異世界は音楽と共に

第8話 演奏終了

静寂がバーを包む中、奏は深く息を吸い、目を閉じた。ライラ・ハールストンの冷たい視線、周囲の客たちの緊張、すべてを意識の外に追いやった。

頭の中には、あの懐かしい旋律が流れている。何度も練習して失敗した名曲。

この曲を弾けるようになるまで、かなりの年月が流れた。どんなに苦しい時でも、あの曲を聴けば勇気が湧いてきた。今、この異世界で、自分を奮い立たせるために必要なのは、まさにこの曲だ。

鍵盤に指を乗せる。

月光第三楽章ピアノソナタ　ヴェートーベン。

最初の音が静かに響いた。細い糸を紡ぐように繊細で、それでいて何かを予感させる緊張感が漂う。奏の指は鍵盤を滑るように動き、流れる旋律が空間を満たしていく。

次第に、演奏は熱を帯び始めた。軽やかなパッセージが風のように駆け抜け、音の波が押し寄せる。穏やかなフレーズと力強い和音が交互に繰り返され、聴く者の心を掴んで離さない。

「負けない――俺は、この音で証明する！」

指先に込めた思いが、音になって炸裂する。強弱のコントラスト、滑らかな流れ、情熱的なリズム。そのすべてが絡み合い、ひとつの壮大な物語を紡いでいく。

客たちは息を呑んだ。こんな音楽、今まで聞いたことがない。

「な、なんだこの曲は……？」

「すごい……心が震える……」

重厚な旋律に酔いしれ、誰もが目を閉じ、奏の音楽に没頭している。まるで別世界に引き込まれたかのように、時間が止まったような感覚に包まれる。

ライラ・ハールストンも呆然とピアノを見つめていた。挑発しに来たはずが、目の前の少年の演奏に圧倒され、言葉が出ない。

「こんなの……ありえない……」

貴族にしか許されないはずのピアノの演奏。それを、下民が、まるで超一流の音楽家のように弾きこなしている。

最後の音が静かに消え、バーに再び静寂が訪れた。

一瞬の沈黙。そして、次の瞬間、店内は拍手と歓声で揺れた。

「凄いぜ！」

「すごい演奏だ！」

「こんなピアノ、聞いたことない！」

客たちは興奮し、誰もが奏の演奏に心を奪われていた。その客たちとは対照的に、ライラは顔を引きつらせ、拳を握り締めた。

「なぜ……下民が……私にこんな演奏を聞かせるなんて……！」

悔しさと屈辱で唇が震える。耐え切れなくなったライラは、奏を睨みつけ、声を絞り出した。

「覚えてらっしゃい！」

その言葉を吐き捨てると、手にしていた金貨の入った袋を床に叩きつけた。袋は破れ、金貨が床に散らばった。

ライラはガレスが何か言おうとするのを無言で遮り、踵を返して店を出ていった。

静寂が戻ったバーに、ガレスは苦笑しながら散らばった金貨を拾い集めた。

「……こんなに受け取れないって言おうとしたんだがな。」

奏は不安そうにガレスを見た。

「俺、やばいことしちゃっいましたか？」

ガレスは金貨を手にし、ため息をついた。

「ああ、たぶんやばいな。ライラ・ハールストンを怒らせたんだ。これから色々と面倒が起きるかもしれん。」

しかし、ガレスはふと口元に笑みを浮かべた。

「でも……良い演奏だった。お前の音は、確かに奴の鼻をへし折ったよ。」

奏は深く息をつき、心の中にわずかな達成感を感じた。