短編集

のどか

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深淵の先の世界で微笑む

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 彼女はとても美しいひとだった。
 容姿だけではなく心根がとても美しいひとだった。
 世界の、神の、精霊たちの祝福を受けた存在。
 この世で最も高潔で美しいひと。
 それが彼女だった。
 慈しみに満ちた瞳で優しく微笑む聖女。
 そんな彼女を世界は、神は、精霊たちは愛した。
 人々も彼女を慕い、愛していた。
 そのはずだった。

「この世界の為に死んでくれ」

 彼女は微笑んで頷いた。
 全てを諦めたように、全てを許すように、ただ静かに。

 愚かしい人間どもは自らの罪を当たり前のように彼女に押し付けた。
 世界は秩序を守る贄に彼女を選んだ。
 神は彼女を犠牲にすることを良しとした。
 精霊たちは保身のために彼女を人柱にした。

「こわい、こわいよ」

 美しい滴が雪のように白い頬を伝う。 

 彼女の義性の上に成り立つ世界にどれほどの価値があるだろうか?
 光の世界に愛され、世界を愛し、慈しみ、祈り、最後にはその世界の為に死ぬことが彼女の運命だとでもいうのだろうか。
 彼の世界に彼女の死を阻むものがいないのなら我がなろう。
 愚かな人間どもよ。驕れる神よ。偽善に満ちた世界よ。
 そなたらが手放すというのなら、我が貰おう。
 あの美しいひとを。
 穢れのない魂を。

「死にたくない……」

 震える声が深淵を揺らす。
 待っていた。この瞬間《とき》を。

「穢れなき者よ。美しき人間の娘よ。我が手を取れ。
 我がそなたの死を阻むものとなろう」

 世界を慈しみ愛した彼女は、最期まで美しいままだった。
 恨むことも憎むこともせずに。
 ただただ、無垢の魂で微笑んでみせた。

「そうか。それがそなたの答えか。……ならば、奪うまでだ」

 見開かれた瞳にうっとりと笑う。
 胸元まで沈んだ深淵から強引に彼女を引き上げた。

「この闇夜の世界でそなたは自由だ。
 厭うも愛するも好きにすればいい」

 涙に濡れた澄んだ瞳が驚きに染まる。
 くしゃりと顔が歪んでポタポタと大粒の雫が滴った。
 小さな体を抱き込んで我は満ち足りた気分で息を吐く。

「もう、いい……?
 私、あたしに戻ってもいい……?」
「好きにせよ。聖女であるそなたなどもう見飽きたわ」

 不思議そうに首を傾げた彼女に小さく笑う。
 こんな顔もするのか。幼いな。

「よく、頑張った。褒めてやろう」

 今度は幼子のように声を上げて泣き始めた彼女を抱えて城に戻る。
 いつの間にか腕の中でスピスピと寝息を立て始めた彼女をひと撫でして水鏡の前に立つ。
 さぁ、聖女のいなくなった世界はどうなるのか。
 滅べばいい。
 異界から聖女に成り得る魂を強引に連れてきては祭り上げ、穢れの全てを聖女の死をもって浄化させるような世界など。
 滅べばいい。
 そう思い続けながらも動かなかった我を動かした今代の聖女。
 今までと何が違うのかと聞かれれば分からないとしか答えられない。
 けれど、我を動かしたからには生きてもらわねばならない。
 醜くも美しい闇夜―――人ならざるモノたちの世界で。
 そして、いつか―――――……。



深淵の先の世界で微笑む
(心からの笑顔を)

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