夢幻の花

喧騒の花婿

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FILE4『ベートーヴェン・シンドローム』

8・リフレイン

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 裏庭には、たくみがすでに着いており、上履きのまま外に飛び出していた。下級生たちが怯えながら遠巻きに取っ組み合う様子を眺めている。


「ここにいると危ないから、教室に戻って」


 俺は近くにいた下級生に声をかけると、下級生は頷いて身を翻した。


 そして、たくみがいればこの場は大丈夫だと判断し、俺は先生を呼びに職員室へ行こうか迷った。


「佐久間、またお前かよ! 周りに迷惑をかけるなよ」


 たくみの大声が聞こえ、辺りに響き渡った。たくみの良く通る凛とした声は、俺の右耳から脳に響き渡ったようだった。


 たくみの声に俺はふと我に返った。あの二人を一緒にしたら駄目だというクラス内での取り決めを思い出したからだ。俺もたくみ同様、上履きのまま裏庭の土を踏みしめていた。


「お、旦那の登場か」


 佐久間がにやにやと俺を見てわざと大きな声で言った。俺はそれを無視して尻もちを付いていたハルカの元に行き、手を差し出した。


「大丈夫?」


「……ああ、私は大丈夫だ」


 ハルカは俺の手を取って立ち上がった。


「たくみは先生を呼びに行って」 


 俺の声がたくみには届いていないのか、俺たちの前方に立ち、佐久間に対峙した。俺とハルカを佐久間の視界から遮っているように感じた。


「たくみ、聞いてる?」


 俺の問いかけに耳を貸さず、たくみはじっと佐久間を見ていた。さすがに痺れを切らしたのか、佐久間がたくみの肩を押した。体格の良いたくみは、少しよろけただけで踏みとどまった。


「どけよ、転校生。お前には関係ない」


 たくみは再び佐久間を見据えると、ゆっくりとした動作で佐久間に口を開いた。


「女の子に手を出したな」


 静かに呟くたくみの声は、風に乗ってしんと静まり返った中庭に凛と響いた。隣でハルカがハッと息を呑むのがわかった。
じっと佐久間を見据えたたくみは、一度拳を握りしめしばらく考えているようだったが、やがて静かに拳から力を抜いた。


「は? こんなオトコオンナ、女子じゃないだろ!」


 佐久間は笑いながらそう言うと、たくみに向かって拳を振り上げた。


「やめろ!」


 ハルカの叫ぶ声も空しく、鈍い音がしてたくみが中庭に投げ出された。ぼんやりとそれを眺めていた俺は、今の音はシのフラットだったなと場違いなことを考えていた。


 たくみは一切抵抗しなかった。


 たくみが手を出してこないのを良いことに、佐久間と二人の腰ぎんちゃくはたくみに跨って何度も顔や身体を殴っていた。鈍い音だけが痛々しく静まり返った裏庭に響く。


 ハルカが青ざめてその場を止めに入ろうとしたため、俺はようやく我に返ってハルカに叫んだ。


「先生を呼んでこい、ハルカ! 早く!」


「駄目だ」


 俺の叫び声に思いの外冷静な声が響いた。気付くとハルカが俺を真っ直ぐ見ていた。


「君が行け、司。指に怪我でもしたら取り返しが付かなくなるぞ。私がこの二人を止めるから、その間に急いで先生を呼んできてくれ」


 俺はそれを聞いてカッと頬が熱くなるのを感じた。守られてどうするんだ、と思った瞬間、ハルカを押し退けて佐久間の背後からタックルを仕掛け、たくみから引きはがした。


 思わぬ反撃を受けたからか、佐久間は俺を一瞬驚いたような目で見て、それから俺に向かってきた。殴られると思った瞬間、情けないことに目を瞑ってしまった。


 俺はたくみのように正義感が強くなく、ハルカのように勇敢でもない。ただ後ろでじっとして、嵐が去るのを待っている事なかれ主義で、こんな俺の側にいてくれる二人はかなり奇特だと思っている。


 女々しいと佐久間に言われたが、それは本当のことで、だからと言って反論できるような雄々しさはなかった。


 けれど卑怯で情けない俺は、それすらも受け流しながら生きてきた。


 ハルカは俺の指を気にして行動し、たくみはハルカを助けようとして佐久間に向き合っている。


 そんな二人とは対照的に、ただ足が震えてその場に立ち尽くす俺は、この二人に守られる価値なんてない。


 以前ならば、躊躇いなく自分の指を守るために先生を呼びに行っただろうが、霧島 サクヤの演奏を聴いてしまった今、俺の指に何の価値もないことを悟った。


 ならばせめて大切な人を守るために指を壊すならそれはまた名誉ではないか。壊れたならば体の良い言い訳にだってなるかもしれない。


 佐久間が拳を振り上げ、俺の腹部を殴った。胃が逆流するかのような激痛が走り、俺はお腹を押さえてその場に蹲った。


「弱いなあ、女々しい柏木は」


 ニヤニヤと笑った佐久間は、俺に照準を合わせることにしたのかもう一度拳を振り上げて俺の腹を殴った。


 俺は辛うじて踏みとどまると、佐久間に向かって右手拳を振り上げる。


「やめろ、司!」


 悲鳴に近いようなハルカの声に、俺は逆に奮起した。指が折れたっていい、霧島 サクヤにはこんなこと絶対にできないはずだ。


「司!」


 ふとたくみの大きな声が聞こえたと思ったら、俺の方へ走ってきて俺の振り上げた手を掴んだ。体格が良いたくみの力は俺の何倍もありそうで、掴まれた手首に痕が付きそうだった。


「離せ、たくみ!」


「嫌だ! お前の指をこんなくだらないところで武器にしてどうするんだ! 司の指は人を傷つけるものじゃない、人の心を震わせるものだろう!」


 ヒュッと自分の喉が鳴ったのをどこか他人事のように聞いた。たくみの言葉に頭を殴られたような衝撃を受けた。


 傷だらけになりながら必死に俺を止めるたくみに、俺は呆気にとられてしまった。気を落ち着かせてたくみの顔を見ると、傷と痣だらけで左耳からは血がだらだらと垂れていた。


 それを見て俺は全身がザワッと逆立つ感覚を覚えた。じんましんが出てくるのがわかり、寒気が体の内から湧き出している感覚が襲った。


 地面が突然ふわふわと雲の上に立ったような錯覚に陥る。風景がぐるりと回っているようだ。耳鳴りがしたが、空耳だろうか、ベートーヴェンのピアノソナタ悲愴がぼんやりと聞こえてくる。昨日聴いてから眠りに就いたからだろうか。


 気が遠くなる瞬間に見えたのは耳から血を流しているたくみと、こちらを見て何かを叫んでいるハルカの顔で、まるでフラッシュバックをするかのように目の前が真っ白になった。そして半身に痛みが伴ったと思ったが、それ以降俺の意識はぷつりと途絶えた。


FILE4 終わり
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