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第五噺『王の没落(後)』
一【家族】
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家族で仲良く食事をしている夢を見た。
父は相変わらず小さな角でへらへらと笑っていたが、美味しそうにご馳走の鯛を頬張っていたし、母は綺麗な黒髪を後ろに束ね、焔夜叉の角を優しく撫でながらお代わりの用意をしてくれた。
父と母と焔夜叉。仲良く笑って食事をしている幸せな夢だった。
目が覚めたとき、一瞬自分が地獄に落ちたのかと思った。だが、そこはどこかの小屋のようで、普段使われていないのか埃っぽい匂いがした。
暗がりの中から月明かりの光が差し込み、僅かに目が光を帯びて風景の輪郭が姿を見せた。
「ここは……」
身を起こそうとしたが、右腕に痛みが走り再び横になる。ふと横から声が聞こえた。
「動かない方が良い。毒が回っている」
盲目の琵琶法師だった。彼は気配でわかるのか、どうやったかは不明だが焔夜叉の右手に包帯を巻いてくれていた。
応急処置だそうだが、血が止まっただけでもありがたかった。
「私はどのくらい寝ていただろうか」
「半刻程だろう。狂犬病の犬に噛まれた人間は脳神経をやられて死に至るが、鬼は必ずしもそうではない。その代わり狂月病というものにかかってしまうそうだ」
狂月病というものは聞いたことがなかった。
焔夜叉がまだ回らない頭で考えていると、琵琶法師はゆっくりと口を開き教えてくれた。
「満月を見ると、理性を失い誰でも襲うようになる鬼特有の病気だそうだ。月夜草を煎じて飲むと解毒されるらしい。今、お主の仲間が月夜草を摘みに行っている」
「……仲間?」
鈴鹿御前だろうか、いや、そんなはずはない。
朦朧とする意識の中、焔夜叉はぼんやりと考える。
やがて何も考えられなくなって、再び眠りの中へと落ちていった。
「採ってきたよ、法師様」
小屋の戸を静かに叩き、淡い水色の髪の少女がそっと入ってきた。
琵琶法師は冷や汗をかいて息を荒くしている焔夜叉の汗を手拭いで拭ってやった。
「私はお主たちのように鬼の病気に詳しくはない。煎じて飲ませてやってくれ」
「全く、世話がやけるよ」
肩を竦めながら戸を閉め、くすんだ青髪の鬼も入ってきて、焔夜叉の顔を覗き込んだ。
「スクナ、月夜草を煎じて焔夜叉に飲ませてやってくれるか?」
青髪の鬼、春日童子は彼を起こさないよう、静かな声で妹に言った。
スクナは頷くと、すぐに煎じる準備に取り掛かる。
「法師様、人間なのに鬼を助けてくれたのはどうしてですか?」
スクナはそれがどうしても知りたかった。琵琶法師は唐笠を被りながら静かに言い放った。
「人間も鬼にも、お互い悪い部分はある。そして良い部分もある。それを許容し、譲歩し、尊重してこそ世界の歯車がかみ合うと私は信じているのだ。精神に人間や鬼の違いなどはない。綺麗な桜を見て感動せぬ者はおらぬだろう? それと同じことだ」
スクナはくすりと微笑むと法師に向かって「変わってるね」と笑った。
腕を組んで遣り取りを聞いていた春日童子は、琵琶法師に向かって声を出す。
「ところで、この赤鬼をこんなにした人間っていうのは、坂上という屋敷の主で合っているんだね?」
琵琶法師は頷いた。
「そうだが、仲間の復讐などはやめた方が良いぞ。あの家には狂犬病の犬がまだうようよしているからな」
春日童子はおとなしく頷く。あの強い焔夜叉の苦しんでいる顔を見ていると、複雑な感情がふと沸いてきたのだ。
琵琶法師に厚く礼を言い、彼も巡業があるということで小屋を去って行った。
人間のくせに分け隔てなく対応してくれた琵琶法師に、春日童子とスクナは親愛の情を込めて握手をしてから別れた。
お礼に鬼の金貨を渡したら、珍しそうに感触を確かめながら受け取っていた。
「スクナ、この状況を許せると思うか?」
珍しく声を抑えて怒りを露にした春日童子に、スクナは月夜草を煎じながら唸った。
「鈴鹿御前さんが人間側に寝返ったこと?」
「焔夜叉の気持ちを踏みにじって、その感情を利用したことだよ。同族を裏切った彼女にボクは腹を立てているんだ」
普段そこまで本気になって怒らない兄なのでこれほど怒っているのは珍しかった。
スクナは心の中で驚きを露にしたが、表面上は務めて冷静にしていた。
「ボクに同情なんかされたら焔夜叉が怒るだろうから、ボクらが彼を助けたことは秘密にしておこう。ただ、ボクはどうしても鈴鹿御前を一発ぶん殴らないと気が済まない」
「ちょ、ちょっと。鈴鹿御前さんは女性だよ。お兄ちゃんが殴ったら大変なことになるから、やめてね」
慌ててスクナが止めに入ったが、春日童子はそれでも頑として聞かなかった。
「男であるボクが女性に暴力を振るうことは確かに非難される元だろうけれどね。スクナ、ボクはそれでも男女の枠を取り払った信念があってもいいと思っているんだ」
「信念があってもいいけれど、この場合お兄ちゃんがすることじゃないよ。焔夜叉さんの役目だよ」
「焔夜叉はそんな状態じゃないだろう。だからボクが代行するんだ」
要するに、兄は焔夜叉の仇打ちをしたいということだろう。スクナは春日童子に反して、冷静になっていた。
「お兄ちゃん、ちょっと落ち着こうじゃないの。焔夜叉さんが起きちゃうよ」
春日童子は興奮しているようだった。スクナが宥めても収まりが付かないようだ。
「同族である鬼を色仕掛けで騙し、その報いを受けないで愛した人間と幸せに暮らすなどと、あり得ないだろう。スクナは焔夜叉を看ていてやってくれ。ボクはちょっと坂上家に乗り込んでくる」
「お兄ちゃん、それは余計なお節介だよ……」
スクナが止める間もなく、春日童子は小屋から勢いに任せて出て行ってしまった。スクナは天を仰いで大きなため息をついた。
「全く、男って……」
「……弱いくせに、馬鹿な鬼だ」
月夜草を煎じながら呟いたスクナだったが、突然焔夜叉の声が聞こえたので驚いて息を呑んだ。
「起きてたの?」
目を丸くして焔夜叉を覗き込んだスクナは、彼のあまりにも多い冷や汗に驚いて、慌てて手拭いで汗を拭いてやった。
鬼ヶ島の中でも強い鬼だと聞いていた焔夜叉の弱々しい姿に、スクナは拍子抜けしてしまう。
「大丈夫? 今月夜草を煎じている途中だから、出来上がったらすぐに飲んで」
「お前たちは何故ここにいる」
小さな声で呟く焔夜叉の側に近寄ったスクナは、座り込んだ。
「何故って……節分祭で邪気をもらいにきたに決まっているじゃない」
「私たちと同じ方角にきたというのか」
「そうよ」
「何故だ。この広い人の島で会うなど、おかしい」
「まあ、いいじゃない」
スクナは煎じ終わった月夜草を草で作った舟に淹れて彼の口元へと当てた。焔夜叉は僅かに口を開くと、それを飲み込んだ。
「お前たちのような鬼に同情されるとは、私も堕ちたものだな」
目を閉じながら静かに焔夜叉が呟いた。和らげて言ったのは、スクナに配慮したからかもしれない。
普段なら辛辣に、具体的に『お前たちのような鬼』の部分を事細かに話した筈だ。
「お兄ちゃんはどうか知らないけれど、正直言うと私はあなたに同情なんてしていないのよ」
スクナの言葉に、焔夜叉は僅かに目を開けてスクナを見上げた。
ふわりとした外見に似合わぬはっきりとした言葉に、焔夜叉は意外に思った。
「今まで他の鬼を格下に見ていたつけが回ったのかもしれないわね」
スクナは、兄や姉が焔夜叉にされてきた仕打ちを詳しくはわからない。
彼らは決してそういうことは話さないからだ。だが、焔夜叉の噂は違う場所から入ってきていたし、そこから兄や姉がされたことも耳に入ってきて知っている。
「つけか。はっきり言ってくれるな……」
話に聞いていた焔夜叉の印象とは遥かにかけ離れたこの弱々しい態度に、スクナは何も言わずに彼の汗を拭いた。
噂に聞く彼の態度とは、全然違っていると思った。
*続く*
父は相変わらず小さな角でへらへらと笑っていたが、美味しそうにご馳走の鯛を頬張っていたし、母は綺麗な黒髪を後ろに束ね、焔夜叉の角を優しく撫でながらお代わりの用意をしてくれた。
父と母と焔夜叉。仲良く笑って食事をしている幸せな夢だった。
目が覚めたとき、一瞬自分が地獄に落ちたのかと思った。だが、そこはどこかの小屋のようで、普段使われていないのか埃っぽい匂いがした。
暗がりの中から月明かりの光が差し込み、僅かに目が光を帯びて風景の輪郭が姿を見せた。
「ここは……」
身を起こそうとしたが、右腕に痛みが走り再び横になる。ふと横から声が聞こえた。
「動かない方が良い。毒が回っている」
盲目の琵琶法師だった。彼は気配でわかるのか、どうやったかは不明だが焔夜叉の右手に包帯を巻いてくれていた。
応急処置だそうだが、血が止まっただけでもありがたかった。
「私はどのくらい寝ていただろうか」
「半刻程だろう。狂犬病の犬に噛まれた人間は脳神経をやられて死に至るが、鬼は必ずしもそうではない。その代わり狂月病というものにかかってしまうそうだ」
狂月病というものは聞いたことがなかった。
焔夜叉がまだ回らない頭で考えていると、琵琶法師はゆっくりと口を開き教えてくれた。
「満月を見ると、理性を失い誰でも襲うようになる鬼特有の病気だそうだ。月夜草を煎じて飲むと解毒されるらしい。今、お主の仲間が月夜草を摘みに行っている」
「……仲間?」
鈴鹿御前だろうか、いや、そんなはずはない。
朦朧とする意識の中、焔夜叉はぼんやりと考える。
やがて何も考えられなくなって、再び眠りの中へと落ちていった。
「採ってきたよ、法師様」
小屋の戸を静かに叩き、淡い水色の髪の少女がそっと入ってきた。
琵琶法師は冷や汗をかいて息を荒くしている焔夜叉の汗を手拭いで拭ってやった。
「私はお主たちのように鬼の病気に詳しくはない。煎じて飲ませてやってくれ」
「全く、世話がやけるよ」
肩を竦めながら戸を閉め、くすんだ青髪の鬼も入ってきて、焔夜叉の顔を覗き込んだ。
「スクナ、月夜草を煎じて焔夜叉に飲ませてやってくれるか?」
青髪の鬼、春日童子は彼を起こさないよう、静かな声で妹に言った。
スクナは頷くと、すぐに煎じる準備に取り掛かる。
「法師様、人間なのに鬼を助けてくれたのはどうしてですか?」
スクナはそれがどうしても知りたかった。琵琶法師は唐笠を被りながら静かに言い放った。
「人間も鬼にも、お互い悪い部分はある。そして良い部分もある。それを許容し、譲歩し、尊重してこそ世界の歯車がかみ合うと私は信じているのだ。精神に人間や鬼の違いなどはない。綺麗な桜を見て感動せぬ者はおらぬだろう? それと同じことだ」
スクナはくすりと微笑むと法師に向かって「変わってるね」と笑った。
腕を組んで遣り取りを聞いていた春日童子は、琵琶法師に向かって声を出す。
「ところで、この赤鬼をこんなにした人間っていうのは、坂上という屋敷の主で合っているんだね?」
琵琶法師は頷いた。
「そうだが、仲間の復讐などはやめた方が良いぞ。あの家には狂犬病の犬がまだうようよしているからな」
春日童子はおとなしく頷く。あの強い焔夜叉の苦しんでいる顔を見ていると、複雑な感情がふと沸いてきたのだ。
琵琶法師に厚く礼を言い、彼も巡業があるということで小屋を去って行った。
人間のくせに分け隔てなく対応してくれた琵琶法師に、春日童子とスクナは親愛の情を込めて握手をしてから別れた。
お礼に鬼の金貨を渡したら、珍しそうに感触を確かめながら受け取っていた。
「スクナ、この状況を許せると思うか?」
珍しく声を抑えて怒りを露にした春日童子に、スクナは月夜草を煎じながら唸った。
「鈴鹿御前さんが人間側に寝返ったこと?」
「焔夜叉の気持ちを踏みにじって、その感情を利用したことだよ。同族を裏切った彼女にボクは腹を立てているんだ」
普段そこまで本気になって怒らない兄なのでこれほど怒っているのは珍しかった。
スクナは心の中で驚きを露にしたが、表面上は務めて冷静にしていた。
「ボクに同情なんかされたら焔夜叉が怒るだろうから、ボクらが彼を助けたことは秘密にしておこう。ただ、ボクはどうしても鈴鹿御前を一発ぶん殴らないと気が済まない」
「ちょ、ちょっと。鈴鹿御前さんは女性だよ。お兄ちゃんが殴ったら大変なことになるから、やめてね」
慌ててスクナが止めに入ったが、春日童子はそれでも頑として聞かなかった。
「男であるボクが女性に暴力を振るうことは確かに非難される元だろうけれどね。スクナ、ボクはそれでも男女の枠を取り払った信念があってもいいと思っているんだ」
「信念があってもいいけれど、この場合お兄ちゃんがすることじゃないよ。焔夜叉さんの役目だよ」
「焔夜叉はそんな状態じゃないだろう。だからボクが代行するんだ」
要するに、兄は焔夜叉の仇打ちをしたいということだろう。スクナは春日童子に反して、冷静になっていた。
「お兄ちゃん、ちょっと落ち着こうじゃないの。焔夜叉さんが起きちゃうよ」
春日童子は興奮しているようだった。スクナが宥めても収まりが付かないようだ。
「同族である鬼を色仕掛けで騙し、その報いを受けないで愛した人間と幸せに暮らすなどと、あり得ないだろう。スクナは焔夜叉を看ていてやってくれ。ボクはちょっと坂上家に乗り込んでくる」
「お兄ちゃん、それは余計なお節介だよ……」
スクナが止める間もなく、春日童子は小屋から勢いに任せて出て行ってしまった。スクナは天を仰いで大きなため息をついた。
「全く、男って……」
「……弱いくせに、馬鹿な鬼だ」
月夜草を煎じながら呟いたスクナだったが、突然焔夜叉の声が聞こえたので驚いて息を呑んだ。
「起きてたの?」
目を丸くして焔夜叉を覗き込んだスクナは、彼のあまりにも多い冷や汗に驚いて、慌てて手拭いで汗を拭いてやった。
鬼ヶ島の中でも強い鬼だと聞いていた焔夜叉の弱々しい姿に、スクナは拍子抜けしてしまう。
「大丈夫? 今月夜草を煎じている途中だから、出来上がったらすぐに飲んで」
「お前たちは何故ここにいる」
小さな声で呟く焔夜叉の側に近寄ったスクナは、座り込んだ。
「何故って……節分祭で邪気をもらいにきたに決まっているじゃない」
「私たちと同じ方角にきたというのか」
「そうよ」
「何故だ。この広い人の島で会うなど、おかしい」
「まあ、いいじゃない」
スクナは煎じ終わった月夜草を草で作った舟に淹れて彼の口元へと当てた。焔夜叉は僅かに口を開くと、それを飲み込んだ。
「お前たちのような鬼に同情されるとは、私も堕ちたものだな」
目を閉じながら静かに焔夜叉が呟いた。和らげて言ったのは、スクナに配慮したからかもしれない。
普段なら辛辣に、具体的に『お前たちのような鬼』の部分を事細かに話した筈だ。
「お兄ちゃんはどうか知らないけれど、正直言うと私はあなたに同情なんてしていないのよ」
スクナの言葉に、焔夜叉は僅かに目を開けてスクナを見上げた。
ふわりとした外見に似合わぬはっきりとした言葉に、焔夜叉は意外に思った。
「今まで他の鬼を格下に見ていたつけが回ったのかもしれないわね」
スクナは、兄や姉が焔夜叉にされてきた仕打ちを詳しくはわからない。
彼らは決してそういうことは話さないからだ。だが、焔夜叉の噂は違う場所から入ってきていたし、そこから兄や姉がされたことも耳に入ってきて知っている。
「つけか。はっきり言ってくれるな……」
話に聞いていた焔夜叉の印象とは遥かにかけ離れたこの弱々しい態度に、スクナは何も言わずに彼の汗を拭いた。
噂に聞く彼の態度とは、全然違っていると思った。
*続く*
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