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第二章
第九話 嫉妬
しおりを挟むどれくらい経っただろうか。意識を失っていたからはっきりとはわからないが、まだ重い体には、薬が感じられる。
ひやりとした物が、額に触れた。
常態であれば飛び起きただろう。けれど咄嗟に動けず、ただ指先が震えただけだった。
「どうぞ、そのままで」
両の頬をやんわりと押さえた手、それ以上に、耳元で聞こえた声に驚きを隠せなかった。
「公主」
帰ったのではなかったか。
疑問は口に出せなかった。月龍の顔を覗きこむ姿勢だった蓮と、視線が絡み合う。
思わず逸らした目に、栗色の髪が映った。ふわりと花の香りがする。
「ごめんなさい、起こしてしまって。でも、心配だったものだから」
月龍が動いたことでずれたのだろう。再び額に戻されて、その冷たい物が濡れた布だと気付いた。
「――それで、どのようなご用件で訪ねて来られたのか」
用事が終わらぬ限り、帰らぬつもりかもしれない。月龍が来なかった理由を知りたいのだろう。
避けたいと思っていたのに、蓮と直接、昨日のことを話すことになった状況に、苛立ちを隠せなかった。
「いつも亮様のところでお会いしているのに、来て下さらなかったから……なにかあったのかもしれないから、様子を見に行ってやってはどうかと、亮さまに言われて」
用がなければ来るな、とでも言いたげな物言いにも怒った様子は見えない。
失礼な語調を優しく受け止めてくれたことに、感謝すべきなのだろう。わかっていはいても、胃の辺りが熱くなる。
また、亮か。
喉元まで出てきた言葉を、辛うじて飲み込む。
「来てよかった。知らなくては、看病もできないところでした」
そっと頬を撫でてくる蓮の手が、冷たい。
月龍が表に出るまで、外で待っていたせいだろうか。額を冷やすための布を水に浸したからか。
いずれも月龍のための行為だった。気にかけてくれているのは間違いない。
「ごめんなさい、気づけなくて。昨日は大変だったでしょう。でも、今宵は私がついていますから。なにかあれば、遠慮なく仰ってくださいね」
蓮の優しさは知っている。もし体調を崩したのが亮でも、同じことをするだろう。
否、従者が相手でも、対応は変わらないはずだ。
――月龍だけが、特別なのではない。
素直に気遣いを喜べなかった理由は、それだけではなかった。蓮に帰る気がないのは、一目瞭然である。
「それはいけない。従者と帰るべきだ」
「でも、もう先に帰って頂きました」
蓮は、見かけによらず豪胆だった。
真偽は定かではないがと、亮から武勇伝とやらを聞かされたことがある。
もう十年近くも前、後宮の女達が相次いで惨殺される事件が起こった。ナニモノかに喰われたような無残な遺体は、妖の仕業と噂されるには充分な理由だった。
その頃、ふらりと蓮が姿を消したという。
三、四日後、いなくなったときと同様、突如戻ってきた蓮は、別の妖に頼んで、後宮を襲っていた妖を退治してもらったから、もう殺人はなくなると言ったらしい。
事実、事件はぱったりと止んだ。
鵜呑みにしたわけではないがと前置きして、戻って来た蓮の衣服に獣の毛がついていたのだと亮は言った。明らかに大きな動物のものだった、と。
妖の存在を、亮も月龍も信じていない。
けれど認めないわけにはいかなかった。まだ五、六歳の子どもであった蓮が、毛がつく程の距離で獣と接触、あるいは獣がうろつく場所で、数日を無事に過ごしたことを。
言われてみれば、納得もできる。初めて出会った時も、蓮は郊外の花畑に一人だった。高貴な子女のすることではない。
型破りな蓮のことだから、外泊にもさして抵抗はないのかもしれない。獣の出る荒野に比べれば、月龍の邸に危険はないと判断したのだろう。
邸に、使用人の一人も置いておかなかったことを悔やむ。蓮を送るよう命じることもできるし、なにより蓮も、心配だから看病のために泊まるなどとは言い出さなかったはずだ。
抑え切れぬ焦燥感に、口調を整えることも忘れる。
「ならばおれが送る」
「いけません。私は看病のために残りたいと申しました。送って頂いては、かえってご迷惑をおかけすることになります」
ならば素直に帰ってくれ。誰のせいで塞ぎこんでいると思っているのか。
亮が相手なら、そう吐き捨てることもできる。
けれど、蓮に対してはできない。
「しかし、趙公の心証が悪くなる」
月龍のためなのだとわかれば、おとなしく帰ってくれる。理由として上げた趙靖の名は、最適のはずだ。
蓮の兄、靖はいかにも武将然とした美丈夫だった。細身ではあるが、凛とした空気をまとっている。
決して気難しい人柄ではないと、亮は言う。蓮の兄なのだぞ、その一言がすべて物語っていよう、と。
だが、どうしても気安さなどは感じられない。
以前に一度だけ、間近で見たことがある。宮中の廊下ですれ違ったのだ。
慌てて道を譲り、迷う。蓮のことで、挨拶くらいはするべきだろうか。
けれど衛尉と公爵では、身分が違いすぎて声などかけられたものではない。
迷いのため硬直した月龍に向けられた靖の目は、冷たかった。
下賎な子どもと罵倒した大人達と、同種のもの。
靖には、正当な理由がある。可愛い妹が、身元もよくわからない男の手に落ちれば、さぞ憎らしいに違いない。
元より嫌われているというのに、さらに怒らせるわけにはいかなかった。
「不思議」
名残惜しげに了承するかと思われた蓮は、くすくすとおかしそうに笑い出す。
「昨日、とても別人とは思えないくらい、あなたによく似た人にお会いしましたの」
穏やかな笑みが、神経を逆撫でした。
別人とは思えないと蓮は言う。それほど似た人間などそういるはずもなく、どうせ体格や雰囲気が似ていた程度だろう。
それをよく似ているなどと言うのは、蓮にとって月龍が、特別ではないことを証明していた。
「その方も、今のあなたと同じことを仰ったの。趙公の心証が悪くなる、と。似ているのは容貌だけではなかったのだと思うと、つい」
蓮は誰にでも優しい。その男にも好意的に接したことは、容易に想像できた。
見知らぬ男に微笑みかける蓮の姿を思い浮かべるだけで、胃がきりきりと痛む。
「でも、そのご心配なら要りません。本当はよくないことですけど、亮さまの所に泊まっていることになっていますから」
従者にそう伝えさせたのか。
嘘をついてまで看病しようと、月龍の身を案じてくれていることを喜ぶより、その言い訳が成り立つことが腹立たしい。
今までに何度も、亮と夜を共にしたことの裏返しに他ならないのだから。
「それに、いざとなったらそうしていいと、亮さまも仰ってくださいましたし」
亮の指図なのか。
考えてみれば、見舞ってくれたのも亮に言われたから、だった。自ら訪ねてくれたわけでも、残ろうとしたのでもない。
そもそも、付き合い始めたのも亮の意に沿うためだったのではないか。
だとしたら、蓮の心にいるのは月龍ではない。
「――また亮か」
先程は飲み込んだ台詞を、今度は我慢できなかった。
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