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箱庭の金木犀
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八番街の上空に佇む函庭『無銘』を任されてから二年程が経った。
窓の外には、この函庭を彩る唯一の花である金木犀が咲き誇り、夏の終わりを告げていた。相も変わらず来訪者も無く、ただ私が鋼を鍛える音だけが庭に響き渡る。それがこの『無銘』という函庭…私が勝手に金木犀の函庭と呼んでいる場所の日常だった。
函守として、このまま何事も無く無銘で一生を終えるのだろうか。
額に滲む汗を拭いながら、そんな事を延々と考えている私は、退屈しているのだろうか。
「鋼蟲、おいで」
扉の影からもそもそと黒い塊が這いだしてくる。前任者の置き土産らしいが詳細は分からない。
先ほど完成させた刀を床に置くと、いそいそと刀に近寄って齧り始めた。
食事の時間だ。
「美味しい?」
きゅーというなんとも愛らしい鳴き声をあげて鋼蟲が応える。手を伸ばし、鋼蟲の背を撫でる。もふもふとした感触が心地よい。
鋼蟲の背に触れる事が、私の数少ない楽しみの一つだった。
突然、ドンという衝撃と共に鐘が鳴った。戸棚の上からパラパラと塵が舞う。掃除が面倒じゃないか、と一瞬考えたが、正直それどころではないので一旦考えないようにする。
来訪者だ。
「八番街庭『無銘』函守、只今参上致しました」
「火夜、誓いは覚えているな?」
火夜というのが私の名前だと思い出すのに数秒の時を要した。人から名を呼ばれなくなってから長いので、仕方のない事だとは思う。
「…函から離れるべからず、函を傷つけるべからず、函に害を為す者あらば刺し違えても阻止するべし…です」
「その三番目の誓いを果たす時が来る」
「……戦…ですか」
「既に三番、五番、六番は墜落した。他が墜ちるのも時間の問題だろう」
「それを、何故、私…いえ、八番に? 戦力ならば九番の方が優れている筈」
「私はこの話を八番街庭に持ち込んだのではない。君に、個人的に持ち込んだのだ」
「私はもう戦場に立たないと言ったはずです。大体、他の庭が敵わない相手に私が個人で太刀打ちできる訳無いでしょう」
「謙遜をするな、四年前の大立ち回りは聞いている。君の力が必要なのだ」
「四年前…一番街の地獄ですか…あなた方上層部は、アレを英雄鐔とでもお思いなのですかね…確かに一番街の奪還には成功しました。しかし、あまりにも被害が甚大すぎた、特に、心に深い傷を追ってしまった函守のなんと多いことか…まぁその話は置いておきましょう、とにかく、その話、丁重にお断りします。もし私の函被害が及ぶような事があれば、私の縄張り内だけで力を振るう事にします」
「…そうくるとは思っていたよ。仕方ない、少々乱暴になるが許してくれ」
油断していた。上層部は愚かだとは思っていたが、ここまで短絡適だとは思わなかった。
勿論帯刀していればサシで勝てない相手なんてそんなに多くはないが、丸腰なら別である。今年で十七になろうかという子供が単純な力勝負で大人に勝てる訳がないのだ。
「………主に仇為す者…何者か…」
「…誰だ貴様は」
本当に誰だ。あまりにも突然すぎる。だいたい、無銘にいる函守は私だけではなかったのか、いや、私は二年間も他の誰かと暮らしていたとでもいうのか、いるならいるで言ってくれないと…湯浴みとか…服着ないで歩き回ったりとか…見られたかもしれない…などというあまりにも場違いな衝撃を受けている私は馬鹿なのだろうか。
「………名…吟弧…否、鋼蟲…!」
「……鋼蟲…? おまえ、鋼蟲なのかっ?」
こくりと頷いた。
混乱が更に深くなる。鋼蟲? あの小さくてもふもふとした…あの鋼蟲? いやいやどう見ても人じゃないか、私の愛らしいもふもふは見る影も無い…いや、強いて言うなら髪の毛がもふもふしてそうだ、触ってみたい…って違う違う。もし彼が鋼蟲だとするならば、これはチャンスだ。
「鋼蟲、この人は、私達にとってよくない事をしようとしてる。工房に行って私の刀取ってきてもらえる? 場所、分かる?」
鋼蟲が首をふるふると横に振る。まぁ隠しているから場所を知らないのも無理はないか…と思っていると、鋼蟲が口を開いた。
「…主、鋼蟲、遣ってくれ」
鋼蟲が私の手を握った直後、一瞬ぽふんと煙が上がって鋼蟲の姿が無くなっていた。代わりに私の手には一振りの刀、よく見ると鋼蟲の印が記されていた。
「…うん、いいね、思い出してきた。さて、どうする? 来るなら相手したげる」
「貴様…誰に向かって口を聞いてると…」
「黙れ、ここは無銘…私の庭だ。去れ、来訪者よ」
「…ここを戦場にしてやろう」
「迎え撃ってやろうか?」
その後どうやって追い返したのか、詳しいことは覚えてない。とにかく重要なのは、八番庭が戦場になりかねないという事実…ではなく、目の前で刀を齧る青年の髪の毛に触れたいという誘惑に耐えきれそうにない事だ。
「……触る?」
「いや、待って、これでも四年前までは気高い子で通ってたんだから、そんな、節操も無く髪の毛もふもふするなんてそんな…」
「………」
突如、ドンと大きく音が鳴って、同時に身を震わす衝撃が私を襲った。
来訪者…ではなく、攻撃されているのだ。前任者が仕掛けていた障壁によって大きな被害は出ていないだろうが、それも時間の問題だろう。
「さて、行こうか鋼蟲」
手を伸ばし、彼の手を握る。途中で解けないようにしっかりと髪を結び、臨戦態勢を取ると、襲来者達に向かって高らかに名乗りを上げた。
「我、八番庭『無銘』函守、火夜なり! 函守の責により、貴殿等に攻撃を開始する! いざ参らんっ!」
これは、函を守る一人の人間と、一振りの刀の物語である。
窓の外には、この函庭を彩る唯一の花である金木犀が咲き誇り、夏の終わりを告げていた。相も変わらず来訪者も無く、ただ私が鋼を鍛える音だけが庭に響き渡る。それがこの『無銘』という函庭…私が勝手に金木犀の函庭と呼んでいる場所の日常だった。
函守として、このまま何事も無く無銘で一生を終えるのだろうか。
額に滲む汗を拭いながら、そんな事を延々と考えている私は、退屈しているのだろうか。
「鋼蟲、おいで」
扉の影からもそもそと黒い塊が這いだしてくる。前任者の置き土産らしいが詳細は分からない。
先ほど完成させた刀を床に置くと、いそいそと刀に近寄って齧り始めた。
食事の時間だ。
「美味しい?」
きゅーというなんとも愛らしい鳴き声をあげて鋼蟲が応える。手を伸ばし、鋼蟲の背を撫でる。もふもふとした感触が心地よい。
鋼蟲の背に触れる事が、私の数少ない楽しみの一つだった。
突然、ドンという衝撃と共に鐘が鳴った。戸棚の上からパラパラと塵が舞う。掃除が面倒じゃないか、と一瞬考えたが、正直それどころではないので一旦考えないようにする。
来訪者だ。
「八番街庭『無銘』函守、只今参上致しました」
「火夜、誓いは覚えているな?」
火夜というのが私の名前だと思い出すのに数秒の時を要した。人から名を呼ばれなくなってから長いので、仕方のない事だとは思う。
「…函から離れるべからず、函を傷つけるべからず、函に害を為す者あらば刺し違えても阻止するべし…です」
「その三番目の誓いを果たす時が来る」
「……戦…ですか」
「既に三番、五番、六番は墜落した。他が墜ちるのも時間の問題だろう」
「それを、何故、私…いえ、八番に? 戦力ならば九番の方が優れている筈」
「私はこの話を八番街庭に持ち込んだのではない。君に、個人的に持ち込んだのだ」
「私はもう戦場に立たないと言ったはずです。大体、他の庭が敵わない相手に私が個人で太刀打ちできる訳無いでしょう」
「謙遜をするな、四年前の大立ち回りは聞いている。君の力が必要なのだ」
「四年前…一番街の地獄ですか…あなた方上層部は、アレを英雄鐔とでもお思いなのですかね…確かに一番街の奪還には成功しました。しかし、あまりにも被害が甚大すぎた、特に、心に深い傷を追ってしまった函守のなんと多いことか…まぁその話は置いておきましょう、とにかく、その話、丁重にお断りします。もし私の函被害が及ぶような事があれば、私の縄張り内だけで力を振るう事にします」
「…そうくるとは思っていたよ。仕方ない、少々乱暴になるが許してくれ」
油断していた。上層部は愚かだとは思っていたが、ここまで短絡適だとは思わなかった。
勿論帯刀していればサシで勝てない相手なんてそんなに多くはないが、丸腰なら別である。今年で十七になろうかという子供が単純な力勝負で大人に勝てる訳がないのだ。
「………主に仇為す者…何者か…」
「…誰だ貴様は」
本当に誰だ。あまりにも突然すぎる。だいたい、無銘にいる函守は私だけではなかったのか、いや、私は二年間も他の誰かと暮らしていたとでもいうのか、いるならいるで言ってくれないと…湯浴みとか…服着ないで歩き回ったりとか…見られたかもしれない…などというあまりにも場違いな衝撃を受けている私は馬鹿なのだろうか。
「………名…吟弧…否、鋼蟲…!」
「……鋼蟲…? おまえ、鋼蟲なのかっ?」
こくりと頷いた。
混乱が更に深くなる。鋼蟲? あの小さくてもふもふとした…あの鋼蟲? いやいやどう見ても人じゃないか、私の愛らしいもふもふは見る影も無い…いや、強いて言うなら髪の毛がもふもふしてそうだ、触ってみたい…って違う違う。もし彼が鋼蟲だとするならば、これはチャンスだ。
「鋼蟲、この人は、私達にとってよくない事をしようとしてる。工房に行って私の刀取ってきてもらえる? 場所、分かる?」
鋼蟲が首をふるふると横に振る。まぁ隠しているから場所を知らないのも無理はないか…と思っていると、鋼蟲が口を開いた。
「…主、鋼蟲、遣ってくれ」
鋼蟲が私の手を握った直後、一瞬ぽふんと煙が上がって鋼蟲の姿が無くなっていた。代わりに私の手には一振りの刀、よく見ると鋼蟲の印が記されていた。
「…うん、いいね、思い出してきた。さて、どうする? 来るなら相手したげる」
「貴様…誰に向かって口を聞いてると…」
「黙れ、ここは無銘…私の庭だ。去れ、来訪者よ」
「…ここを戦場にしてやろう」
「迎え撃ってやろうか?」
その後どうやって追い返したのか、詳しいことは覚えてない。とにかく重要なのは、八番庭が戦場になりかねないという事実…ではなく、目の前で刀を齧る青年の髪の毛に触れたいという誘惑に耐えきれそうにない事だ。
「……触る?」
「いや、待って、これでも四年前までは気高い子で通ってたんだから、そんな、節操も無く髪の毛もふもふするなんてそんな…」
「………」
突如、ドンと大きく音が鳴って、同時に身を震わす衝撃が私を襲った。
来訪者…ではなく、攻撃されているのだ。前任者が仕掛けていた障壁によって大きな被害は出ていないだろうが、それも時間の問題だろう。
「さて、行こうか鋼蟲」
手を伸ばし、彼の手を握る。途中で解けないようにしっかりと髪を結び、臨戦態勢を取ると、襲来者達に向かって高らかに名乗りを上げた。
「我、八番庭『無銘』函守、火夜なり! 函守の責により、貴殿等に攻撃を開始する! いざ参らんっ!」
これは、函を守る一人の人間と、一振りの刀の物語である。
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