五年越しのきみは3

Sai

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画面の中の男

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「あれ? もう帰ってきたのか?」


 ただいま。と兄ちゃんに言ってキッチンへ行き水をがぶがぶと飲む。あれから異様に喉が渇いていた。グラスをシンクに置き、そこでじゃぶじゃぶと手も洗った。さっきの男のあの目がこびりついているようで、ゴシゴシと振り払うように手を擦る。


「うん……なんか、気分悪くなっちゃって。ちょっと横になってるね」
「うん。わかった」


 ローテーブルでパソコンに向かう兄ちゃんの後ろ姿をちらっと見る。


 言うべきか、言うまいか……。


「に、兄ちゃん。あのさ……」
「ん?」
「……。ううん。なんでもない」


 俺は足早にベッドへと向かった。兄ちゃんは徹夜してまで画面を見ている。俺がそれに口出しすることではないとわかっているから、余計に俺のことで心配をかけたくなかった。


「……はぁ……」


 誰なんだろう。兄ちゃんの知り合いであることは確かだけど、俺のことまで知っている。あの風貌からして学生じゃないだろうし、雰囲気もやっぱりまともだとも思えなかった。


「しばらく休もう……」


 面倒ごとに巻き込まれたくない。兄ちゃんにも迷惑かけたくない。そんな弟心で今日あった出来事は頭の片隅に置いておくことにした。




 
「大丈夫? ちょっと張り切りすぎたんじゃない」
「そう……かも」


 コホコホと乾いた咳が出る。仮病を使って何コマか講義を休もうと思っていたら、本当に風邪をひいてしまった。


「これ飲んでもうちょっと寝てな」
「うん……ありがと……」


 横になっていても体の節々が痛む。兄ちゃんが水分補給用のペットボトルをそばに置いてくれて、俺は時々それで喉を潤した。頭がぼーっとする。起き上がるのはトイレに行く時ぐらいで、もう風呂にも三日は入っていなくて気持ち悪かった。


「疫病神だったんだ……あいつ」


 少し顔を忘れられた。でも目を開けていると天井が回りそうで、俺はため息と一緒に目を閉じた。


 しこたま寝ていたら次の日嘘のように体調が良くなった。きっと兄ちゃんが作ってくれた卵を溶いたおかゆを食べたからだ。どういう味付けをしているのかシンプルなメニューなのに空っぽの胃に優しくて、体に染みた。


「兄ちゃん。おはよ」
「……、奏。おはよ。体調、どう?」
「良くなったよ。ベッド占領しててごめんね」


 兄ちゃんはソファで寝る日が続いていたようだ。俺が風邪をひいていたのもあると思うけど、それだけ忙しかったのだろう。今日からはゆっくりベッドで寝て欲しい。それに今度は兄ちゃんが寝込んでしまったら、それこそ俺は何もできやしない。せいぜい兄ちゃんのためにフルーツ缶を開けてあげるぐらいか。


「ふぁ……ねむ。ベッドで寝てくる」
「うん。昼過ぎたら起こすね」


 のろのろと歩く兄ちゃんを見送って、俺は何日ぶりかのあたたかい風呂を堪能した。また明日から講義を受けよう。そう画策しながら。



 
「もう結構進んでるだろうなー。どこまでいったか教えてもらえる友達もいないし」
「こういう時困るな」
「うん。仕方ないけどね」


 講義料を払っているとはいえ、俺は部外者だ。きちんと聞くのも途中でやめるのも自由。でも中途半端にはしたくなかった。


「はいこれ。今日はサンドイッチだよ」
「ありがとう! お昼代も節約できて助かる」
「そろそろ自分で作って行って欲しいな」
「えへ。朝起きられなくて……」
「気をつけてな」
「うん」


 教科書と、兄ちゃんから受け取った弁当箱をバッグに詰める。兄ちゃんに行ってきますを言って、玄関を出た。
 


 午前中の講義が終わり、広い中庭の端っこの影になっているベンチで弁当と教科書を広げる。あむ、とサンドイッチを頬張りながら進んでいた分のページをペラペラと捲っていった。


——やっぱり前の分聞かないとわかんないとこあったな。


 午後の日差しがあったかい。このままここで昼寝でもしたい気分だ。朝は霜が降りるほど冷えたから、余計そう感じた。


「……あふ」


 教科書の内容が頭に入ってこない。お腹も満たされて、今度は睡眠欲が頭を覗かせていた。


「よう」


 まどろんでいた俺に影ができだれかの声が聞こえた。人がそばで立っていると気づいてハッとして、顔を上げる。


「しばらく来なかったから心配したぜ」


 こいつ……。

 もはやストーカーだ。今日は薄い色のサングラスをかけ紺色の派手なシャツを着ていた。やはりバッグは持っていない。


「……」
「おいおい。無視すんなよ」


 中国人かと思っていたけど、違うのかもしれない。男はかなり流暢な日本語を喋った。


「座りたいなら、どうぞ」


 身の回りを黙々と整頓していく。男は、ベンチから立ち上がった俺の腕をがしりと掴んだ。


「いた……っ」


 有無を言わせない力。おそらく振り解いたところで無駄だということだろう。


「ここに座れ」
「……わかったから、離して」
「聞き分けのいい子だ」


 男がニコリと笑った。目立たない場所だからって、騒ぎにはしたくない。この男がなにを企んでいるかわからなくて不気味だったけど、俺は渋々またベンチに座り直した。


「また会えて嬉しいよ。奏、だっけ。名前」


 男はタバコを取り出して火をつけた。敷地内は全面禁煙だった気がするけど、あまりにも堂々と吸う態度に俺は一抹の不安を覚えた。


「……。俺に、なにか用?」
「まあまあそう急ぐなって。ゆっくり話したいだけだから。ふぅーっ……」
「……」
「創は? 一緒じゃないのか?」
「俺だけ……いつも」
「ふうん。……ふぅーっ……。創ってさ。しつこいよな。あれの……セックスの時」
「!」


 横目で男を見る。男は灰をトントンとその辺に落として、ニヤけた顔を俺に向けた。俺は驚きでなにも言えなかった。


「ん? なんで知ってるか? そういう関係なんだよ、俺たち」


 男がクツクツと笑って上を向く。空に向かって吐き出された煙がさあっと散っていった。タバコを吸わない俺はそれにむせ返りそうになりながら息を止めて我慢する。携帯灰皿なのか、男はポケットから取り出して火を消した。


「……、……。な、なにが目的なの……」
「別に。あいつの弟がどんなのか知りたかっただけ」
「お、俺は……」
「気に入ったよ、お前。創にもよろしく言っといて」


 男はそう言うと、ベンチから立って背伸びをしたあと俺に振り向いた。


「明日も講義に来いよ。また話そうぜ」


 じゃあな、と言った男の背中をしばらく見ていた。変な汗を、背中にだらだらとかきながら。


 午後の授業は上の空なんてもんじゃなかった。男から言われたセリフが頭の中をぐるぐると旋回する。俺はずっとノートに目を落としてそれに耐えていた。あの兄ちゃんの知り合い、もとい恋人だったようだし、絶対まともな奴じゃない。初対面の俺にあんなことを言うなんて。また気分が悪くなりそうだ。


 帰ったら当事者の兄ちゃんが家にいるのも、なんだか憂鬱だった。
 




 兄ちゃんがこの先にいるのに、玄関のドアを開けることがこんなに複雑な気持ちになる日が来るなんて。俺はきっと自分の気持ちが素直に顔に出るタイプだ。兄ちゃんを欺こうなんて無謀だと理解している。


「ただいま」


 意を決してドアノブに手をかけた。やっぱり兄ちゃんに言おう。そう決めて。


「おかえり。奏。お腹空いてない? ちょっと手が空いたからスコーン焼いてみたんだけど」
「……食べる。手、洗ってくるね」
「うん」


 通りで部屋中に甘い匂いが立ち込めていると思った。俺の緊張とは裏腹に、兄ちゃんのあの独特な掴みどころのない雰囲気に一目でのまれてしまった。俺は言うタイミングをすでに一つ逃した。リビングへ行くとアップルティーが二つとスコーンが並べられている。それもチョコチップが入った。


「兄ちゃん器用だね。何時間かかったの? これ……」
「え? 混ぜるだけだよ。……ん、おいしい」
「へえー……」


 料理に疎い俺には、その『混ぜるだけ』という言葉はひとつも信用ならなかった。


「こんなに食べられないか。明日のおやつに持っていったら?」
「うん……」


 明日の講義。今の俺にとってそんなに気が重たくなる言葉はない。明日行けば、必ず奴がいるとわかっているから。


「兄ちゃん……」


 言おう。

 兄ちゃんの口からなにか聞きたい。でも、恋人だった? とは聞けなかった。


「ん?」
「兄ちゃん。中国人の知り合いって、いる?」
「中国人……。……さぁ……どうかな……」


 こんな時俺の勘は頼りにならない。そうな気もするし、違うかもしれない。それに兄ちゃんは仕事上世界中に知り合いがいてもおかしくはない。


「どうして?」
「なんとなく……」
「変なの」


 兄ちゃんの分の皿に置いてあったスコーンは、俺が思考を巡らせている間にあっという間になくなってしまっていた。
 




「よっ。待ってたぜ」
「……」
「不審に思われるかもしんねーから、ほら。ノートとペン」


 いつも俺が座る席の隣にその男はもう座っていた。今までは持っていなかったトートバッグを空いた椅子に置いている。俺はあまり話したくなくて、講義が始まるギリギリに来たのに男はそんな俺にお構いなく喋り続けた。


「……俺ここの学生じゃないから。あんまり目立ちたくないんだけど」


 そういう柄が好みなのか、孔雀の羽のような幾何学模様のような何色かもわからないような派手な柄のシャツ。俺なんてこんなにシンプルな格好なのに。


「あっそ。俺だって授業中は喋らねえよ。ほら、これ」


 男が手に握っていたものをコトリと俺の前に差し出した。無線のイヤホンだった。


「なに……」
「つけろ。今日のノートは俺がとってやるよ」
「は……?」


 教授が点呼を始める。いつも、後ろの俺の前でそれは終わる。それから講義が始まるのだ。でも今日は点呼の途中で男が立ち上がって教授に声をかけた。


「すみません! 今日のプリントもらえますか」


 前の席の学生数十人がちらほらこちらを振り向く。一番後ろの子が二枚プリントを持ってきた。それを男が受け取り、一枚ずつ机に並べた。


「ありがとう」


 目立ちたくないと、言ったのに……。


「つけろ。何回も言わせるなよ。次はもっと目立っちゃうかもな?」
「わかった……」


 俺の講義を受ける妨害がしたいのか? ただの嫌がらせか……。


 俺は男を一瞥した。机の上にいつものように講義を受ける準備をして、目の前の黒いイヤホンをひとつずつ耳にはめた。


 周りのノイズが聞こえない。俺が男を見ると、今度は携帯を取り出して俺の前に置いた。画面をトントンと軽く人差し指で叩く。これを見ろということだろう。


「……」


 講義はもう始まっている。男は本当にノートをとっているのか、静かに前を向いたりペンを動かしたりしていた。しばらくすると、暗かった画面が明転した。


「……っ!」


 画面には男が一人。あられもない姿の、今俺の隣にいる男が映った。男はなにも纏わず高い平均台のような台に足を伸ばした状態でうつ伏せている。天井から落ちる鎖と、頭より上にある両手首に巻かれた皮製の手錠が彼を拘束していた。カメラは男の後ろ、やや左側で撮影しているようだ。ざり、ざり、と床を歩く音が聞こえる。画面の外から画角内にもう一人、上半身裸の男が映った。


 紛れもなく、兄ちゃんだった。


「……、……っ」


 ごくりと唾を飲む。まさか。


『はあ、はあ……』


 身動きをとり辛そうな動けない男の周りを兄ちゃんがゆっくり歩いている。その手に細いヒモのような物を持ちながら。兄ちゃんは、男の右側で止まったと思ったらその手を振り下ろした。


『ああっ!』


 しなやかに形を変えたそれが男の臀部で軽快な音を放ち、画面の中の部屋に響いた。


『うっ……』


 男は縛られた両手をキツく握りしめ、その痛みに耐えているようだ。カシャ、と鎖が捩れその音が鳴る。兄ちゃんはもう一度同じ動作をすると、間髪入れずに何度も腕を左右に振った。


『あっ! あっ! ……っぐ、ああっ……!』


 痛みにブルブルと男の内股が震えている。兄ちゃんが鞭を振うたび、その跡が痛々しく男の肌に形どられていった。

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