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3   すれ違う心

・・・

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 仮病だけど、記憶喪失を患ってから、初めての夜が更けていく。 
 ベッドの上で膝を抱え、ぼんやりと窓の外を見上げて、小さなため息をもらす。 
 群青色の空には、雲間からバナナの形をした月が顔を覗かせていた。 
 決まった暦で、決まった顔を覗かせる月は、決まった場所で変わらぬ蜜色の細雨を放ち、闇夜に優しさをもたらしてくれる。 
 そんな月を眺めるのが好きだった。 
 だけど、今のオレには、そんなささやかな細雨さえ肌にしみる。 
(薫・・・) 
 心の中で何度も呼んでいる。 
 薫の部屋は、まだ暗いままだ。 
 ひとりでドライブに出かけたのか、まだ帰宅してない。 
 誰にも邪魔されない場所に行っているのだろうか? 
 オレにはその場所がどこにあるのか分からないが、きっとロマンティックで綺麗な場所なのだろうと想像できた。 
 夜景の見渡せる高台や波の音しか聞こえない砂浜かもしれない。この先、見ることのない、薫の秘密の場所を蜜色の微笑みを浮かべた月を見上げて思い巡らした。 
(薫・・・) 
 薄い弧を形作る月が、不意に薫の唇に見えてきた。 
『優を好きだよ』 
 幻聴としか思えない甘い囁きは、薫に抱かれながら耳にした。 
 馬鹿なとは思うものの、その囁きを思い出すと、薫に触れられた頬や胸。初めて触れあった唇が甘く疼いてくる。 
 オレは慌てて、唇を手で押さえた。 
(薫・・・) 
『好きだよ。本当はずっと好きだった』 
 汚辱されたオレの体の隅々まで、薫は丹念に手と唇で愛撫し、必死にオレを慰めてくれた。 
 初めは嫌がっていた接合だったけれど、オレの必死さに負けて、折れてくれた。 
 本当は不本意だったのかもしれない。 
 だけど、一度決心した薫は、オレの意識が途絶えるまでオレに付き合ってくれた。 
 体の奥で薫が脈打ち、粘膜が焼けるくらい擦り上げられ、オレはオレの中で初めて薫が達した瞬間を感じた。 
「ふぅ・・・(薫)・・・ぁっ」 
 オレ自身も今まで味わったことのない、オルガスムスに浸かった。 
 オレは薫がたどった愛撫を思い出し、パジャマのボタンをはずし、首筋から胸へと掌を這わした。 
 月から放たれた蜜色の細雨が、オレの素肌を甘い色に染めていく。 
(薫) 
 薫が何度も舐めしゃぶった胸の尖りは、指先で潰したり、引っ張ったりしてみた。 
「ぁっ・・・」 
 電流が胸から下半身に流れた。 
 オレは邪魔なパジャマのズボンを下着ごと脱ぎ、ベッドの下に落とした。 
 すでに半ばまで勃起している欲望は、蜜色の細雨のもとで、いやらしく先端に露を結んでいた。 
 本当はオレではなく薫を待ち望んでいるそれを、掌で握り夢中で慰めた。 
 投げ出した足が、ピンっと突っ張る。 
(薫) 
 感じる場所を感じるままに擦り、扱く、 
「くぅっ・・・はぁ・・・っ」 
 絶頂を目の前にしたとき、弧を描く月が目に飛び込んできた。 
『俺は優を滅茶苦茶にしてしまった』『後悔しているんだ』『どう償ったらいいんだ?』 
 薫の憔悴した顔や思いつめたような口調が次々に脳裏に浮かんだ。 
 確かにその瞬間まで感じていた。 
 だけど、急に張り詰めたものが萎れていく。 
「・・・」 
 とても虚しくて、酷く落ち込んでくる。 
 オレは薫にとってどんな存在だったのだろう? 
 壊れたロボットのように、萎れていく欲望を捧げ持ち、オレはじっと項垂れて動きを止めた。 
『顔を見るだけでも声を聞くだけでも苛々して滅茶苦茶にしたくなる』 
 明人兄に告げていた言葉は、薫の本心だと思えた。だったら、会うたびに『会いたかった』『待ってたよ』と言ってくれたことは、すべて嘘になる。そして『可愛いよ』『綺麗だよ』と甘く囁かれていたことも・・・嘘なんだ。 
『好きだよ』と囁かれたことも・・・。 
 嘘、嘘、嘘・・・全部嘘で塗り固められた関係なんだ。 
 空虚な心の中に、ポツンポツンと雨が降り出す。降り注ぐ蜜色の細雨を、厚く重い雨雲が消し去っていく。 
 生まれたばかりの月が、瞬時に暗黒に包まれた。 
 孤独だった。 
 四肢から背筋へ冷ややかな震えが走った。そしてそれは体からオレの心の中へ一気になだれ込み、一瞬で凍てついた。 
 オレは萎えた自分の欲望に触れることすらできなくなった。 
 自分の体が、ひどく汚らわしく感じていた。 
(―――また捨てられる。誰もオレを望んではくれない) 
 体がバラバラになりそうになって、膝を抱えた。顔を押し当てている膝頭が、じわりと濡れていく。 
(薫、オレ、本当にすべて忘れたい) 
「どうしたの?」 
 間近で声がすると、ベッドが沈み込んだ。 
「・・・・・・」 
 はっとして顔を上げると、そのまま抱き寄せられた。 
「やっ!」 
 全身で暴れるけれど、拘束は少しも弛まなかった。むしろきつく抱きしめられてしまう。 
 それでも、オレは薫の腕を拒んだ。 
 憎かった。 
 オレには薫しかいないのに、オレを捨てた薫が。 
「頼む。脱げないでくれ」 
 拒んで、逃げ出そうと、必死になった。 
「どんなに拒んだって、放してあげない」 
 優しい口調に含まれる断固として譲らない強い意思を感じて、オレは暴れるのだけはやめた。ただじっと体を強張らせ、緊張していた。 
「・・・・・・んだ?」 
 掠れて消え入りそうな声が、耳元で囁く。 
 聞き取れず、オレは少しだけ顔を上げ、薫の顔を見た。 
「俺と一緒にエッチの仕方も忘れちゃったんだね」 
 見られてた? 
 見られてなくても、この晒された体を見れば、最中でしたってわかったかもしれないけど。達する手前で消沈していく情けないところを目撃されたかと思うと、恥ずかしさと惨めさに消え入りたくなる、 
 オレは焦って、また逃げ出そうとした。だけど、薫の拘束は強く、逃げ出すことはできなかった。  
 薫の指先がオレの髪を掬い上げ、唇を寄せる。 
「してあげようか?」 
「・・・・・・」 
 背中を支えていた薫の掌が腰へとスライドしていき、拘束が緩んだ。 
 その隙に、オレはまた逃げ出そうとした。 
「逃げないで」 
 普通は逃げるだろう? 
 オレはなんとか体を捩り、薫の拘束を逃れたが、すぐに薫に掴まってしまった。 
「今更だけど、優には嫌われたくない」 
 どこまで本気かわからないが、切実に訴えられ、オレは唇を噛みしめた。 
 薫はオレを嫌って、避けていたくせに。勝手な言い草だと思った。 
 抵抗の止んだオレの体を、また腕の中に戻し、薫は自嘲気味に笑んだ。 
「本当はね、俺が優を欲しいんだ」 
「嘘だ・・・」 
 睨みあげると、薫は「ほら」と自分の昂ぶりをオレに押しやった。 
「やっ!」 
 体に電流が流れた。 
 冷えていた体に火が点る。体だけがオレの意思とは別に、勝手に薫に同意を示していく。
 唇が薫のキスを欲しがり、頬も首筋も胸も忘れないでと、その存在を示すように朱に染まっていく。そして今まですっかり萎れていた肉棒も嬉しそうに、頭を擡げている。 
 ふふっと薫が笑った。 
 羞恥で顔を伏せようとしたオレの顎を、薫は指先で掬い上げた。 
 キスされる? 
 ドキドキした。 
 近づいてくる薫の唇から目が離せない。 
 触れる。 
 あと僅かで唇と唇が触れあう。 
 吐息が唇に触れた。 
 ずっと欲しかった薫からのキスが、数秒後に訪れる。 
 体中が歓喜に満ちていく。なのに、『キスは駄目だ』と言った、薫の不機嫌な顔を思い出してしまう。 
「やっ・・・」 
 首を左右に振って、拒絶していた。 
「優・・・」 
 だけど、薫は嫌がるオレの顎をしっかり掴むと、くちゅっと唇に触れるだけのキスをした。 
 唇が慄いている。 
 甘い痺れが唇から体中へ、そして凍てついた心にまで伝わっていく。 
 薫に触れられて、体中が喜んでいた。 
「体は・・・」 
「・・・?」 
 薫は嬉しそうに微笑んでいた。 
「体は俺を覚えている」 
 薫の唇が額に頬に、顔中にキスの雨を降らす。 
「欲しい。させてくれないか?」 
 これほど、薫に求められたことがあっただろうか?  
 オレは月同様に甘すぎる蜜色の瞳に強請れて、頷いていた。 
 心と体が別の行動をとる。 
 ・・・この時ばかりは、心から薫を欲しいと思ったのかもしれない。 
 ベッドに横たえられ、薫にディープなキスをされた。優しくて甘くて、きっとこれは夢じゃないかと思えるほど。 
「可愛い・・・ほんとはずっとキスをしたかった」 
 薫は何度も何度も唇を合わせ、囁く。 
「我慢なんてするんじゃなかったって」 
 舌がオレを追いかける。絡めて吸って誘い出す。 
「優が欲しがったときに、いっぱいしてあげればよかったって」 
「んっ・・・ぁっ」 
 閉じた心に語りかけるように、囁きながら薫は求めてくれた。 
 変なクスリに支配されなくても、オレの体は薫に夢中になっていた。 
 指の先から髪の毛一本一本まで薫の愛撫を待ち望み、そして、些細な刺激も悦びに変えていた。 
「きれいだよ。とても綺麗だ」 
 滑らかな素肌を、薫の指がターンをして、オレの胸や腹、背筋を喜ばせる。 
「あっ・・・やっ・・・んっ・・・」 
 でも、どうしても心は冷めていた。  
 甘い痺れに揺さぶられ、唇は薫の名前を形作るのに、声帯が心の味方になっていた。 
「好きだよ」 
 もしかしたら、どこまでも優しい愛撫と、この『好き』という甘すぎる囁きが胡散臭くて、城壁を厚くさせていたのかもしれない。 
 心に疑念を抱え、薫と視線を合わせることなくクライマックスを迎えたオレは、薫と一緒に薫の手の中に蜜を溢れさせた。 
「優・・・」 
 呼吸が乱れ、喘いでいる姿を見られたくなくて、オレは薫に背を向けて、シーツに頬を埋めた。 
 薫の指先がオレの髪を梳く。 
 そんな些細な仕草に、オレの涙腺は壊れてしまった。 
 堰を切って涙が溢れだした。 
 声を出さずにシーツを濡らしていくオレを、薫は背後から抱きしめた。 
 言葉はなく、ただ、じっとオレの冷えた心を温めるように抱きしめていてくれた。 
 

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