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第八章
第九話 花弁
しおりを挟む「おかえりなさいませ」
出迎えてくれるのは、いつも通り蓮の笑顔だった。対して、笑い返す月龍の顔はいつにも増してぎこちない。せっかく会えたというのに、蓮の目を直視することができなかった。
蓮ならばおそらく、紫玉との間にあったことを知っても取り乱すことはあるまい。それでも知られないに越したことはなく、隠したいと思うのが心理だった。
「今日はゆっくりとしたお戻りでしたね」
責める口調ではない。単純な質問に、身が竦む。
当然の質問ではあった。帰り辛さに宮中を無駄に歩き回ることはあっても、今日の帰りは比ではないほど遅かった。
要職にある身だから、仕事で遅くなることはある。だがそのようなときには、わかり次第連絡をしてきた。伝令も使わずこれほど遅くなったのは初めてである。
「上官に急に呼び出されて――連絡もできず、悪かった」
「いいえ。お疲れさまでした」
愛想のない声で、目をそらしながら口にする。自分でも嘘くさい言い訳を、しかし蓮は疑わず、労いの言葉までくれた。
月龍を妄信しているのではない。反論をして怒らせるのを忌避したかったのか、無関心の表れなのだろうとは思うが、このときばかりはありがたかった。
「すぐ、食事の用意をします」
言いながら、蓮が月龍の上着に手をかける。
普段通りだった。帰りを待って、月龍の身の回りの世話をしてくれる。食事の用意だけではなく着替えにも手を貸すし、時間が許せば沐の手伝いすらしてくれた。
妻のようにというよりは、まるで下女だ。
月龍に関わっていたいのではなく、少しでも役に立たなければならないと思っているのだろう。身支度くらい一人でできると断ったときの悲しげな顔を見て以来、なにも言えなくなってしまったが。
「――あら」
月龍の上着を脱がし、手にした蓮がふと、声を上げる。
「どうかしたか」
手を止め、声にも驚きが含まれていて気にならないはずもない。後ろに居た蓮を振り返る。
「――いえ、なんでもありません」
月龍を見上げたあと、すぐに視線を落とす。控えめなその仕草に、より不安になった。
「蓮」
向き直り、彼女の両肩に手を乗せる。身を屈めて顔を覗きこみ、まっすぐに目を見つめた。
美しい、まるで琥珀のような瞳。この目を、もう涙で曇らせたくはない。
「遠慮はいらない。小さなことでもいい。なにかあるのならば、話してくれ。――もう、君を悲しませたくはない」
心の底からの本音だった。怖がられるのも、嫌われるのも避けなければならなかった。蓮を失うわけにはいかない。
蓮がふっと、目を上げる。けれど目は合わなかった。月龍を見上げているのに、蓮の視線はどこか、顔からそれているように思えて――
「――花弁が」
すっと、月龍の襟元に蓮の手が伸びる。自身の胸元に戻ったとき、彼女の指先には薄紅色の花弁がつままれていた。
――桃の花。
なるほど、宮中の中庭へと入ったとき着物についたのか。納得と同時、安堵する。それならば、いくらでも言い逃れができた。
「中庭近くを通ったときについたのだろう」
出会った女のことが、浮かばないわけではなかった。けれど月龍にとっては、些末事にすぎない。蓮に知られたくはないが、ただの遊びだった。
蓮を思う気持ちは、なんら変わっていない。それで充分だろう。
「君はあの花が好きだったな。明日にでも亮に許可をもらって、枝を一つ二つ持ち帰ってくる」
「――いえ、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」
拒絶されたのかと身が竦むよりも早く、蓮がわずかに微笑んだ。
「姉さまに呼ばれていて――明日、ついでに眺めて参ります」
自分で見るからわざわざ手折る必要はないということか。思うも、「姉さまに呼ばれた」の言葉に、不安になる。
嬋玉と蓮は仲がいい。以前は頻繁に訪ねていたのに急に来なくなったのだから、嬋玉が呼び出すというのもあり得るだろう。仕方のないことだった。
だが嬋玉は、勘が鋭い。今までと違う蓮の様子に気づくことは、充分に考えられた。そうして蓮が、月龍に抱く疑心を聞き出すかもしれない。
嬋玉は月龍のことも知っている。うまく蓮を宥めてくれる可能性もあるが、やはり月龍では駄目だ別れろと助言するかもしれない。
そうなれば蓮は、嬋玉の助言に従うのではないか。彼女が嬋玉と月龍、どちらを信用するかなど考えるまでもないのだから。
「そうか。では嬋玉殿によろしく伝えてほしい。――だが、あまり長居はしてほしくない」
軽く笑みを刻む月龍に、蓮は訝しげな顔をする。
「――明日は、今日の分を取り戻すよう早く帰ってくるつもりだ。そのとき君がいなくては、寂しい」
ふんわりと抱きしめる。以前ならば到底口にできる台詞ではなかったが、今では平気な顔で吐けるようになった。
「わかりました。ではできるだけ早く、戻ります」
そっと抱き返してくれる手に、理由もないのに締めつけられるように感じた胸の痛みが、不思議だった。
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