東大正高校新聞部シリーズ

場違い

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第3部 マープルの死角

マープルの死角 -Why didn't you look for EBARA park ?-

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 6月も中旬を越してくるとさすがに雨が多くなり、高い湿度と蒸し暑い気温が、パジャマと私の肌の間に、たくさんの汗水を生む。
 じっとしていたらたまらなくなって、何度も寝返りをうつが、今度はそれのせいで汗をかく。デフレスパイラルならぬスエットスパイラル、汗の気持ち悪さが汗を生むとは絶望的なまでの悪循環。

「ああーっ、もう!」

 仕方なく起き上がり、部屋を出てリビングへ。
 真っ暗だけど大体のモノの位置は分かる。冷蔵庫を開けて明かりを確保しながら、冷えた麦茶を取って、コップに注いだ。
 喉の奥からすぅっと冷えていくのを感じつつ、ごくりごくりと飲み干す。
 ふと時計を見ると、午前1時。そろそろ寝付かなければ6時間睡眠の確保が難しいのだが、この嫌な熱気と妙に冴えた目では難しいだろうなぁ、と絶望的観測。

 部屋に戻る。エアコンが欲しいと嘆きながら、またベッドに倒れ込む。
 お母さんは風邪を引くからやめろと言ったけれど、こんなに暑いんじゃ毛布が邪魔だ。ベッドの上から毛布を払いのけて、ちょっとひんやり、冷たいシーツの上にごろごろと転がる。

 ああ、と、何の感情も伴わない溜め息。
 こんな寝付けない夜には、つまらない回想がつきものだ。

 暗い寝室で、転がるのをやめて、私は今日のことを少しずつ、ひねり出すように思い出し始めた。
 今日も、空乃といっぱい無駄話をした。
 ……そうだ、たしか、こんなことを聞かれたっけ。

「咲って、前から柿坂先輩のこと知ってたみたいだけど……どうしてそんな急に、今まで全然接点が無かった人を好きになれたの?」

 何を失礼な、と腹を立てそうになったが、すぐにもっともだと納得した。
 たしかに外から見れば、私はずいぶんと変な惚れ方をしている。
 中学2年生のときに出会って、それからずっと会っていなくて、高校で再会するや否や「ずっと前から好きでした!」状態。
 長い片思いと言えなくもないが、一目ぼれと言えなくもない。どうして好きになれたの、という質問は、もっともなものだった。

 正直に話すと長いし、何より恥ずかしいから、「遠い昔から赤い糸で結ばれてるんだよ」なんて言ってお茶を濁したけれど……やっぱり、思い出しちゃうな。
 先輩と出会えたことはとても嬉しかったけれど、それ以上に悲しみの強い思い出。
 私は、まどろみの中で、中学2年生の春の日を思い出した……。



「…………ゴミ捨て場には、さすがにいないか」

 あいつ、よく散歩中にゴミ袋を蹴飛ばして遊び始めるから、もしかしたらひょこっと出てくるかも、なんて思ったんだけど……。
 うぅうん、と私は唸って、地団太を踏むマネをした。
 地面に落ちた桜の花びらが、私の靴についた土に塗れて、すっかり汚い色合いになってしまう。
 私は溜め息を吐いて、すっかり土や雨水で底が汚れてしまったカバンを、肩にかけ直した。腕時計もスマホも持っていないから、今どのくらい時間が経っているか分からないのが、とても不安だ。
 ゴミ捨て場から、坂に向かって歩き出す。上り坂の上には満開の桜が何本もあって、今日みたいに風の向きがいいと、散った花弁が風とともに吹き降ろしてきて、とても綺麗である。
 しかし……。

「昨日の嵐で、ほとんど散っちゃったかな……」

 びちょびちょに濡れてアスファルトに張り付いた桜は、控えめに言ってもあんまり綺麗なものではなかった。
 私はなんだか、前にも後ろにも進めなくなった感じがして、ゆるゆると膝を曲げるとその場にしゃがみ込んでしまった。

「どこ行っちゃったんだよ、マープル……」

 私は小池咲。町の北の方、山を背負った襟根中学校に通う、中学2年生だ。
 こんな平日の朝、本来ならまっすぐ登校しなくちゃいけないんだけど……私には重大な使命がある。それは、飼い猫だったマープルの行方を捜索すること。
 くりくりした金色の目がとても可愛い、黒猫だ。お父さんが、こんなに可愛い猫が処分されるのは我慢ならないと、いろいろ手続きを踏んで保健所から引き取ってきた、元捨て猫。
 マープルは、私が小学校に入りたての頃にやって来た。よく遊んだし、よく引っかかれたし、よくおでこを足にこすりつけてきた。ごはんが少ないと殴りかかってくるような悪いヤツだけど、私が落ち込んでいると、その気配を感じ取って、膝の上に飛び乗ってくるような、良いヤツだ。

 ……飼い猫『だった』、っていうのはつまり、最近逃がしてしまったのだ。
 もともと、家の中で放し飼いしていたんだけど、最近になって、呼吸が乱れたり、ごはんを食べないようになった。
 ちょっと離れた獣医に診てもらったら、悲しそうな顔で、私にはあんまり分からない難しい話をされたあとに……「入院させるよりも、慣れ親しんだお家で最期を迎えさせてあげてください」と言われた。
 その日から2日くらい、私も調子が悪くなって、あんまりにも悲しくて、涙どころか声も出せなかった。そんなときでもマープルは、足に擦り寄ってきてくれた。
 もともと散歩が好きなヤツだったんだけど、体が悪くなってから、妙に外に出たがるようになりだした。見つけるたびに、ダメだよ、と慌てて連れ戻した。

 きのうの朝起きたら、マープルがいなくなっていた。
 血相を変えて探しに行こうとした私に、お父さんとお母さんは、どちらも私と同じくらいに悲しそうな顔を浮かべて、

「よく言われることで、真偽は定かじゃないけれど……猫は、最期のときは姿を消すって言われてるの」
「マープルが、咲たちを悲しませないために隠れたのなら、せめてその願い通りに、笑顔で見送ってあげよう」

 そう言って、お父さんはいつもより重い足取りで仕事へ、お母さんは零れてしまった涙を拭いながら、ペット葬についてネットで調べ始めた。
 だから私も、その日は大人しく学校に行ったんだけど……その日、つまり昨日の晩から今日の朝にかけて、春の嵐が起きた。ごうごうと雨風が窓を押し付けて、がたんがたんと外に出ているものが壊れ、ざわざわと木々が揺れた。
 その嵐のせいで、一度は「これでお別れだ」と決心できたのに、またマープルが心配でたまらなくなってしまった。
 そして今日、やっぱりどうしても探してあげたいと思って、早めに家を出てマープルを捜索している。
 だが、裏路地や駄菓子屋や、いろいろと心当たりのある場所を回ってみたが、未だにマープルの姿を見つけられていない。そろそろ1時限目が始まってしまう時間だ。
 まだ生きているなら、どうにか最後に笑顔を見せて、見送ってあげたい。
 もう亡くなったなら……どうするか分からないけれど、とにかく、最期の姿をちゃんと見てあげないといけないと思う。

「………………」

 マープルの思い出が蘇るたびに、懐かしさを感じるのと一緒に、胸の奥が冷たく痛む。
 しゃがみ込んでいても始まらないのは分かっているけれど……。
 私は、このままだと泣いてしまいそうで、上を向いた。

「え?」
「へ?」

 すると、こちらを見下ろしていた男の人と、目が合った。

「うわわわわっ」

 驚いて、そのまま飛び上がるように立ち上がる。自転車を押していた男の人も、大きく後ろに仰け反った。
 学ランの黒は、ゴミ捨て場にいるとまるで残飯を荒らすカラスのよう。整ってはいるが何となくパッとしない顔立ちも、真面目すぎる感じのカッチリ止めた服装も、なーんか全部、地味な男の人だ。
 地味な男の人は、恥ずかしそうに笑いながら頭を掻いた。

「ごめん、道端にうずくまってたから、心配で声かけようとして」
「あ、えと……大丈夫です」

 にこりとも笑わずに言う。
 私は今日、マープルが見つからない限り学校へ行かないくらいの腹積もりでいるので、変に応対して学校や家に連絡でもされたら敵わない。
 冷たくあしらって南へ去ろうとしたが、待って、とカバンを掴まれた。
 できる限り嫌な顔をして振り向くが、地味な男の人は、ひとつも動じる素振りを見せなかった。

「その制服、襟根中学だな。もうそろそろ授業が始まる時間だよね?」
「……だから急いでるんじゃないですか。離してください」
「いや。真っ直ぐ襟根中学に向けて登校中なんだとしたら、そっち向きに歩いていくのはおかしい」

 思わず、あっと声が出た。
 襟根中学は北、私の進もうとした向きは、真反対の南。
 ……変に鋭い人だな。私は盛大に溜め息を吐いて、男より怖いと定評のある目で男の人を睨んだ。

「どうでもいいでしょ」
「い、いや、学校に行かないのはよくないよ」
「それはあなたもでしょう! 学ラン着てるってことは、高校生ですよね」
「……今日は午前は休講なんだよ。勉強しようと思って早く出てるだけさ」
「ちっ……あんまりやりたくないけど、しつこいようなら大声出しますよ」
「……それはお互い良くないんじゃないかな」

 地味な男の人は、探偵にでもなったみたいにあごをさすった。
 なんとなく挑発的。私はついカチンときて、言い返した。

「お互い、じゃなくて、あなたが良くないだけでしょ。私はあなたがタイホされたって困りません」
「いや。警察が来るようなことになったら、君は中学校をサボってまでやっている探し物を続行できなくなるだろ」
「…………えっ?」

 思わずビックリした。
 なんで、私が探し物をしていると言い当てられたのだろう。まさか……。

「今までずっとストーカーしてたんですか!」
「そんなわけないだろ! ……君のカバンだよ」
「カバン?」

 私は自分のカバンをよく見た。
 底が土や泥で汚れている、肩掛けタイプの学校指定カバンだ。

「君は、土や泥がつくような場所でカバンを置いて、その周辺を探したんだろう。アスファルトで舗装されていないようなところまで行ったとなると、かなり広い範囲を探しているんじゃないかな」
「……決めつけです。街路樹の土の上に置いた可能性もあります」
「すぐそばに、少なくとも土よりはいい置き場所であるアスファルトの地面があるのに、わざわざそんな悪いところに置くかい?」
「だけど、探し物以外でだって、土の上にカバンを置くことはあるでしょ」
「そうだね。だから、探し物って言ったのはただのカンだよ?」

 …………。
 苦手だ、この人!
 私は思い切りカバンを振って、地味な男の人……むしろ地味でムカつく男の人の腕を払った。カバンの底についていた土が舞う。

「もういいです! とにかく行かせてください」
「困ってる人を見過ごせないタチなんだ。探し物、よければ手伝うよ」
「手伝わなくていいです、どうせ足手まといになるだけです」
「足手まといか。……手にはなれなさそうだけど」

 地味でムカつく男の人は、自分の押している自転車を指差した。

「足にはなれるかもしれないよ」
「………………」

 私は、地味で役に立つ男の人の後ろに乗った。



「マープルって言って、可愛い黒猫なんです」
「行く場所に心当たりは?」
「いくつもあって困ってます。よく散歩で行く、マープルのお気に入りの場所を当たってるんですけど……」
「え、猫って散歩するんだ? みんなインドアなんだと思ってた」
「活発な猫は、けっこう外に出たがりますよ。そうそう、散歩をねだる時も、ざらざらの舌で足首舐めてきて、可愛いんです……」
「へえ……」

 地味な男の人の背中をしっかりと掴んで、私は自転車の後ろで揺られていた。
 いわゆるニケツ、2人乗りだ。初めての異性との2人乗りがこの人なんて、ちょっと勿体ない気もするけれど。
 目的地は、少し離れたところにある、小川に架かった変な形の橋。ここもマープルが好きだった場所で、よく私より先に走って行っては、川に落ちかけて私をヒヤヒヤさせたものだ。
 自転車はすこし軋んだ音をあげながら、町の西へ疾走する。……いや言い過ぎた、とても疾走とは言えない、トロトロした安全運転だ。
 こんな調子では日が暮れてしまう。私は地味な男の人の背中を、ぽこぽこ叩いた。

「もっと速く漕げませんか」
「無茶言わないでくれ。2人乗りなんて久しくやってないんだよ、あんまりスピード出したら危ないだろ」
「大丈夫ですよ、ちょっとぐらいこけたって平気です」
「……あと、重いし」

 首を絞める。

「いだだだ! ごめんごめん!」
「地味でムカつく上に失礼な人ですね」
「ははは……君の方がよっぽど失礼だと思うけど……」

 憤然としながら、首を解放する。
 あれ……。もっと離れていると思っていたけど、そろそろ目的の橋に着きそうだった。
 地味な男の人も気付いたようで、ただでさえ遅いスピードを緩めて言う。

「これ?」
「はい、えっと……茂伊良もいら橋ですね」

 自転車から降りて、橋の前に設置された石碑(そんな大げさなものじゃないかな)を読んだ。今まで名前なんか気にしたこともなかったけど……ヘンな名前の橋だな。
 地味な男の人も、邪魔にならないように自転車を適当な場所に駐輪してきた。
 悠長にキーリングを指で引っかけて回しながら、地味な男の人は首を傾げる。

「……これ、橋なのか? 本当に用途が橋なら、不便極まりないと思うんだけど」

 茂伊良橋には、いたるところに穴ぼこがあったり、カーブ、枝分かれしてもうひとつ隣の橋へ……と、ゆるいアスレチックみたいな要素が詰まっている。
 地味な男の人が言う通り、子供なんかは喜んで遊び場にするだろうけれど、お年寄りや体の不自由な人、自転車で通る人にとっては危険極まりない。

「それはほら、あっちに普通の橋がありますから」

 嘉明日かあす川の分流である手須てす川を隔てて、こっち側が南地区、向こう側が北地区。勝手にそう言われてるだけで、書類上の土地分けとかはないらしいけど。
 もうほんのちょっと上流へ進んだところに、普通に太くて普通にまっすぐな橋があるため、基本的にみんなそっちを利用して北と南を行き来する。
 要はこっちは、ほとんど機能性のない、茶目っ気たっぷりのオブジェ的建造物というわけだ。

「……なるほど。地理的知識を深められてよかったけど……いないようだね」
「うーん……そうですね」
「とりあえず、この辺を回ってみようか?」
「いえ。マープルはこの橋で遊ぶことは多かったですが、この周辺はあんまり好きじゃなくって。橋で遊ぶのに飽きたら、すぐこの辺は離れたがりましたし」
「そうか……」

 地味な男の人は、腕を組んで、右手で口元を覆い、じっくりと考え込んでいるようだった。
 真剣な表情をしていれば、それなりにカッコよく見えるような……。
 ……いや、困ったときに親身になってくれる人には、心理的に心が傾きやすいものだ。今の気持ちはアテにできない。
 男の人は、ダメだ、と言って私の方へ向き直った。

「やっぱり、情報がないとどうしようもない。ほかに、そのマープルくんが気に入っていた場所はあるかな?」
「マープルはメスです!」
「ご、ごめん。とにかく、何か心当たりはないかな?」

 私は頬を膨らませながら、男の人のまねをして考え込んだ。
 まだ探していない場所で、マープルが行きそうな場所といえば、思い当たるのは1つしかない。
 だけど……。

「東大正高校の裏にある、裏路地……」
「えぇっ、よりによって……」
「え、なにかマズいんですか?」
「いや……いいよ。そこへよく行ったんだよね?」
「はい。マープルの悪いクセで、ゴミ袋とかを蹴飛ばすのが大好きなんです。裏路地にはそれがいくつもあるので……」

 私と男の人は、ふたたび自転車に跨った。
 すぐには発信せず、うーんうーんと唸って、男の人は考え込む。

「どうかしたんですか?」
「……いや、ちょっと、個人的に通りたくない場所があってね。急いでるところ申し訳ないけど、少しだけ遠回りさせてもらうよ」
「あぁ、そういうことなら問題ありません」

 『遠回りになっても、着く場所が同じならなんちゃらかんちゃら』、という至言があるのを思い出した。
 どういう都合なのかは知らないけど、私が気にすることではないだろう。
 男の人は私に礼を言って、自転車はまた、水たまりの残る道路を走り出した。

 2人乗りに慣れてきたのか、この橋まで来た時よりもスピードは上がる。
 商店街や駅をすいすいと越えて、普段あまり通らないような道も越えて、少しだけの遠回りコースは順調に消化されていく。
 男の人の肩をしっかり掴みながら、話しかけた。

「高校って、たのしいですか?」
「ん? うーん、俺は中学より楽しいと思うよ」
「ふうん……。部活とかもいっぱいあるんですよね」
「あるね。よく分からないのも多いよ、カケンとか」
「カケン?」
「化学研究会。うちと部室が近いんだけど、なんか、よく分からない薬品の匂いがキツイんだよね……」
「アンモニアなら、中学でも使うらしいですけど」
「それそれ。アレ並み」
「嫌だなぁ……あなたは何部なんですか?」
「え……な、内緒」
「なんでですか! そんなに信用なりませんか!」
「いやあ……地味な上に、まだ本格的な活動はできてないから、根本的に何も面白い話ができないんだよな。話題が広がらない」
「別に面白い話とかが聞きたいんじゃなくて、あなたのことが聞きたいんですけど」

 ……なんだか、誤解されそうなことを言ってしまった気がする。
 顔が赤く火照るのを自覚しつつ、慌てて取り消そうとするが、男の人の笑い声がそれを遮った。

「ははは。ま、俺なんかに聞かなくても、そのうち進学すれば分かるよ」
「……楽しみにしておきます」

 投げやりに会話を打ち切ってそっぽを向くと、鮮やかなピンク色が目に飛び込んできた。
 荏原えばら公園、散歩道の角を彩る、3本ほどのソメイヨシノだ。
 あの嵐で、絶対にほとんど散ったと思っていた……私は思わずため息を漏らす。
 男の人も、おお、と感嘆の声を漏らした。

「綺麗だな……やっぱり」
「たった3本なのに、絵になってますよね」

 『荏原公園の三本桜』は、ここらでは結構有名だ。
 花見をするには桜の数が少なすぎるけれど、どんなときでも、確実にこれを目にする人の心を春の色に塗り替えてくれる。
 緑色の葉を茂らせる夏、赤や茶色に色づく秋、何も身に纏わず寒々とした姿を晒す冬。ソメイヨシノは1年を通して、私たちに様々な顔を見せてくれるが、やはり春の桜は格別であり、普段気にも留めない公園の木が、この季節だけはスポットライトを浴びるのだ。
 ……今はあまり見たくない。私はまた目を逸らし、男の人の背中を見つめた。
 男の人が自転車を漕ぐ足を緩めて、聞いてくる。

「俺も、おととい学校帰りに見に来たよ。天気予報で嵐が来るって知って、今年は見納めかもしれないなと思ってさ」
「風流なんですね」
「まあね。あの公園なんかは、散歩コースじゃないの?」
「はい。マープルもよく気に入っていましたが……もう調べました」
「え、朝からけっこう遠くまで探しに行ってたんだね」
「……真っ先に思いついたのはあの場所でしたから。春になると、いつもあの公園の桜を見たがるんですよ。人間のおばあちゃんみたいに」
「………………」
「今年はもう体調が悪くなったので、行ってないんです。いるとしたら荏原公園だ、荏原公園の、桜がよく見えるベンチに座ってるんだ、と思ったんですけどね……ベンチどころか、好きだったブランコにも、回転ジャングルジムにもいませんでした」
「…………そう、か……」

 どこかぎこちなく、男の人は相槌を打った。
 散った桜を轢いて、咲き誇る桜を見上げて、舞い散る桜を身に浴びて。
 私は男の人の自転車の後ろ、荏原公園を逃げるように通り過ぎた。



 裏路地にもマープルの姿はなかった。
 私も男の人もノーリアクションで、壁にもたれる。
 男の人が慣れていない2人乗りで疲れたのはもちろんのこと、私は私で、けっこうな距離をママチャリの後ろにある荷物置きに座って揺られたため、けっこうお尻が痛くなっていた。
 スカートの上から太ももをマッサージしつつ、周りを眺める。

 小学生・中学生向けの学習塾と眼鏡屋に挟まれた、人間2人ぶんぐらいの小さく細い路地。ゴミ箱には、今日はまだゴミ袋は捨てられていないようで、マープルがここへ来たんだとしたら残念がっただろうなと思った。
 パイプというのか、この場合ダクトというのか。黒く煤けた感じのそれが頭の上を通っていて。そのせいで、まだ午前中で陽も十分差し込んでいるというのに、この裏路地は余計に暗く感じられる。
 男の人は、どことなく優しい顔で言った。

「裏路地か……ここじゃないけど、よく鬼ごっことかで使ったよ」
「鬼ごっこで裏路地に隠れるのは鉄板ですよね! あと木の上とか!」
「ははは。小さい頃は、今じゃできないような危ないこともたくさんやったなぁ」
「へー。あんまりそういうタイプに見えないですけど」
「まあ、このトシで少年の心を持ち続けててもね。……最近の子供は、危ないことをそもそもできないんだよね」
「ん……軟弱だってことですか?」
「違うよ。公園とかでも、事故の危険があるからって言って、遊具は全て撤去、とかね」
「ああ……過度な事故防止、最近多いですね」

 私が卒業した小学校でも、組体操は大けがに繋がるから今年から廃止だって噂を聞いた。ちょっとやりすぎにも思える安全対策だ。
 たしかに事故は防ぐべきものだが……こうも徹底的に危険を排除してしまうと、逆に子供の危機管理能力が育たないのではないかと思う。中2の身分で偉そうな話だけど。

「そのうち、小学校のアスレチックとかも無くなっちまうのかなー……」
「……仕方ないことですけど、昔の思い出が消えるのって、辛いですね」
「最近気付いたんだけど、小学校の近くにあった歩道橋が、長く見てない間にいつの間にか無くなっててさ」
「…………」
「どーせ使わないのに、寂しいもんだなって思った」

 男の人が壁から腰を浮かせ、スタンドを立てたままの自転車に跨って、ペダルを空回りさせる。
 ……たぶん、この人はもう、分かっているんだろう。
 スタンドを上げた。
 私も、まだちょっと痛いけれど、お尻を自転車の荷物置きに乗せて、男の人の背中を持つ。2人とも、地面に足をつけたままだ。

「……次はどこを探そうか」
「マープルがよく行くのは……ううん、あとは駄菓子屋とか、喫茶店の前の植え込みとか」
「そうじゃないだろ……」
「………………」

 必死に止めようとするのに、私の、男の人の肩を掴む手は、震えるのをやめてくれない。
 私は、黒い実感を必死に止めようとした。まだ確認してもいないのに、それを想像してしまうと……シュレディンガーのマープルが、本当に死んでしまう気がした。
 熱くなる目頭。上を見上げて必死にこらえて、歯を食いしばる。
 馬鹿だ。
 これじゃまるで、駄々をこねる子供だ……。

「……どこへ行きたいかは、君が決めてくれ」
「………………」
「見つけるまで、付き合ってあげるからさ」

 私は、大きく息を吸い込んだ。
 何もかもを体に閉じ込めるような気持ちで、

「…………荏原公園を、探しましょう」

 私は、最期の目的地を告げた。

「分かった」

 もう後戻りはできない。
 目を塞いだって、耳を塞いだって、事実から逃れはしない。
 私は余計な感情を殺すように、強く、男の人の肩を掴んで、まっすぐ前を向いた。

 自転車は、走り出した。



「……なんで分かったんですか」
「君の、と分かった理由かい?」
「…………はい」
「何となく察しはついてるだろ」

 荏原公園を通ったあと、裏路地に着いた。
 そこでどんな話をしたかといえば……。

「公園から遊具が消えた、その話ですよね」
「そう。去年の春に行ったっきり、荏原公園を訪れていない君は、知らなかっただろうけど」

 男の人は、冬の日に白い息を吐くみたいに、小さく息を吐いた。

「去年の秋だよ。荏原公園から、君の言ってたブランコも、回転ジャングルジムも、全部撤去されたんだ」
「………………」

 公園を通ったすぐあとに、公園から遊具が消えたという話をしたから、妙だとは思った。
 思えば……私に、自白させるためだったのだろうか。
 荏原公園を探していないのに、すでに探したと、嘘を吐いたことを。

「『何故、荏原公園を探さなかったのか?』……その答えは、君自身が言っている」
「……一番、いる可能性が高いと思ったんです」
「だからこそ、君はそこへは行きたくなかったんだ」
「家族失格ですよね……」

 もし、見つけられたら。
 心の底から、マープルに謝罪しよう。

「……着いたよ」

 荏原公園。
 マープルは、3本のソメイヨシノが大好きだった。

 入口から、ゆっくりとじぐざぐの道を辿る。
 回転ジャングルジムも、ブランコも消えて、慣れ親しんだ公園はもう消えてしまったのだと思った。滑り台に貼られた紙の内容は見えないが、周りに三角コーンと黄色いテープがあるってことは、おそらく……。
 この公園には、遊具があるのが当たり前だと思っていた。
 マープルは、いつも私の足元にじゃれついてくれるのが当たり前だと思っていた。

 道は、ここで2つに分かれる。
 片方を通った先の角で、三本桜が咲き誇る。
 もう片方を通った先には、公衆トイレがある。

「……行けるか」
「大丈夫です」

 三本桜の方を選んだ私の足は、きっとすくんでいた。
 思い出の中のマープルが、私の歩く足にまとわりついてくる……だけどしばらく歩いたら、1人で三本桜の方へ駆けていく……そんな二重写しを見た。
 いつだって悪いヤツで、いいヤツで、大好きなヤツだった。
 これからも、そうでいてほしい。

 私は、ゆっくりと歩みを進めて、三本桜の前に立って……、
 そっと、座り込んだ。

「……ごめんな、マープル」

 ぐっと涙を堪えて、口元を釣り上げる。

 マープルは、絵本のように、桜の花びらに抱かれて死んでいた。
 安らかに、目を閉じて。

「……君は、マープルが死んでいることを、ほとんど確信していた」
「それを……認めたくなくて、……荏原公園を探したくなかった」

 マープルのあごを、いつものように撫でた。
 分かっているのに、もうそれはマープルの温度じゃなかった。冷たく冷えてしまっていた。
 ……ごめん。
 寒かったね。ごめんね。

「…………ごめんな……」

 私は泣かない。
 お母さんの言う通り、最期くらい、マープルを笑って送り出してあげたい。
 笑うことはできなくても……せめて、心配させたくない。

「……お金、持ってますか? ……ガーベラ、買ってきてください、あとで返しますから……」
「いいよ、それくらいのお金は……。ガーベラだね」

 私はカバンから、持ってきていたスコップを取り出した。
 縮められるそれを、長く伸ばして、固定する。桜をよく見上げられる位置に、穴を掘ることにした。

 子供の時からずっと一緒だったあんたとお別れなんて、『寂しい』なんてものじゃないけれど。これから、もう生きていけないくらいだけど。
 でも、それじゃダメだよな。
 撫でられてふにゃっと柔らかくなる顔も、怒ったらすぐに飛び出る手も、興味のあるものを見つけたら走ってしまう足も、全部全部、大好きだよ。
 本当はすごく悲しくて泣きたいけど、ここで泣いちゃったら、マープルとの思い出まで流しちゃう気がするから……しわくちゃだけど、精一杯笑顔で、あんたを送るから。
 最初は、あんたの死を受け止められなくて、本当にごめん。
 ……飼い主失格だよな。
 私はもう、大丈夫。安心して、眠ってくれ。
 じゃあ、また。
 ……できることなら、化けて出てきてください。

「……買って来たよ」
「……ありがとうございます。こっちも終わりそうです」

 男の人から、ガーベラの、小さな花束を受け取る。
 気付けば、けっこうな時間が経っていた。午前中の授業も終わりそうだ。
 1メートルとはいかないまでも、けっこう深く掘った。
 あらかじめ持ってきていたバスタオル――これも、マープルがよくくるまってごろごろしていたものだ――に、マープルを包んで、掘った穴に収める。
 桜の花びらと、私の愛用していたヘアピンを一緒に入れて、しばらくその場で棒立ちになった。

「……ごめんなさい。泣かないって約束したので」
「分かった。自分でやれる?」
「……はい。後は、ちゃんと、できます」
「そうか……」

 私は、男の人に向かって、頭を下げた。

「ありがとうございました」
「いいさ。……ちゃんと、送ってあげてね」
「………………はい」

 男の人は、自転車のスタンドを上げて、緩やかにスピードを上げて走って行った。

「あ……名前、聞いてないや」

 姿が見えなくなってから気付いた。
 最初の印象こそ最悪だったけれど、本当に優しい人で……学ランがよく似合った、カッコいい人だったなぁ……。
 ありがとう。逃げてばっかりの私とマープルを、もう一度合わせてくれて。
 私はもう一度、マープルに向き直った。
 今にも目を開きそう。だけど、それは幻だ。

 静かに、スコップは使わずに手で、土をかけてあげた。
 綺麗に整えて、できるだけ大きめの石を上から置く。そのわきに、ガーベラの花束を添えて、手を合わせる。
 目を瞑って数秒、最後に、目を見開いた。

「マープル、ありがとう」

 ……これは汗だ。
 目元を拭って、カバンを掛け直し、私は学校への道を歩き始めた。
 ソメイヨシノが、香る追い風に乗って、背中から前へと吹き抜ける。

 この3本のソメイヨシノだけは、いつまでも、ここにありますように。
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