ハルヒカゲ

葉生

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一章

六話 - 二

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 威は仄羽を眺めるだけで、指先を伸ばしてきたりはしなかった。滴は仄羽の顎にしばらく留まり、やがて落ちた。文机を挟むと近くて遠い。回りこんで傍に寄るべきか、寄ってもよいのかどうか、仄羽は逡巡する。

「なにを話したいんだ。僕と」

 煙草盆に置いた煙管に煙草を詰めながら、威は言った。威の問いはいつも脈絡なく感じる。仄羽は浮かせていた腰をその場に下ろして首を傾げる。やがて威が火をつけた煙管を口に含んだ。目の前にいてはまた煙を吹きつけられるかと仄羽は身をかたくしたが、威は横を向いて煙を吐き出した。こげくさい匂いが周囲に広がっていく。

「話をしに来てもいいかと言っていただろう」

 確かに言った。仄羽はじっと威を見つめる。威はどうやら、その場しのぎの発言はしないらしい。嘘もつかない。その点では信頼できる。

「何なら聞いてもいいんですか」

「なんでもいいよ」

 つまらなさそうに威は言って、煙管を咥えた。

 改めて聞かれると困った。聞きたいことはたくさんある。包帯はいつ替えているのかとか、食事はきちんととれているのかとか、右目はどうしたのか、だとか。どれも気になることではあるものの、心底尋ねたいかといえばそうでもない。

「威さまには幼馴染の方とか、いらっしゃるんですか」

 結局口から出たのはそんなことだった。共通の認識が貫爾しかないと気づいて仄羽はうつむく。威の親である祇矩藤の先代は亡くなったために威が当主をしているのだし、七嶺をはじめとした花魁や暁たちの話をするのはこの場にいないので憚られる。しかしほかにいくらでも話題はあっただろうに、なぜよりによって。

 威はいるよ、とあっさり答えた。

「瑞矢がそうだ。生まれてからこの方、瑞矢の顔を見ていない日のほうが少ない」

 仄羽はひとつに結んだ桃色の髪に指を通す。側近のなかでひとり黒髪黒目の瑞矢がもっとも威に近くあったのはそのためかと合点がいった。当時は次期当主候補であった威と幼馴染ということは、祇矩藤に仕える家柄なのだろう。

「でも波良家って……」

 学問所では祇矩藤とともに、祇矩藤に仕えるいわゆる重臣の家も習う。重臣はどこも代々祇矩藤を補佐してきた由緒ある家だ。たとえば十三天王の取締役は紀平家だと知らない町民はいない。同じように祇矩藤の家令は万よろず家である。

「いまさらか。勉強不足だな」

 うっすらと笑われて、仄羽はすみません、と頭を下げる。よく考えてみると、波良も深浦も祇矩藤の家臣としては聞いた覚えがなかった。

「瑞矢も暁も、家とは関係なく僕が選んだ。波良はもともと末席に連ねる家だが、暁は拾ってきたからね。まったく祇矩藤とは関係ない」

「拾ってきたって」

「言葉どおりだ。いまはいないけど鶫もそう」

 青の札の、出張中の側近だ。

「だいたい祇矩藤の代が変わればほかの家も代を変えることのほうが多い。万の奴らとは気が合わなかった。瑞矢以外は信用できなかった。それだけだ」

 煙を吐いて、威は片肘をついた。仄羽は膝のうえの手をゆっくりと握る。家臣とはいえ末席の家柄で、次期当主候補と「生まれてこの方顔を見ていない日のほうが少ない」ほどともにいることはありえるのだろうか。それとも仄羽の記憶にはない先代も、いまの威が仄羽を呼んでいるのと同じく、慣例や制約は無視をするようなひとだったのだろうか。

「威さまは一二で当主となられたんですよね?」

 とにかく優秀だと教わった。まだ歳若いぶん、これから先も安泰だと。

 威は口元を歪めて笑った。伏せられた睫毛が顔に影をつくる。

「そう。一六年もよくこんなことをやっている」

 つまりそれは、少なくとも一二のときに親を亡くしたということだ。一二は成人もしていない、まだ子どもである。

 仄羽は立ちあがり、威の傍へと寄った。隣に座っておそるおそる腕を広げる。威は煙管を持ったまま仄羽を一瞥し、

「なにしてるの」

 呆れの混じった冷ややかな視線に怯みそうになる。仄羽は一度腕を戻しかけ、もう一度広げた。あの、と話しかけながら、視線が落ちていく。

「威さまに抱きしめられたとき安心するなって、思ったので」

「それで?」

「威さまにも安心してもらえたらな、と……」

「すがりつけと?」

 灰吹きに灰を落として、威は煙管を煙草盆に置いた。最後に口からふうと煙を吐き出す。ふたりの間には匂いで壁ができていた。仄羽には煙がまとうこげついた匂いの奥にある、威の香りがまったく感じられない。

「僕のことはきらって貫爾に恋慕しているお前の胸に?」

 びくり、と仄羽の体が震えた。瞬きが増えて、威に視線を合わせられない。言い訳すらできずに手をぎこちなく膝のうえに置く。威のためと言いながら体よく自分の欲望を叶えようとしていた気さえしてきて、仄羽は唇を噛みしめた。

 硯の磨る音が聞こえる。規則正しいリズムで威が墨をつくっている。黒々とした液体がかすかに泡立てられて現れてくる。

「……貫爾が押しかけてきたとき、会う許可をくださってありがとうございました」

 威が筆をとる。完全に仕事を再開するようだった。迷惑になっていないだろうかと殊勝にしていた先ほどまでとは異なり、仄羽は続ける。

「貫爾も当主様はやさしいって言って。わたしはちょっと笑っちゃいましたけど」

 手首に巻かれた包帯をさする。湿布のおかげか昨夜に比べれば痛みはほとんどなく、見た目ばかりが仰々しく映った。

「わたしの首の痕を見つけると、貫爾が変貌して……」

 襲われた、と言えずに、仄羽は開いた口をいったん閉じて唾を飲みこんだ。言葉にするときっと、仄羽のなかで貫爾がまた真黒な化け物となる。これまで身近だったのは笑顔の貫爾であるのに、遠くにいってしまう。

 包帯を握りしめる。鈍い痛みが走ったがかまわなかった。

「……最低」

 かつてないほどの低く暗い声が自分の咽喉から発せられて、仄羽はさらに手首をつよく掴んだ。

「最低です、貫爾も、威さまだって」

 威は筆を動かす手をとめない。仄羽を見ようともしなかった。

 でも、と仄羽は続ける。独白に近かった。あるいは返事がなくとも、威が聞いていないわけはないとたかをくくっていた。

「でも、威さまの名前を呼んだんです」

 恐怖が頂点に達したとき、口から出たのは威の名前だった。貫爾に抱きしめられても匂いが違うと思い、無理にキスされてもただ気持ちが悪く、胸元をはだけられたときはおそろしさしかなかった。

「わたしにいちばんひどいことをしてるのは威さまなのに……」

 紙がひらりと宙を舞い、畳のうえに落ちていく。

 最初は威ともわからぬ暗闇のなかだった。二回目は自分でも不可解な感情に支配されて逃げることを放棄し、泣きついた。三回目はすがりついた。言葉がなくとも通じあい、輪郭がどちらのものか、感情がどちらのものかわからなくなる感覚が特別なつながりだと少なからず信じた。

「埋めつくしてください」

 威の袖をつまむ。

「貫爾への恋情ごとわたしをもらってくれるって言ったのは威さまです」

「…………」

「わたしを全部上塗りするみたいに、わたしのなかを威さまだけで埋めつくしてください」

 鋭い痛みが手首に走って、威の袖から手が離れた。

 何を言っているのだろうか、と思う反面、ああこれが言いたかったのだ、と仄羽は頭の奥でひとり納得する。

 貫爾のことはきらいになれない。暴行を受けても同じだ。だが仄羽が抱いていた貫爾への思いは、あの桃色のトンボ玉のなかに封じてしまった。小さくなったものだと思う。あまつさえ一度捨てようとした。留まらせたのは威だ。だからまだ、小さくなろうと何だろうと、仄羽のなかに確かにある。

「わたしを求めてください」

 言い放つと、威が筆を置いた。手元の紙を半分に折って脇に放った。

「紙が一枚無駄になった」

 突然袖を引いたせいだろうか。仄羽は手をすりあわせて胸元に持ってくる。仕事の邪魔をするのは本意ではない。ごめんなさい、と知らず口から漏れた。

「それがお前の出した答えか」

 威が絹のような髪をさらりと音立てながら仄羽に振り返る。

「お前じゃなくて、名前で呼んでください」

「突然と、ずいぶん言うようになった」

 くつくつと咽喉の奥を鳴らして威が笑った。紅い瞳が弓を描き、仄羽は吸いこまれるように威に顔を近づける。今度は視線を逸らさない。ほんとうは昨夜威に問われたときにすでに心は決めていたのではないか、と思った。意識だけがふわふわと漂っていたのを、たまたまいま、言葉に変換できたのではないか。

「僕が祇矩藤家当主ということを忘れたわけじゃあるまい」

 当主の証である黒い髪に赤い瞳。左目だけでも仄羽に迫ってくる。もちろん忘れたりなどするわけがない。

「祇矩藤家当主ではなく、威さまが、威さま自身が、わたしはほしい」

 威の右目を覆う白い包帯にそっと触れる。包帯の下の凹凸がほのかに伝わってくる。

「その紅い瞳ごと、わたしにください」

 意趣返しのつもりで言う。正直なところ、威に対する感情に説明はつけられなかった。ただ、威が仄羽にしたのと同じことを別の誰かにするのは耐えられない。もしそんなことがあれば、今度こそ首を絞めきってしまう。煮えるような愛憎が腹の底に潜んでいるのがわかる。

 その権利がある、と威は言った。いつ殺してくれてもいい、と。

 だが仄羽は殺人など御免だ。威の首に一〇の痕をつけた、あの一回で充分だ。

「いいよ」

 至極あっさりと、威は言った。耽美に微笑みながら。威らしい、と仄羽は思う。この笑い方は威らしい。

「完璧だ、仄羽」

 膝にのせた仄羽の手が威に捕まる。指先をもてあそぶように絡められたあと、白い包帯をなでられた。仄羽の小さな手は威の手にすっぽりと埋まってしまう。

「もはや僕から離れられるとは思うな」

 威が顔を傾けた。一瞬逃げられるだけの隙ができたことに気づきながら、仄羽は無視をした。やがて威は恋人同士のようにやさしく仄羽に口づけた。この唇が、髪が、目が、指が自分のものになると思えば、ぞわりと総毛立つ。仄羽はおそるおそる、威の背中に腕を回した。

 気は狂っていない。驚くほど迷いもない。波立ち揺れていたばかりだった気持ちが落ちついていくのがわかる。威の首元に顔をうずめて深く息を吸った。

(きもちいい……)

 威の体は華奢であるのに、包まれていると大きく感じる。鼻腔の奥をくすぐる威の香りが心地よい。

 これは一時の快楽を追い求めているのだろうか。だとすれば手遅れだ。いずれ威との間には境界線がなくなる。そんな予感がしていた。





 桃色に塗った札を、橙の札の下にかける。仄羽の札だ。暁は夜見世のためほとんど表になっている花魁たちの札に目を向けた。彼女たちが〔春日〕に身を置いている理由はさまざまだ。基本的には借金の返済であり、身内に売られた場合が多い。

 売られた、という言い方をすると、威はいらだつ。遊郭である〔春日〕にとって花魁が商品であることはまぎれもない事実であるが、一人ひとりは彼にとってあくまでも自らの町民だ。そもそも金だけなら祇矩藤は腐るほど持っている。慈善でばらまくわけにはいかないので返済義務が発生しているだけで、返済そのものには威は興味がない。彼の性質上、返済に奔走する姿を見るのを好んでいるだけだ。

 源氏名を与えるのは儀式である。区切りをつけるためのパフォーマンスといってもいい。親類に売られた自分をいやがり遊郭を出たあと源氏名のままで生活を送る元花魁も少なくないと聞く。蜥蜴の尻尾切りがごとく遊郭に入る彼女たちは、蜥蜴の体に戻ることを望まない。今度こそ自分自身の足を地につけ遊郭を出ていく。

 花魁の立場は常に客より上位だ。花魁でなくなったあとも、叩きこまれた芸が身を助けて生きていける。

 居場所がなくなり自ら入ってくる子もいる。〔春日〕の御職である七嶺がそうだ。彼女はすでに成人していたのでほかの遊郭に回すことも考えられたが、結局その美貌と本人の祇矩藤のお膝元でという揺るぎない意思により留袖新造として採用された。みるみるうちに芸を身につけ、駆けあがり、いまでは誰もが認める花魁になった。彼女の馴染みになるのはもはや不可能に近く、すでに彼女の馴染みである男女は長く七嶺のもとに通っている。馴染み同士が親しくしているため鉢合わせることすらなく、常に〔春日〕に足を運んだ日には七嶺を独占できるよう調整している。身請けしようといういくつかの誘いがあったにも関わらず七嶺はすべて断り、いまもなお〔春日〕から出ていこうとはしない。

 七嶺の札は表を向いてかけられている。今日は毎回全身黒の着物で現れるので新造たちに黒衣と綽名をつけられている男が来ているはずだ。

(雨の日だった)

 暁は七嶺の札をなでる。普段であれば瑞矢が対応する場面だが、たまたま十三天王の詰所からの帰りだった暁と鉢合わせた。七嶺が傘も差さずに立ち尽くし、じっと〔春日〕を睨んでいたのを思い出す。

 嘆息し、階段に向かうと、ちょうど下りてきた道尾とぶつかった。禿から長く鈴についていたが、先日花魁となった少女である。今日は休みのはずだ。

「ああ、すんません。怪我は? ないっすか?」

「あ、しょ、暁さま」

 ゆるくうねった黒髪とまんまるとした黒目。道尾は暁を認めると慌てて離れ、顔を朱に染めながら髪を耳にかけた。

 小柄でいつも鈴の後ろに隠れるようにしていたこの少女を、かわいいとは思う。花料を務めた花魁に関しては、ほかの花魁よりもやはり応援はしたくなる。しかし花魁として正式に客をとる前、花魁側から唯一指名できる相手に〔春日〕内で知り合った男を選ぶのは、居住区でよい記憶がないのとほぼ同義だ。

 むきだしにされた恋情に気づかないほど暁は鈍くはない。むしろ鋭いほうだ。だからといって感情移入はしない程度には割りきることができる。知らないふりを突き通すだけの度量はあった。

「た、大変失礼いたしました。暁さまこそ、お怪我は」

「道尾みたいな小さな女の子に当たった程度ではしませんよ」

 にっこりと微笑めば、道尾はさらに照れてうつむいた。

 それじゃあとすれ違おうとすれば、着物を掴まれる。長身の暁には道尾は小さすぎて、まるで幼い子どもを相手にしているような錯覚を得た。

「あの、花料、ありがとうございました」

 消え入りそうな声で言われて、暁は道尾が見ていないのをよいことに眉をハにして眉間に皺を寄せた。客との行為が肌を重ねることである以上、こんな純朴な思いは持つだけ道尾がつらくなるだけだが、今後絶対に相手にされないとわかっている対象に恋情を抱くことで意欲を持って続けられるということもある。

 暁は着物を掴んでいる道尾の手をそっと離して、いいえ、と言った。

「俺にできるのはあれだけっすから」

 聡い花魁たちは、突き放す言葉に敏感だ。道尾は涙目になりながらも小さく頷いた。暁は振り返らずに階段を上っていく。

 おそらく美化された自分が、道尾のなかで生き続ける。暁はうんざりした気持ちを持ちながら執務室に向かう。弾力がある肌、誰にも暴かれたことのない道尾のなか、成長途上の控えめな胸、あまりに小さな体に壊してしまうのではおそろしさを覚えたことまで、きちんと記憶している。花料に指名されたときにはいつもそうするように、なるべくやさしく、花魁が恐怖を抱かないように、それでいてどこかしらで快感を見つけ出せるように、目の前の女の子に集中した。集中していたはずなのに、抱きながら暁の眼前に映っていたのは七嶺だった。道尾に限らない。どんな体格でも、どんな声でも、どこに反応していても、どの女の子が相手であっても、暁が触れていたのは七嶺の肌であったし、耳に聞こえていたのは七嶺の嬌声だった。

 おえ、と壁にもたれかかってえずく。

 仄羽に以前、誰が相手でもできるんですか、と聞かれたが、できる、と暁は思う。

(誰が相手でも、七嶺を想像してしまう)

 手で顔を覆う。目に入る橙の髪が鬱陶しかった。黒髪黒目が春嵐出身者の特徴であり、春嵐出身者が異人と子をなすと髪や目が黒以外で生まれてくる。けれど髪も瞳も黒でないのならば、春嵐出身だという証拠はどこにあるのか。そんな劣等感ごと拾いあげてくれたのが威だ。主人を裏切ることはありえない。七嶺が〔春日〕に勤める花魁である以上、それ以上の感情は持つべきではなく、そのうえ御職である彼女が抜ければ一時的にしても売上が落ちる。威の利こそが第一であり、彼女が身請けされたり彼女自身が引退を決断したのならともかく、暁の感情が妨げるなど言語道断だ。

 七嶺に初めて会った雨の日、彼女は名乗った。はたして何と名乗ったのか、口の動きまで鮮明に思い出せるのに、暁は忘れたふりをして笑う。額に浮いた脂汗をぬぐうと、再び執務室に向かって歩き出した。
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