フェールの花-価値のない王子は完璧な王に愛される-

淡海のえ

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フェールの花-価値のない王子は完璧な王に愛される-

第5章・謝意 30 フェールに戻る道

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 衣装箱から出してもらえたのは、アニタを出てだいぶ経ってからだった。図書室に行ったのは昼食の後だったが、いまはもう日が傾いて薄紫色に染まり始めている。

「どうぞ」

 外から聞こえる音や声に集中していたが、鍵を解いて蓋を開けたのがリンクスだったことに驚く。図書室から出てすぐに別行動を取ると言っていたが、合流したのがいつかわからなかった。

 きっとすでにアラガスタの城では、クライスがいなくなったことに気づいているだろう。正直、ここまで何の問題もなく来たことが不思議だった。

 そもそも城から簡単に出られたことが、おかしいのだ。けれど箱がどこに縛られていたのかを見て、全てが理解できた。

 コールはフェールから使者が来たと言っていた。目の前の馬車は、フェールの紋章が彫られた特別なものだ。

 兵士などが止めて、中を改めるようなことをすることができない。もしコールが馬車を止めたなら、話しは別だ。

 いくらフェールの紋章入りの馬車でも、アラガスタの王には逆らえなかっただろう。けれど馬車はコールに出会うことなく城を出て、同じ理由ですんなりとアニタを出たのだ。

「今夜はここで野営します」

 言いながら差し出された手を見て、一瞬嫌な顔をしてしまう。しかし箱から飛び降りるわけにもいかず、仕方なく素直に手を取る。箱の中に押し込まれていたせいか、体が固まってしまった違和感がする。

「ありがとう」

「いいえ。もうすぐ暗くなりますので、足元にお気をつけください」

 杖を渡されて、やっと自分の足で立つとほっとする。周りを見渡すと、木がまばらに生えているのがわかる。

 少し開けた場所に焚火の準備をしている者が一人。そして馬車のそばにもう一人。

 周りを警戒している者が五人いる。

「明け方前には馬車を捨てて、馬で出発するとのことです」

 いまのリンクスの言い方からして、どう行動するかの権限を持つ者が別にいるのがわかる。ガタンという大きな音がして、馬車の扉が開く。

 出て来た人を見ると、自然と嫌悪感が湧く。あの日、王籍を剥奪された謁見の間にいた貴族の一人だ。

「お久しぶりですな。クライス王子……いや、クライス様」

 わざと王子と呼んで訂正したのがわかる。

「……お久しぶりです。ザルドゥーク伯爵」

 フェールの西に位置するザルドゥーク領を任せられている伯爵で、名をポーリス・ホーセンという。間違いなく、どう行動するかの権限を持っているのは、ポーリスだろう。

「いやいや、前にもましてお美しくなられたように見えますなぁ」

 気持ち悪い視線に、吐き気すらしてきた気がする。なぜ父である王が、ポーリスを重用するのかわからない。

 絶対に触りたくないと思っても、握手を求められれば手を出すしかない。けれどポーリスがわざとらしく膝を曲げるのを見て、失敗したと思う。

 目的は握手ではなく、手の甲に唇を付けることだった。気持ち悪くて不愉快な気持ちが顔に出てしまう。

 しっかりと両手で掴まれた手は、放して欲しいのに全く抜けない。あぁ、嫌だと思う。

 自分で決断して離れたのに、コール以外に触れられたくない。衣装箱の中でも、少しでも油断するとすぐにコールのことを考えてしまう。

「では、食事にしましょう」

 離してくれる気がないのか、手を掴んだまま歩き出される。

「一人で歩けます」

「足場が悪いでしょう。お気になさらず、私に任せてください」

 すっかり育った火が揺れる暖かい場所に座らせられるが、心はどんどん冷えていっている。距離を取りたくて、身を離すのに、離した分だけ距離を詰められる。

 さらに酒の匂いが漂っている。馬車の中でもだいぶ飲んでいたのだろう。

 出された食事を食べている間はまだ良かったが、食事が終わると背中に触れられた。ポーリスが何を考えているのかわからなくて、怖くなる。

 まさか王は、コールではなくポーリスに自分を贈ろうとしているのか。

「しかしアラガスタの王などにあなたを贈るように仕向けるとは、クリース王子も馬鹿なことをしたものです」

 ただでさえ酔っているのに、ポーリスはどんどん酒を腹に入れていく。

「あそこまでしなければ、命だけは助かったでしょうに」

 言葉は頭の中に入って来るのに、意味を理解するのがとても難しく感じる。

「行方不明になっていると言いましたよね?」

「えぇ、言いましたよ。生死を確認することはもうできないでしょう。王の邪魔ばかりしてきた報いですよ」

「クリースはそんなことしていないはずです」

 確かに態度や素行などで悪い噂があったのは確かだが、父に背いた姿は一度だって見ていない。常に、クリースは忠実な王位継承権を持つ王子だった。

「はは、あなたは本当に素晴らしい従者と弟に恵まれていたらしい」

 酒に酔って真っ赤になった顔を醜く歪めながら、陰湿な笑い声が響かせている。

「あの男は常に王にとって邪魔な存在でしたよ」

「不敬罪だとわかって言っていますか」

 あの男などと、クリースに対して使っていい言葉ではない。

「死んだ者は何も言わないでしょう」

「クリースは生きています」

「そう信じたいなら信じていたらいい」

 にやにやと笑うポーリスを殴りつけたいという衝動と必死に戦う。

「本当ならあと五年は早く昇りつめられたものを、あの男のせいで邪魔されたのです。死んだとわかった時は、本当に震えるくらいに嬉しかったですよ」

 できるなら今すぐ口を塞いでやりたい。

「クリースが何をしたって言うんですか」

「あの男は本当に頭が良すぎたのです。何でも完璧にこなせるだけの知恵があるのに、わざと手を抜くんですよ。あなたの価値を低め過ぎないように」

「僕の価値?」

 全く意味がわからなくて困惑する。価値なんて言葉とは、生まれてからずっと無縁だったはずだ。

 常に無価値であるということを、教えられるように育った。左足首が上手く動かず、七歳の時には病にかかり、高熱で生死をさ迷った。

 王族にとって健康であることは、とても大事なことだ。さらに七歳から前の記憶は、高熱のせいで曖昧になった。

 王妃であった母の顔さえ、残っていた肖像画でしか思い出せない。だからクリースといつから仲違いしてしまったのかも、はっきりしなかった。
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