夢幻の花

喧騒の花婿

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FILE5『ベートーヴェン・アレルギー』

1・司と仙石

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「私は無鉄砲だと司に良く忠告されていたのに、また失敗をしてしまったな」


 ぽつりと話し始めたのは仙石だった。病院のベッドで眠っている司を見下ろしながら、仙石はため息をついた。


 痣だらけの顔ではあったが、それほど大した怪我ではなかったぼくは、すでに手当てをしてもらって仙石と同じように気絶をしている司を見下ろしていた。


 倒れたときに頭を打った司は気絶してしまっていたし、殴られた腹部の内部がどうなっているかもわからなかったから、中川先生が判断してすぐに救急車で運ばれて行った。


 付き添いで一緒に乗った中川先生は、今医師の話を聞きに行っている。ぼくと仙石も一応ということで救急車に乗り込み、診察を受けた。


「それより大谷くん、耳から大量の血が出ていたけれど大丈夫かい?」


「ああ。耳の中じゃなくて、耳たぶの丁度下あたりが切れただけだから」


 ぼくの怪我は見た目ほどすごいものではなかったようで、中川先生には怒られたが怪我の度合いに関しては安心された。


 ぼくよりも司の方が心配だった。殴られた腹部の具合もそうだが、倒れたときに頭を打っている。指は大丈夫そうだったが、運動会はともかく日曜日のピアノコンサートは行けるだろうか。


「司は……この通り優しいだろう。私はそれに甘えて小さい頃から好き放題してきた」


「うん?」


 仙石がぽつぽつと話すので、ぼくは彼女を椅子に座るよう促した。「ああ、ありがとう」と言って仙石は椅子に座った。ぼくもそれに便乗して椅子に腰かけた。


「私はこのような性格だし、友達なんていらないと思っているから、あまり周囲のことを気にせず行動するんだ。それが無鉄砲と良く指摘を受けていたけれど、細かい部分のフォローは必ず司がしてくれた。だからそれほど人と外れずに今まで過ごせた。幼稚園の……いや、生まれたときからきっとそうだったのだろうな」


 ぼくは仙石の方を向いた。彼女は手をクロスさせながらじっと司の方を見ていた。


「小学一年生の頃、私は学校でも問題児として有名な三年生の男子に絡まれたことがあった。その頃から背が高かったし、話し方も変だったし、まあ目を付けられやすい存在ではあったのだろうな」


 仙石はそう言うと赤縁の眼鏡をずり上げてぼくを見た。ぼくは聞いていることを示すように、ゆっくりと頷いた。


「私は長い髪が好きでね、当時良く腰の下まで伸ばしていた。君のクラスの山岡さんより、もっと長かったんじゃないかな」


「へえ、意外。想像がつかないや」


「そうかい? これでも私は髪が自慢なのだよ」


 言われてみて良く見たら、ショートカットにはしていたが、確かに仙石の髪は綺麗だった。黒髪に艶があり、まるで烏の濡れ羽色のように美しい。


「うん……良く見ると確かに綺麗だな」


 仙石の髪を見つめながら言うと、仙石は驚いたようにぼくを見て少し顔を赤らめた。綺麗なんて言ったからだろうか。そんな風に照れられるとぼくも何だかムズムズしてしまう。


「で、好きで伸ばしていた自慢の髪を、その三年生の男子に切られてしまったんだ。生意気だという理由でね」


「えっ……」


「私がいないことを不審に思った司が探しにきてくれて、丁度切られた後の現場を見られてしまった。私はそれまで多少なりとも長い髪に自信を持っていたため、短く切られたことがショックでね。大声で泣いてしまったのだよ。今思えば一生の不覚だな」


 仙石は頭をかきながら照れたように笑った。そんなことで恥ずべきことではないと思うけれど、仙石の感覚ではそうなのだろうと思った。


「男子はハサミを持ちながら切られた私の長い髪を持ち、まるで戦利品かのように頭上に掲げていた。司は滅多に泣かない私が泣いているのを見て、キレた」


 仙石はため息をつきながら言葉を切った。ぼくは眠っている司の顔を一瞥した。


「司は上級生のハサミを奪い取ろうと、走って向かった。私は驚いてその光景を見ているだけしか出来なかった。体格差は歴然としていて、上級生はハサミを司に取られないよう、振り回したんだ。その際、司の左耳の中にハサミが当たり、今の君のように血が流れてしまった。大谷くんは耳の側だが、司は耳の奥を切った」


「え……」


 ぼくは絶句してしまい、何を言ったら良いのか思い浮かばなかった。


「司は当時のことを思いだしたんじゃないかな。突然気絶したのは、大谷くんの耳の怪我を見てからだった」


「待って、治っているんだろ?」


「ああ、問題なく両耳聞こえるはずだ。けれど、幼い頃の記憶というのは、わりと恐怖心となって自分の心の核に植え付けられているものだよ。私も恐らく二度と髪を長く出来ないだろうね」


「仙石……」


 何でもない風に話してはいるが、当時の恐怖は計り知れないものがあっただろう。仙石は無理に乗り越えようとはせず、ただ流れのままにいることを選んだのかもしれない。それもまた一つの昇華の仕方だとぼくは思った。


 赤ん坊の泣き声が聞こえたと思った瞬間、病室に一歳くらいの赤ちゃんを抱えた女性が慌てた様子で入ってきた。


「おばさん」


 仙石が立ち上がりながら呟く。その様子を見た女性は「ハルカちゃん」と上ずった声を上げ、一直線に司の寝ているベッドを覗き込んだ。

1.続く
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