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第二章
第七話 変化
しおりを挟む殴れ、と言ったのは亮だ。胸倉を掴まれればあとは当然、殴られるだろう。覚悟を決めて、歯を食いしばる。
なにせ月龍の腕力だ。下手な殴られ方をしては、歯の一、二本は軽く折れるだろう。
頬に風を感じて、目も固く閉じる。
さすがに恐怖心は拭えなかった。かなりの痛みを覚悟する。
けれど、衝撃はほぼなかった。ぺたりと頬に触れたのは、月龍の拳ではなく平手――それも、痛みはまるでなかった。
亮が目を開くのと、月龍が胸倉を掴んでいた手を放すのは、ほぼ同時だった。
「さすがに殿下を殴れるほど、高貴な拳は持ち合わせていない」
ふざけた物言いは、軽く浮かんだ笑みから発せられたものだった。
感想は、意外の一語に尽きる。
月龍はさほど、度量の大きな男ではない。たとえ怒りは飲み込んでも、不本意な表情を見せるだろうと思っていた。
顔を見れば、痩せ我慢ではないとわかる。余裕を刻んだ瞳を見返して、ぽつりと呟いた。
「驚いた。月龍、お前いつから、それほど寛容になった」
掛け値なしの本音とはいえ、失礼な発言のはずだった。けれど気にした風もなく、月龍は稀に見る穏やかさで笑っている。
思わず、感嘆のため息が洩れた。
「おれが女なら、今ので惚れたな」
「そうか。それは残念なことだ」
亮の軽口に、同じくふざけた口調が返ってくる。以前の月龍であれば、なにを気持ちの悪いことをと憤然とするところだろう。
月龍は変わった。
蓮の存在が、とがっていた部分を削ったのかもしれない。物事すべてを真正面から受けては、一々腸を煮えくり返らせていた月龍にとっては、進歩であろう。
けれど、処世術に長けた月龍など、らしくない。
立場上必要なはずの、受け流すための器用さを手に入れつつある月龍に不安を覚えるのは、筋違いであろうか。
自らの不毛さに気付いて苦く笑い、話題を変える。
「――ちょうどいい。異国の珍しい酒が手に入ってな。美味いぞ。久しぶりに飲んでいくか」
月龍と蓮が付き合うようになってからは、一緒に飲む機会はなくなった。
月龍が変わらざるを得ない事情とやらがあったのなら、聞いてやりたいと思う。
そしてできれば、愚直なままでいてほしい。
月龍や蓮を守るための処世術なら、亮が身につける。二人には周囲の偏見も政も気にせず、ただ互いの幸せのみを見つめてほしい。
そのための努力ならば、惜しむつもりはなかった。
「いや、今日は遠慮する」
断られることなど想定していなかっただけに、辞退の言葉には驚いた。瞠った目で心情を読んだか、月龍の顔に渋い笑みが滲む。
「これから義父上の見舞いに行く」
「ああ」
なるほど、と口中で呟く。
おかしいとは思ったのだ。蓮と亮のことを気にしすぎて訪ねることすらできないのが、最も月龍らしい。
けれど、宮中に居をかまえる義父の元に行かなければならなくなって、状況が変わった。どうせ近くに行くのならばいっそと、問いただす覚悟を決めて、亮の部屋に寄ったのだろう。
「邵殿の病状はどうだ?」
「芳しくない。あまり長くはないかもしれないな」
淡々とした物言いに、義父をよく思っていない月龍らしさを見た。何処とはなしに淡い違和感を覚えていただけに、少し安堵する。
では、といつものように軽く手を挙げた挨拶出て行く月龍を、亮も肩を竦めて応え、見送った。
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