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FILE5『ベートーヴェン・アレルギー』
5・団欒
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「おじゃまします」
ぼくは演奏会が終わった後、柏木家に遊びに行くことになった。花束をあれだけ派手に渡した彼は一体誰なんだ、お礼をしたいからうちに連れてきなさい、と柏木家の皆が言ったそうで、司の申し訳なさそうな申し出にぼくが応えた形なのだが、実際友達の家に誘われるとかなり嬉しかった。
仙石は「私はいつも行っているから今回は遠慮しておくよ」と言って隣の家へと帰って行った。
司の家は住宅地にある一軒家のうちの一つで、両親と子供四人の六人家族だそうだ。お母さんはノイローゼ気味で自分の実家に帰っていたのだが、今回の司と佐久間とのやり合いで考えを変えて家に帰ってくることにしたそうだ。
テーブルに紅茶を淹れて出してくれ、千奈津ちゃんをあやし始めた。
「あなたが転校生のたくみくんね、いつも司から話は聞いてるわ。初めまして、姉の皐月です」
「初めまして。大谷 たくみと言います。司くんにはいつもお世話になっています」
にこにこと感じの良い司に似た中学生の皐月さんが、ぼくを見て挨拶してくれた。隣に座っている無口な感じの高校生のお兄さんは、京悟くんというらしい。雰囲気が司にそっくりだった。
家族内ならば耳のことを聞いても差し支えはないかもしれない。詮索されるようで嫌だろうか。でもそのことを知っていたら、何か司の助けになることも出来ないだろうか。
色々考えたけれど、初対面の男に耳のことをずけずけと言われたら嫌な気持ちになると思って、聞くのは止めることにした。今度司と二人きりのときにそっと聞くくらいなら許されるだろうか。色々考えてから発言しなければならないとなると、判断が難しいことに気が付いた。
ふと皐月さんがぼくをじっと見つめていることに気が付いた。
「ええと、何でしょうか」
「たくみくん、大谷って言うの? もしかしてお兄さんとか、いたりする?」
「あ、はい。涼太っていう兄がいます」
「きゃー!!」
突然皐月さんが大きな悲鳴を上げたと思ったら、椅子から立ち上がってその場でクルクルとターンした。
「え、何?」
ぼくが司を見ると、肩を竦めて首を傾げている。
「ごめん、変な姉で。いつもこうなんだよ」
すると京悟くんが紅茶をゆっくりと飲んだ後に低い声で呟いた。
「もしかして野球部エースの弟くんか?」
「そう、絶対そうよ! だって顔とか雰囲気がそっくり!」
「苗字も同じなんだろ」
「そうなのよ! お兄ちゃんさすが、良くわかったね!」
二人の会話に、司は納得したように「ああ」と疲れたような声で呟いていた。どうやら皐月さんは二学期から突如現れた野球部のエースピッチャーに憧れているらしい。確かにぼくの兄は野球しか頭にないような野球バカだし、ピッチャーをしている。無口だし普段部活部活で帰宅が夜八時以降なので、これほど見てくれている人がいたとは弟として驚きだった。
「うそでしょ、もっとお洒落すれば良かった! たくみくん、私のこと変に思わないでね。いつもはこうじゃないのよ」
「うん、そうだよな。いつもはジャージ着てるし、お菓子のカスそこら辺に落とすし、司に弾きたくない曲を強要するしな」
「ちょっとお兄ちゃん!」
「ははは」
破顔した京悟くんの印象がクールとは違うし、叩く真似をしている皐月さんはどこか道化を演じているような気遣いを感じた。
司はこんな素敵な兄姉に囲まれて穏やかに育ったんじゃないか、とぼくは何だか感慨深かった。これだけ明るい家族なら、仄暗い司の負の感情をきっと払拭させてやれる。司にはこんなに楽しく気遣いに溢れた家族がいる。サクヤくんにはないものだ。
霧島家はギスギスしていた。比べるものじゃないけれど、人それぞれの良さがあるんだから、司は司らしくこのままピアノを続けて欲しい。それをどうか伝えたいと思った。
「司、良かったら一曲弾いてくれない? おれ司の演奏、すごく好きだよ」
ぼくはリビングに備えられているピアノを指差して言った。司の家にはピアノが二台あるそうで、二階の防音室にもあるらしい。ここにあるピアノは日中や家族が聞きたいときに弾くそうだ。
「いいよ、何がいい?」
リクエストを聞いてくれているのに申し訳ないが、ぼくはあまりクラシックの曲を知らない。知っているのは、今日聞いた曲と、それから確か……サクヤくんが得意としている……
「月光って、弾ける?」
「ん? 月の光? ドビュッシーかな?」
ピアノの椅子に腰かけながら、司はぼくを見て不自然に笑った。そんな司の様子を見て、京悟くんが静かに声を出す。
「組曲じゃなくてピアノソナタの方だと思うぞ」
「ベートーヴェンの月光でしょ、たくみくん?」
組曲だとか、ピアノソナタとかは良くわからなかった。でもベートーヴェンだということは知っていた。
「ベートーヴェンだよ」
「ほらね」
二人は騒ぎ立てたが、司は少し唸ると首を捻る。
「悪いたくみ。俺、ベートーヴェンの曲弾けないんだ」
「そうなの? じゃあ違うのでいい。司の一番得意な曲」
兄姉は、顔を見合わせてピタリと静かになり、ぼくを見た。司も驚いたようにぼくを見ている。
「え、何?」
「別れの曲を弾けて、月光が弾けないんだよ。おかしいよね、司くんって」
「ごめんなさい、おれ難易度とかわからないから」
どうやら別れの曲の方が難しいらしい。司は兄姉の態度を見て、深くため息をついていた。
「たくみ、俺理由はわからないけど、ベートーヴェンの曲だけが弾けないんだ。弾こうとするとじんましんが出たり、アレルギー反応が出るから弾くのを控えてる」
「……え、そうなんだ」
ベートーヴェンだけにアレルギー反応が出るということなのか?
特定の曲を弾いてアレルギー反応が出るなんて聞いたことがなかった。
ぼくは思わず考え込むように顎を手で押さえてしまった。そんなぼくの様子に慌てたのか、皐月さんが明るく声を上げる。
「変だよね、司くんって。じゃあ私がリクエストしちゃおうかな! 私と大谷 涼太くんと、たくみくんの運命の出会いに、喜びを!」
「おい、運命か歓喜の歌をリクエストする気じゃないだろうな」
「ふふふ、何でもお見通しね、お兄ちゃんは」
「皐月はいい加減ベートーヴェンをリクエストするのはやめろ」
ぼくは結局、ドビュッシーの月の光を弾いてもらうことにした。司が弾いている間、兄姉は先ほどの喧騒が嘘みたいに驚くほど静かに耳を傾けて聞いている。
深い深い胎内に守られているような、重厚な音程がぼくらを包み込む。別室にいた千奈津ちゃんが寝入ったのか、司のお母さんもこちらに来て耳を傾けた。スローテンポの曲が司には似合うと思った。
5.続く
ぼくは演奏会が終わった後、柏木家に遊びに行くことになった。花束をあれだけ派手に渡した彼は一体誰なんだ、お礼をしたいからうちに連れてきなさい、と柏木家の皆が言ったそうで、司の申し訳なさそうな申し出にぼくが応えた形なのだが、実際友達の家に誘われるとかなり嬉しかった。
仙石は「私はいつも行っているから今回は遠慮しておくよ」と言って隣の家へと帰って行った。
司の家は住宅地にある一軒家のうちの一つで、両親と子供四人の六人家族だそうだ。お母さんはノイローゼ気味で自分の実家に帰っていたのだが、今回の司と佐久間とのやり合いで考えを変えて家に帰ってくることにしたそうだ。
テーブルに紅茶を淹れて出してくれ、千奈津ちゃんをあやし始めた。
「あなたが転校生のたくみくんね、いつも司から話は聞いてるわ。初めまして、姉の皐月です」
「初めまして。大谷 たくみと言います。司くんにはいつもお世話になっています」
にこにこと感じの良い司に似た中学生の皐月さんが、ぼくを見て挨拶してくれた。隣に座っている無口な感じの高校生のお兄さんは、京悟くんというらしい。雰囲気が司にそっくりだった。
家族内ならば耳のことを聞いても差し支えはないかもしれない。詮索されるようで嫌だろうか。でもそのことを知っていたら、何か司の助けになることも出来ないだろうか。
色々考えたけれど、初対面の男に耳のことをずけずけと言われたら嫌な気持ちになると思って、聞くのは止めることにした。今度司と二人きりのときにそっと聞くくらいなら許されるだろうか。色々考えてから発言しなければならないとなると、判断が難しいことに気が付いた。
ふと皐月さんがぼくをじっと見つめていることに気が付いた。
「ええと、何でしょうか」
「たくみくん、大谷って言うの? もしかしてお兄さんとか、いたりする?」
「あ、はい。涼太っていう兄がいます」
「きゃー!!」
突然皐月さんが大きな悲鳴を上げたと思ったら、椅子から立ち上がってその場でクルクルとターンした。
「え、何?」
ぼくが司を見ると、肩を竦めて首を傾げている。
「ごめん、変な姉で。いつもこうなんだよ」
すると京悟くんが紅茶をゆっくりと飲んだ後に低い声で呟いた。
「もしかして野球部エースの弟くんか?」
「そう、絶対そうよ! だって顔とか雰囲気がそっくり!」
「苗字も同じなんだろ」
「そうなのよ! お兄ちゃんさすが、良くわかったね!」
二人の会話に、司は納得したように「ああ」と疲れたような声で呟いていた。どうやら皐月さんは二学期から突如現れた野球部のエースピッチャーに憧れているらしい。確かにぼくの兄は野球しか頭にないような野球バカだし、ピッチャーをしている。無口だし普段部活部活で帰宅が夜八時以降なので、これほど見てくれている人がいたとは弟として驚きだった。
「うそでしょ、もっとお洒落すれば良かった! たくみくん、私のこと変に思わないでね。いつもはこうじゃないのよ」
「うん、そうだよな。いつもはジャージ着てるし、お菓子のカスそこら辺に落とすし、司に弾きたくない曲を強要するしな」
「ちょっとお兄ちゃん!」
「ははは」
破顔した京悟くんの印象がクールとは違うし、叩く真似をしている皐月さんはどこか道化を演じているような気遣いを感じた。
司はこんな素敵な兄姉に囲まれて穏やかに育ったんじゃないか、とぼくは何だか感慨深かった。これだけ明るい家族なら、仄暗い司の負の感情をきっと払拭させてやれる。司にはこんなに楽しく気遣いに溢れた家族がいる。サクヤくんにはないものだ。
霧島家はギスギスしていた。比べるものじゃないけれど、人それぞれの良さがあるんだから、司は司らしくこのままピアノを続けて欲しい。それをどうか伝えたいと思った。
「司、良かったら一曲弾いてくれない? おれ司の演奏、すごく好きだよ」
ぼくはリビングに備えられているピアノを指差して言った。司の家にはピアノが二台あるそうで、二階の防音室にもあるらしい。ここにあるピアノは日中や家族が聞きたいときに弾くそうだ。
「いいよ、何がいい?」
リクエストを聞いてくれているのに申し訳ないが、ぼくはあまりクラシックの曲を知らない。知っているのは、今日聞いた曲と、それから確か……サクヤくんが得意としている……
「月光って、弾ける?」
「ん? 月の光? ドビュッシーかな?」
ピアノの椅子に腰かけながら、司はぼくを見て不自然に笑った。そんな司の様子を見て、京悟くんが静かに声を出す。
「組曲じゃなくてピアノソナタの方だと思うぞ」
「ベートーヴェンの月光でしょ、たくみくん?」
組曲だとか、ピアノソナタとかは良くわからなかった。でもベートーヴェンだということは知っていた。
「ベートーヴェンだよ」
「ほらね」
二人は騒ぎ立てたが、司は少し唸ると首を捻る。
「悪いたくみ。俺、ベートーヴェンの曲弾けないんだ」
「そうなの? じゃあ違うのでいい。司の一番得意な曲」
兄姉は、顔を見合わせてピタリと静かになり、ぼくを見た。司も驚いたようにぼくを見ている。
「え、何?」
「別れの曲を弾けて、月光が弾けないんだよ。おかしいよね、司くんって」
「ごめんなさい、おれ難易度とかわからないから」
どうやら別れの曲の方が難しいらしい。司は兄姉の態度を見て、深くため息をついていた。
「たくみ、俺理由はわからないけど、ベートーヴェンの曲だけが弾けないんだ。弾こうとするとじんましんが出たり、アレルギー反応が出るから弾くのを控えてる」
「……え、そうなんだ」
ベートーヴェンだけにアレルギー反応が出るということなのか?
特定の曲を弾いてアレルギー反応が出るなんて聞いたことがなかった。
ぼくは思わず考え込むように顎を手で押さえてしまった。そんなぼくの様子に慌てたのか、皐月さんが明るく声を上げる。
「変だよね、司くんって。じゃあ私がリクエストしちゃおうかな! 私と大谷 涼太くんと、たくみくんの運命の出会いに、喜びを!」
「おい、運命か歓喜の歌をリクエストする気じゃないだろうな」
「ふふふ、何でもお見通しね、お兄ちゃんは」
「皐月はいい加減ベートーヴェンをリクエストするのはやめろ」
ぼくは結局、ドビュッシーの月の光を弾いてもらうことにした。司が弾いている間、兄姉は先ほどの喧騒が嘘みたいに驚くほど静かに耳を傾けて聞いている。
深い深い胎内に守られているような、重厚な音程がぼくらを包み込む。別室にいた千奈津ちゃんが寝入ったのか、司のお母さんもこちらに来て耳を傾けた。スローテンポの曲が司には似合うと思った。
5.続く
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