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第一章
04 隣人
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翌日。
いつも通り、ケイには何の予定もない。昨日と次の土曜日が珍しいだけで、これが今のケイの〝普通〟だ。
遅めの朝食を残り物で簡単に済ませ、洗濯と風呂掃除を終えると、ネットサーフィンで時間を潰した。そうこうしているうちに一二時を過ぎ、ケイの体は空腹を訴えた。軽かったとはいえ、朝食からは三時間しか経過していないのだが。
──食欲は失せないのよね。
冷蔵庫の中身が空に近い事を改めて確認すると、買い出しに向かうため簡単に身支度を整えた。気圧のせいか寝過ぎたせいか、頭の奥がズンと重いが、それ以上に空腹に耐えられそうになかった。何故昨日、〈チアーズ〉あるいは近所の店で食品を買っておかなかったのだろう。
アパートを出て程なくして、ケイは歩道のど真ん中を陣取って堂々と口喧嘩する男女に遭遇した。
──あ。
ケイよりも背丈は低いが体重は二〇キロ以上多くありそうな体型に、ハニーブラウン色に染めた長い髪を二本の三つ編みにしている女は、ケイの隣人である英田だ。
「何度も言ってるでしょ! あんたなんかもう信用出来ないって!」英田は鬼のような形相で怒鳴った。「これで何回目かわかってる? え!?」
「だからオレも何度も謝ってんだろぉ!?」対する男も、まるで張り合ってでもいるかのように顔を歪め、声を荒らげた。「マジで反省してるっつの! なのにお前が──」
「反省してりゃ四回も浮気なんてしないでしょうよ!」
ケイは思わず足を止め、男の顔を、それから体全体を凝視した。失礼ながら、お世辞にも見てくれがいいとは言えない。英田も浮気相手たちも、一体この男の何処に惹かれたのだろうか。
ケイはふいに、以前読んだ女性向けファッション雑誌の辛口コラムを思い出した。詳細はもう忘れたが、唯一未だに覚えている言葉がある──〝どんなブ男でも、喋りが面白けりゃモテるんだよ〟
英田はヒートアップした。「しかも子持ちの人妻? その前は婚約者がいるOLだったよな? あんた病気だよ、病気! ゴミクズ野郎が!」
「……んだとテメ──」
男はケイに気付くと慌てて口を噤んだ。少々遅れて気付いた英田も、気まずそうに目を逸らすと無言で道を開けた。
ケイは小さく頭を下げると、二人の間を通り、そそくさとその場を後にした。
──帰りまで続いてなきゃいいけど。
スーパーで揚げ物とポテトサラダを購入すると、次はコンビニへ。シーザーサラダと、SNSで話題になっていたハンバーグをカゴに入れ、ついでにスイーツコーナーもチェックする。
「あ、ほらこれこれ! このシュークリームが超美味しいんだよ」
ケイの先に来ていた二人組の女性のうち、髪を赤茶色に染めている方が連れに言った。
「クリームは甘過ぎないし、皮は硬過ぎず柔らか過ぎず。今まで食べたシュークリームの中で一番美味しいかもしんない」
連れの女性は、いじっていたスマホから顔を上げた。「あ、それ知ってる。カレが最近ハマってるみたいで、しょっちゅう食べてる」
──優一郎は嫌いだった。
クリームがはみ出て指が汚れる。甘ったるくてくどい……確かそんな理由で。
──あの裏切り者はシュークリームが嫌いだった。
ケイは商品棚に手を伸ばすと、シュークリームの隣の抹茶エクレアを手に取った。
買い物後、アパートに戻ったケイは、再び英田に出くわした。階段を上っている途中だ。つい今さっきまで言い争いを続けていたのだろうか。
ケイも階段を上り始めると、英田は足音に驚いて素早く振り向いた。浮気性の彼氏──もう既に〝元〟が付いている可能性もある──が戻って来たと思ったのかもしれない。
「あ、どうも……」英田の表情は固く、声にも張りがなかった。
「こんにちは」ケイはあくまでも自然に返した。
二人がそれぞれ自室の前で立ち止まったのは、ほぼ同時だった。階段を上ってすぐの201号室がケイで、202号室が英田だ。
ボディバッグから鍵を取り出したところで、ケイは英田に呼び止められた。
「さっきはごめんなさい、変なとこ見せちゃって」英田は苦笑しながら言った。
「いいえ、そんな」
大変でしたね──喉まで出掛かったが、ケイは飲み込んでおいた。
「緋山さん、今日お仕事は? お休み?」
「え、ええ……」
かれこれ半年になります──これも呑み込んだ。
そして、続く予想外の言葉にケイは目を丸くした。
「時間ある? 良かったら、うち来てお茶しない?」
ケイはすぐに言葉を返せなかった。引いてしまったわけではなく、むしろ一瞬嬉しささえ感じた。
しかし隣人とはいえ、英田とはすれ違いざまに挨拶を交わす程度の中だ。こうして挨拶以上の会話をするのも今が初めてだというのに何故?
「やだ、馴々しいわねわたし。ごめんなさい、驚かせちゃって。今のは忘れちゃってね!」
早口にそう言ってドアの向こうに姿を消そうとした英田を、ケイはほぼ無意識に呼び止めていた。
「わたし……まだお昼ご飯食べてないんです」
英田は大きな目をパチクリさせると、
「あ、実はわたしも。ソース焼きそば作って食べようと思ってて……」
ケイの脳内を、皿に盛った湯気が立つソース焼きそばが占め、シーザーサラダと揚げ物のセットは隅に追いやられた。
「……いいですね」
「良かったら……一緒にどう?」
「じゃあ、これ片付けてから伺いますね」
ケイが両手に持ったビニール袋を掲げて見せると、英田のふっくらした顔に、嬉しさと照れ臭さが入り混じった笑みが広がった。
後にケイは、何故自分は英田の誘いに応じたのか、その理由を考える事があった。
空腹だった。険悪な言い争いを見せられた後だが、元々英田に悪い印象はなかった。妹以外の誰かと交流したかった。自分と同じく恋人に浮気された英田に同情した。それぞれの最低な男に関する愚痴と悪口を言い合いたかった。
全て当てはまるが、しかしどれも決定打になったとは思えず、かといって単なる気紛れだと結論付けるのもいまいち納得がいかなかった。
そしてこうも思った──あの時、逃げるように部屋に戻ろうとした英田を呼び止めたのは、本当に自分自身の意思だったのだろうか。英田が自分をお茶に誘ったのは、本当に彼女自身の意思だったのだろうか……と。
いつも通り、ケイには何の予定もない。昨日と次の土曜日が珍しいだけで、これが今のケイの〝普通〟だ。
遅めの朝食を残り物で簡単に済ませ、洗濯と風呂掃除を終えると、ネットサーフィンで時間を潰した。そうこうしているうちに一二時を過ぎ、ケイの体は空腹を訴えた。軽かったとはいえ、朝食からは三時間しか経過していないのだが。
──食欲は失せないのよね。
冷蔵庫の中身が空に近い事を改めて確認すると、買い出しに向かうため簡単に身支度を整えた。気圧のせいか寝過ぎたせいか、頭の奥がズンと重いが、それ以上に空腹に耐えられそうになかった。何故昨日、〈チアーズ〉あるいは近所の店で食品を買っておかなかったのだろう。
アパートを出て程なくして、ケイは歩道のど真ん中を陣取って堂々と口喧嘩する男女に遭遇した。
──あ。
ケイよりも背丈は低いが体重は二〇キロ以上多くありそうな体型に、ハニーブラウン色に染めた長い髪を二本の三つ編みにしている女は、ケイの隣人である英田だ。
「何度も言ってるでしょ! あんたなんかもう信用出来ないって!」英田は鬼のような形相で怒鳴った。「これで何回目かわかってる? え!?」
「だからオレも何度も謝ってんだろぉ!?」対する男も、まるで張り合ってでもいるかのように顔を歪め、声を荒らげた。「マジで反省してるっつの! なのにお前が──」
「反省してりゃ四回も浮気なんてしないでしょうよ!」
ケイは思わず足を止め、男の顔を、それから体全体を凝視した。失礼ながら、お世辞にも見てくれがいいとは言えない。英田も浮気相手たちも、一体この男の何処に惹かれたのだろうか。
ケイはふいに、以前読んだ女性向けファッション雑誌の辛口コラムを思い出した。詳細はもう忘れたが、唯一未だに覚えている言葉がある──〝どんなブ男でも、喋りが面白けりゃモテるんだよ〟
英田はヒートアップした。「しかも子持ちの人妻? その前は婚約者がいるOLだったよな? あんた病気だよ、病気! ゴミクズ野郎が!」
「……んだとテメ──」
男はケイに気付くと慌てて口を噤んだ。少々遅れて気付いた英田も、気まずそうに目を逸らすと無言で道を開けた。
ケイは小さく頭を下げると、二人の間を通り、そそくさとその場を後にした。
──帰りまで続いてなきゃいいけど。
スーパーで揚げ物とポテトサラダを購入すると、次はコンビニへ。シーザーサラダと、SNSで話題になっていたハンバーグをカゴに入れ、ついでにスイーツコーナーもチェックする。
「あ、ほらこれこれ! このシュークリームが超美味しいんだよ」
ケイの先に来ていた二人組の女性のうち、髪を赤茶色に染めている方が連れに言った。
「クリームは甘過ぎないし、皮は硬過ぎず柔らか過ぎず。今まで食べたシュークリームの中で一番美味しいかもしんない」
連れの女性は、いじっていたスマホから顔を上げた。「あ、それ知ってる。カレが最近ハマってるみたいで、しょっちゅう食べてる」
──優一郎は嫌いだった。
クリームがはみ出て指が汚れる。甘ったるくてくどい……確かそんな理由で。
──あの裏切り者はシュークリームが嫌いだった。
ケイは商品棚に手を伸ばすと、シュークリームの隣の抹茶エクレアを手に取った。
買い物後、アパートに戻ったケイは、再び英田に出くわした。階段を上っている途中だ。つい今さっきまで言い争いを続けていたのだろうか。
ケイも階段を上り始めると、英田は足音に驚いて素早く振り向いた。浮気性の彼氏──もう既に〝元〟が付いている可能性もある──が戻って来たと思ったのかもしれない。
「あ、どうも……」英田の表情は固く、声にも張りがなかった。
「こんにちは」ケイはあくまでも自然に返した。
二人がそれぞれ自室の前で立ち止まったのは、ほぼ同時だった。階段を上ってすぐの201号室がケイで、202号室が英田だ。
ボディバッグから鍵を取り出したところで、ケイは英田に呼び止められた。
「さっきはごめんなさい、変なとこ見せちゃって」英田は苦笑しながら言った。
「いいえ、そんな」
大変でしたね──喉まで出掛かったが、ケイは飲み込んでおいた。
「緋山さん、今日お仕事は? お休み?」
「え、ええ……」
かれこれ半年になります──これも呑み込んだ。
そして、続く予想外の言葉にケイは目を丸くした。
「時間ある? 良かったら、うち来てお茶しない?」
ケイはすぐに言葉を返せなかった。引いてしまったわけではなく、むしろ一瞬嬉しささえ感じた。
しかし隣人とはいえ、英田とはすれ違いざまに挨拶を交わす程度の中だ。こうして挨拶以上の会話をするのも今が初めてだというのに何故?
「やだ、馴々しいわねわたし。ごめんなさい、驚かせちゃって。今のは忘れちゃってね!」
早口にそう言ってドアの向こうに姿を消そうとした英田を、ケイはほぼ無意識に呼び止めていた。
「わたし……まだお昼ご飯食べてないんです」
英田は大きな目をパチクリさせると、
「あ、実はわたしも。ソース焼きそば作って食べようと思ってて……」
ケイの脳内を、皿に盛った湯気が立つソース焼きそばが占め、シーザーサラダと揚げ物のセットは隅に追いやられた。
「……いいですね」
「良かったら……一緒にどう?」
「じゃあ、これ片付けてから伺いますね」
ケイが両手に持ったビニール袋を掲げて見せると、英田のふっくらした顔に、嬉しさと照れ臭さが入り混じった笑みが広がった。
後にケイは、何故自分は英田の誘いに応じたのか、その理由を考える事があった。
空腹だった。険悪な言い争いを見せられた後だが、元々英田に悪い印象はなかった。妹以外の誰かと交流したかった。自分と同じく恋人に浮気された英田に同情した。それぞれの最低な男に関する愚痴と悪口を言い合いたかった。
全て当てはまるが、しかしどれも決定打になったとは思えず、かといって単なる気紛れだと結論付けるのもいまいち納得がいかなかった。
そしてこうも思った──あの時、逃げるように部屋に戻ろうとした英田を呼び止めたのは、本当に自分自身の意思だったのだろうか。英田が自分をお茶に誘ったのは、本当に彼女自身の意思だったのだろうか……と。
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