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第八章
第十話 不義
しおりを挟む宮中の回廊を歩きながら、蓮は不意に足を止めた。
鼻孔をくすぐる桃の香――昨日、月龍の衣服についていた花。
まだ日は高く、光を浴びた桃の花たちは、輝くような美しさだった。
ふと、ため息を吐く。感嘆のためではなく、寂しさのために。
本当はもっと、嬋玉と語りたかった。月龍のことをよく知っているはずの嬋玉に、相談をしてみたかった。なにか、建設的な助言をもらえる可能性を、期待したのだ。
――否、本音を言えばただ、抱きしめてほしかったのかもしれない。嬋玉の優しさと温かさに触れられたら、それだけで心が休まっただろう。
けれど、月龍に釘を刺されてしまった。寂しいだとか言っていたけれど、本当は月龍のことを話されたくなかったのだろう。
幼い頃から知っているからこそ、自分の悪事を知られたくない。――裏を返せば月龍自身、蓮への対応が良くないと自覚している証だった。
型通りの挨拶だけで帰ろうとする蓮を、嬋玉は当然訝しんだ。月龍が言った「寂しいから」との理由を告げたら、「あの子は相変わらず甘えん坊なのね」と笑っていた。とりもなおさず、嬋玉には信じられる内容だったということだ。
けれど蓮には、疑問が残る。月龍は自分の言葉を信じろと言うけれど、その言葉が二転三転するのだからなにを信じればいいのかわからない。
「公主、お久しぶりです」
声をかけられて、ふっと顔を上げた。近頃は気づくと、俯いている。知り合いがいても気付かぬことが、以前よりもずっと多い。
「――紫玉さま」
上げた目に映ったのは、きつい面立ちの美女。驚きに目を開くも一瞬、蓮はすぐに会釈する。
「ええ。本当に。ご無沙汰いたしました」
身分でいえば、比べるのもおかしいほど蓮の方が高い。もっとも、自分が特権階級の人間である自覚に乏しい蓮は、誰が相手であっても丁重さを崩さなかった。
その様子がむしろ気に入らないのだろうか。紫玉がわずかに眉を顰めた。
「――でも、存じませんでしたわ。邵様とはいつ、お別れになりましたの?」
不快を眉に乗せ、けれど口元には不敵な笑みが滲んでいる。
質問に、蓮は首を傾げた。
「いいえ、私は今もあの方のところにおりますが」
「そのようなはずがありません。でなければ邵様が私をお誘いになるはずがないでしょう?」
目を細めた妖艶な表情だった。おそらくはあらかじめ用意されていたであろう言葉は、よどみなく発せられる。
いくら蓮が世事に疎くとも、意味がわからないはずがなかった。瞬時にして身が竦む。
――月龍に言われたことがあった。月龍と蓮の仲を、快く思わない人間はいる。二人を別れさせるために根も葉もないことを吹きこまれる可能性があるから、他者の言を信用してはいけないと。
紫玉がその類であることは、蓮にもわかっていた。態度を見れば、彼女が以前月龍と関係があったことは容易に想像もできる。
ならば蓮の存在は面白くないだろう。仲を引き裂きたく思う心理も理解できた。なにを言われても、聞き流せばいいのだと思っていた。
けれど、紫玉の言葉に昨日の記憶が蘇った。
いつになく帰りが遅かっただけではない。上着を脱がせるときに、いつもと違う香りがした。
蓮に向き直り、真摯さを装って語りかけてくる月龍の、耳裏に近い首筋に、朱の印があるようにも見えた。
気のせいかと思っていた。そうであってほしいと。
それでも気づかずにはいられない。昨日月龍から漂ってきたのは、目前の紫玉が発するのと同じ香りだった。
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