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第三章
第六話 逃避
しおりを挟むつまらないことをした。蓮を振り切って逃げた後、邸に戻って頭を抱える。
亮が言う通り、すぐにでも蓮と話をするべきだ。
わかっているし、そのつもりであったのに、蓮の顔を見ると何故か、逃げることしか考えられなかった。
否、蓮の顔を直視することもできなかった。
鍛錬の最中に視線を感じ、振り向いた先に蓮がいた。蓮だと認識した瞬間に目をそらしたのは、怖かったからだ。
蓮の表情は、強張っているかもしれない。瞳に憎悪を宿して、睨んでいるかもしれない――それを確かめたくなかった。
鍛錬が終わってからも、やはり向き合うことができなかった。蓮が待ってくれていることは知っていたのに、顔を見る勇気がなくて逃げた。
背後から迫る蓮の足音は、月龍の恐怖心を煽る。恐怖に追い立てられて、逃げ出したのだ。
蓮が転んだのには、気がついた。足を止め、振り返りそうになったのをぐっと我慢する。
振り向いてしまえば、蓮の存在に気づかなかったと後で言い訳できなくなるからだ。
自分勝手だと思う。まして、逃げてもなんの解決にもならないことはわかっていた。
けれど少し、時間が欲しい。もう少し間を開ければ、蓮の顔を見ることができるのではないか。
きっと落ち着いて話すことも、謝ることもできる。
その間を、蓮がどのような想いで過ごすのかということに思い至らないのが、月龍たる所以であろうか。
薬に手を伸ばしかけて、頭を振る。さすがに記憶障害が起きたかもしれぬと知った上で、服用する気にはなれなかった。
ただ、素面でもいられぬ。結局、手っ取り早く酔いをもたらしてくれるもの、酒の力に頼った。
このようなときは、酒に強い己の体質が恨めしい。いっそ弱ければ早く酔い潰れて眠れるだろう。
そうでなくとも前後不覚になるなり気が大きくなるなり、厭なことを忘れられる。
声が聞こえたのは、幾度杯を空にした頃だろうか。声の主は――亮の従者。
既知感が浮かび上がる。他でもない、蓮と拗れた日のことだ。
また蓮がいるのではないか。
――否、いるのだろう。確信があった。
顔を合わせたくない。出て行きたくは、ない。
けれど月龍の邸は大きくはなく、表からも様子は窺える。室からもれる明かりを見れば、在宅は知れてしまう。
その上で居留守を使うのは――言い訳が立たなくなる逃げ方は、できない。
気は重いが、足取りは以前ほど重くはなかった。すると、門まではさほど時間はかからない。覚悟を決める間もなく、門扉を開く羽目になった。
「月龍!」
聞こえた蓮の声に、憎しみはない。安堵の色さえ感じられた。――月龍の願望がさせた錯覚でなければ。
「これは――公主。なにか御用ですか」
これはもなにもない。最初からわかっていたのだ。なにか用かなどとは白々しいにもほどがある。
用向きは、痛いほど知っているのに。
「会いたかったから、では理由になりませんか?」
理由にはなる。ただ、会ってどうしようと言うのか。
罵倒するのか、恨み言を並べ立てるか――いずれ、今までのように穏やかな時間を過ごせるとは思えなかった。
「あの、私、あなたにお話があって――」
「申し訳ないが、来客中です」
話とはなにか。別れ話ならば聞きたくない。
先延ばしにするだけでもいい、少しでも長く蓮の恋人という立場でいたいと、浅ましくも思った。だから、本来は得意ではないはずの嘘もするりと口をついて出る。
来客などと馬鹿馬鹿しい。邸に呼ぶほど親しい人間など、亮、蓮の他に誰がいると言うのか。
亮は軽々しく外出などできる立場ではなく、蓮は目の前にいる。
「それで、一緒にお酒を召し上がって?」
呼気に酒の匂いでも感じたのか。蓮の問いに、何故か酷く恥ずかしいことに気づかれたように感じて、口元を覆う。
酒を飲んでいたからではなく、酒に逃げたことを見透かされた気がしたのだ。
「だから――私が声をかけたときも、急いでいらしたから立ち止まっては下さらなかったの?」
そうだと頷くことはできなかった。それでも一言、急いでいるからまたと言えばすむ話、そう責められる。
「声を? それは申し訳ない。気づかなかった」
あらかじめ用意していた台詞を言い捨てる。我ながら見え透いていた。蓮に目を落とすこともできない。蓮が真っ直ぐに見つめてくる視線を感じるほど、余計にそちらを見ることができなかった。
横に流した目線の先には、亮の従者が在らぬところを向いて立っている。傍を離れる訳にはいかぬ、かといって貴人の会話――それも痴話――を興味津々と聞くわけにもいかぬ。
耳に入ってはいても聞かぬ振りをしなければならないのだから、ご苦労なことだ。
ぎゅっ、と胸元に重みを感じた。蓮が、月龍の衣服に縋ったのか。反射的に視点を落として――
蓮の大きな瞳がやけに輝いて見えるのは、涙のせいか。
瞬間、背中を冷たい物が駆け上る。
「月龍、私」
「申し訳ないが、中で客人を待たせてあるので失礼する」
蓮の言葉が終わるまでなど、待てなかった。縋りついてきた手を払い、踵を返す。
莫迦なことをした。
すでに後悔に襲われる。今すぐに振り返って駆け寄り、非礼を詫びるべきだ。
そして昨夜のことも謝罪する。それで決着は着くはずだ。
――蓮の笑顔か、蔑みの目か。
二つに一つ。けれど確率は五分ではない。恐らく結果は後者だ。月龍にはそうとしか思えない。
だとしたらできることは、逃げの一手だけだ。
この阿呆、お前は一生逃げ続けるつもりか。胸の内で聞こえたのは自分の声ではなく、亮のものだった。
実際、月龍の態度を知ればきっとそう言うだろう。
――そう考えることが、すでに現実からの逃避に他ならない。
分析する冷めた自分を頭の片隅に感じながら、本能的な恐れに突き動かされて、門扉を閉じた。
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