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5-3 左近

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 総勢十五万に達する大軍、だった。
 それは各地で布陣している足利の軍勢を遠巻きに見て計ったおおよその数で、本当はもっと多いのかもしれない。そもそも今でも尊氏の元に軍勢は続々と集まり続けている。
 兵糧や船の準備が一段落して以降、影太郎の命令で現地の情報を集め続けているが、これが全て敵の軍勢だと考えると左近は眩暈がする思いだった。
 すでにそれを迎え撃つ宮方の軍勢とで、元旦開けから激しいぶつかり合いが始まっている。
 兵力は恐らく三分の一ほどだが、今の所、宮方の守備はどこも破綻はしていない。
 宇治の楠木正成は無論として、淀を守る新田義貞や瀬田を守る千種、名和、結城の軍勢も意外なほど整然とした守備の構えで足利方の攻撃を凌いでいた。
 足利の大軍が仇となって進軍に時間が掛かり、防御の準備を整える時間が十分に取れたためだろうが、それとは対照的に後方に控える朝廷の公家達の狼狽えぶりは見ていて目を覆いたくなるほどだった。
 そして京の民達は、戦火の気配に暮正月をまたいで冬の山野へと逃げ出している。
 日が暮れ、足利の軍勢は一旦退き、静けさを取り戻した宇治に左近はいた。
 ここを受け持つ畠山はたけやま高国たかくには数に物を言わせて昼の間、遮二無二攻めたが、河を巧みに利用した楠木正成に散々に翻弄されていた。河に浮かぶ死体はほとんどが畠山勢の物だ。
 どれだけ兵力で勝っていても、土地を味方に出来なければそれを活かせない、と言う事だろう。左近には信じがたい事だったが、正成は少ない手勢をさらに瀬田の援軍へと割く事までしていた。
 そのまま数日、両軍は押し合いを続けた。正成の奮戦に引きずられるようにして他の宮方の諸将もそれぞれの持ち場を守り続けている。
 このまま守り続けていれば、それで奥州軍が足利の後背を突く形になって勝てるかもしれない。
 左近はそう思っていたが、十日になって山崎に赤松円心と細川ほそかわ定禅じょうぜんが出て来ると、そこを固めていた新田義貞の弟である脇屋わきや善助よしすけを難なく破り、京へと攻め込んで来た。それで淀や瀬田を守る宮方は背後を突かれる形になり、楠木勢と結城勢以外は総崩れになった。
 大敗だった。ただ、帝は神器と共に叡山へと落ち延びたようだ。それに合わせて踏みとどまっていた結城親光の軍勢も半ば敗走するように瀬田を明け渡し、最後に楠木正成が泰然と後退していった。
 その日の夜に、影太郎がやってきた。

「奥州軍はすでに尾張に入った。三日の内には琵琶湖に達する。これを京都周辺の宮方に振れて廻れ」

「早過ぎませんか」

 唖然としながら左近は問い返した。忍びが替え馬を使って駆けて来たのではない。ほとんどが徒歩の数万の軍勢が陸奥から駆けて来たのだ。

「それより、結城親光殿はどうされた?」

 左近の問いは無視し、影太郎が訊ねてきた。どこか表情に余裕がない。

「敗走する軍をどうにかまとめ、主上と一緒に叡山に落ちられる途中で、暇を乞われて一人消えられたそうです」

 叡山に逃げる途中の女官から聞いた話だったが、左近はそれ以上気にはしていなかった。結城親光は結城宗広の次男で、本人は帝の近侍だが、そう言った武士でも土壇場で逃げたり裏切ったりする事があるのだろう、と思っただけだ。

「そうか。間に合わなかったか」

「どうかしましたか?」

「いや、いい。それよりも命じた事を頼む。少しでも京周辺の味方を踏み止まらせたい」

「はい」

 翌日、一度敗走した味方の陣の間を駆け巡っている最中に、結城親光が死んだ、と言う話が聞こえてきた。偽って降り、大友おおとも貞載さだとしと言う武士に斬り付けて重傷を負わせて、そのまま囲まれて斬り死にしたと言う。
 もう一日待っていれば奥州軍の到着を報せて無駄死にを思い留まらせられた物を、と左近は思ったが、宮方の間ではその死に様が称えられ、奥州軍の報せと相まって士気を上げているようだった。
 親光が消えた真意を察せられず、そしてその最後を無駄死にと思った自分を左近は束の間恥じた。
 夜になって、ちあめが姿を現した。京に来てからは何か思う所があったのか、ずっと左近と離れて動いていた。主な仕事だった船や兵糧の準備ではちあめには何も期待できないので、左近も好きにさせていたのだ。

「どうしたんだ、ちあめ」

 ちあめは一度左近の手をつかみそれを引くと、そのまま背を向けて歩いていく。ついてこい、と言う事だろう。
 ちあめが案内したのは、夜の闇に紛れて叡山へと落ち延びる最中らしい一団だった。車も輿も使わず、中心にいる女官と思しき人間を数名が守るようにして歩いている。守ると言っても隙の無い護衛には程遠く、全員が如何にも弱々しい足取りで歩いている。
 見覚えの無い顔だった。それなりの身分のようだが、さすがに大勢いる女官の顔まで把握はしていない。
 ちあめは何故か異常なほど慎重にその一団に向けて歩を進めて行く。意図はまわるで分からなかったが、左近も出来得る限り気配を隠してそれに続いていった。
 三十歩ほどの距離でちあめは立ち止まると、背後からその一団に向けていきなり手裏剣を打った。止める暇もない。
 投じた手裏剣は一団の一人が持っている杖に突き立った。最初からそこを狙ったのだろう。
 同時に、一団がまるで別の物になった。まるで衣を裏返すかのように全体の隙と弱々しさが消え、一瞬で女官を中心にしっかりとした円陣を組む。女官も全く無駄のない動作で短刀を抜き放っていた。忍びのような動作だ。
 動揺どころか、無駄な誰何の声一つ上げず、合図らしい合図すら無いままに無言で周囲の気配を探っている。もうわずかな距離でも近付いていれば、闇の中でも自分達を見付けただろう。
 ちあめはそれ以上は何もせず、隠れたまますぐその場を離れ始めた。左近もそれに続く。向こうは止まったまま警戒を続けているようで、追ってくる気配はない。

「何だったんだ、あの一団は」

 ある程度距離を取った所で左近はちあめに尋ねた。ちあめは黙って地面に指で円と、その中央に横向きに走る太い線を書く。一つ引き引両紋。新田の家紋だった。

「新田家?ひょっとして勾当内侍こうとうのないしかい?」

 勾当内侍は後醍醐帝から恩賞として新田義貞に与えられた女官だった。その美貌と新田義貞の溺愛ぶりは有名で、たまに名前が聞こえてくる。
 ちあめはもうそれ以上は左近の問いにも反応を見せなかった。見せるべき物を見せ、伝えるべき事は全て伝えた、と言う事か。
 新田義貞の寵姫である勾当内侍とその周囲にいる者には影の部分がある。それは勾当内侍を義貞に与えた後醍醐帝の影と繋がっているのだろう。
 その事にどんな意味があるのか、左近は一瞬考えたが、すぐに思い直した。まずは見た事を影太郎に報告する事だ。
 十三日には奥州軍は近江愛知川に到着し、琵琶湖を渡り始めた。その間に奥州軍到着の報が伝わったのか、戦勝に沸いていた足利の陣にも緊張が高まっている。占領したばかりの京を、慌てて固めている。
 陸奥守は兵に先行し、東坂本の行在所に親房や六の宮と共に向かっていた。
 本当に陸奥から間に合ったのだ、と左近は思った。
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