった瞬間、意気揚々としていたにも関わらず突然気力がなくなる。仄羽は威の仕事部屋の前に座り、入るか入るまいか悩んだ。勢いそのまま襖を開けてしまえばよかったのだが、作法に則って座りこんだ途端、なんだかばかばかしいことでここまで来てしまったのではないか、と疑問に思い、一度考えてしまうともう動けなかった。そして座ってしまった手前、すぐに戻る勇気もわかず、襖の前で呻るはめになる。
 いつ入ってもいい、とは言われた。そのため仕事中であろうと休んでいようと不問に処される。ただ瑞矢や暁がいる可能性は否めない。開けて誰もいない場合は問題ないが、もしあの三人がなかにいて、一斉に視線を向けられればきっと身がすくむ。具体的な用件がないため気まずくなるのは明白だ。
 仄羽は首元をさする。貫爾に噛まれ、そのうえから威に咬みつかれた。じゃっかんずれたふたつの歯型が朝にもくっきり残っていた。
 やはりやめよう。
 そう思って足を持ちあげかけたとき、
「あれ、仄羽ちゃん」
 暁の声が後ろから聞こえてきて振り返る。見られた。仄羽が言い訳をしようとひとりでわたわたとしていると、ちょうどよかった、と暁は仄羽の腕を引っ張り無理やり立ちあがらせ、そのまま襖を開けた。
「主人、報告にまいりました」
 部屋中に散乱した書類を慣れた足取りで避けながら、暁がなかに突き進む。文机に肩肘ついた威が、暁と仄羽を見あげた。
「なんだそれは」
 威が冷ややかに言う。仄羽は視線が合わせられずうつむく。やはり来るべきではなかった。威から来たときはやさしいわりに、仄羽が威に近づこうとすると拒否される。
 しかし暁は平素となんら変わらずへらへらと言った。
「それって言い方はないでしょう。俺も嫉妬深いほうだけど、いやっすねえ、男の嫉妬って」
 なんてことを言うのか。仄羽は青ざめたが、威は眉に皺を寄せて暁を睨み、あとは嘆息したのみだった。
「用事がないのに入るのが憚られたんでしょう。襖の前で呻ってたんすよ。だからむしろタイミングのよい俺を褒めてください」
 そのとおりではあるが、釈然としない。暁は床の書類を適当にどけて座るスペースをつくり、仄羽を手で呼んだ。威は他所を向いて機嫌が悪そうにしていて、出ていけとは言われず、暁を叱ることもしない。おそるおそる呼ばれるまましゃがみこんだ。
 どけた書類を手にとり、暁は分類を説明した。仕分けしろということだろう。この場にいる理由ができて仄羽は内心ほっとした。とりあえず床の書類をすべて集め、言われたとおりに分けていく。その間に暁は威に報告をし、問われた内容に答えていたが、仄羽にはさっぱりだった。
 途中で瑞矢が入ってきて、仄羽の姿に少し驚いたようだったが、すぐに順応して暁と同じように報告を始めた。
「主人、すぐ書類をばらまいちゃうんで。明日からも引き続きよろしくお願いします」
 暁はそんなことを言って出ていった。威を見ても無視して書類にサインを続けているので瑞矢に目を向ければ、仄羽の視線に気づいた瑞矢が嘆息し、
「そうしてくれると助かる」
 と答えた。やはり威は無言無表情で、黙々と仕事をこなしている。不安になりつつも暁と瑞矢に言われたことだ。考えている間に書類が放り投げられ、仄羽は分類を続けた。
 やがて瑞矢が仕分けの終わった書類を持って出ていき、ふたりきりになった。いま威が目を通している書類が回ってこないかぎりすることがなく、手持無沙汰になる。今度こそ気まずさに腰を浮かしかけ、かといって出ていくきっかけも掴めずまた重心を落とす。
 何も言われず何もされないということは、少なくとも迷惑ではないのだろう。邪魔にもなっていないはずだ。仄羽の存在が目障りであるのならば、とっくに威に出ていけと命じられているに違いない。
 横目でこっそりと威を覗き見る。時たま姿勢を変えながら、威は仕事を処理していく。史上最年少、白眉の当主、穎脱した手腕。生まれ持ったものははたしてどれほどなのか。威たちがほとんどねむらずに働いてくれているからこそ、春嵐は町民の不満が少ない、平和な町を保っている。
「用事はあっただろう」
 突然話しかけられ、驚いて声が出た。
「用事はあったから来たんだろう。夜ならともかく、仕事をしている可能性のある時間に仄羽が訪ねてくるとは思えないけど」
 視線は下に向けたまま、威が言った。仄羽は威を見つめる。あるにはあったが、ほとんどが勢いだったので襖の前で暁が言うように呻っていたのだ。こうして問われてもやはり些末なことだと感じられて、なかなか言い出せない。
 書類が一枚、放り投げられる。取りに行き、仄羽は手元に置いた。書類には威の署名と花押があった。まっすぐに書かれた癖のない達筆を仄羽は眺める。
 再び顔をあげれば、威が仄羽に視線を向けていた。暗闇とは異なりはっきりと目にできる表情に、仄羽は顔を赤くする。
「あの」
 赤面したこと自体が恥ずかしくなり、さらに頬を朱に染めながら、仄羽は隠すように手を顔に寄せた。
「あった、んですけど」
「なんだ」
 体の奥から湧き出てきた意識に困惑する。威は急かすこともなくじっと仄羽を見つめていた。
「それよりも、ただお顔が見たくて……」
 自覚のなかった気持ちにいまさら気づいた。頭のなかで言葉になるのと同時に口からもこぼれたものの、続きは言えなかった。こわくて威の表情が見られない。
 かたん、と筆を置く音が聞こえた。びくりと肩がはねる。威からすれば仄羽のもとの用事よりももっとくだらないことだとはっとして、さらにうつむいた。どこまでまぬけなのか。
 くつくつとした笑いが耳に届く。威は何がおかしいのか口元を覆って笑っていた。
「なんだ」
 うつくしい顔が仄羽に向けられる。何度も至近距離で目にしているのに、仄羽はどきりとした。
「見るだけでいいの?」
 これは罠だ、と思った。手中に誘いこまれている。じわじわと搦めとられている。まともであれば抗って然るべきだ。わかっていて、仄羽は腰をあげた。威の指先が仄羽の髪を梳く。多額の借金と、よわった心につけこむ威の所業、貫爾からの暴行で、冷静のつもりでも仄羽はいままともではない。そうでなくとも、威を前にすると混乱が大きくなって普段どおりでいられた時間のほうがおそらく少なかった。
 仄羽は威の右目を覆う包帯をよわよわしくなでる。自分の手首に巻きついているものと同じ白。
「おそろいですね」
 ふと笑った。
 言葉に表せない曖昧な感情を唇にのせて、仄羽はやわらかに重ねる。想っているのは、確かにまだ貫爾だった。非情な女になってしまったのかもしれない、と仄羽は思い、滴が一粒頬を流れていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

冷徹公爵の誤解された花嫁

柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。 冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。 一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

すべてはあなたの為だった~狂愛~

矢野りと
恋愛
膨大な魔力を有する魔術師アレクサンダーは政略結婚で娶った妻をいつしか愛するようになっていた。だが三年経っても子に恵まれない夫妻に周りは離縁するようにと圧力を掛けてくる。 愛しているのは君だけ…。 大切なのも君だけ…。 『何があってもどんなことをしても君だけは離さない』 ※設定はゆるいです。 ※お話が合わないときは、そっと閉じてくださいませ。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました

美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

処理中です...