●鬼巌島●

喧騒の花婿

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第五噺『王の没落(後)』

三【幻想】

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 春日童子は坂上家の冷たい廊下を歩いていた。


 屋敷に豆撒きをした後はない。ただ庭に大量の血が溜まっていただけである。


 焔夜叉が斬った犬たちは人間たちが始末したのだろう。


 春日童子は鈴鹿御前を探すため、屋敷内に入り込んで歩き回っていた。


 鈴鹿御前に対する怒りが湧き上がったのは自分でも驚いていた。


 焔夜叉にされてきた今までの仕打ちは大した問題でもなかったようだ。


 それよりも鬼が鬼を裏切ったという事実が、春日童子の感情を逆撫でしていた。


「たのもーう」


 先程から刀を肩に掛けながらしばらくこうやって歩いているのだが、誰も出てこない。


 春日童子は立ち止まり、少し周囲を見渡した。隠れている沢山の気配はあるのだが、表に出てくる気はないようだ。


「このやろう、出てきやがれ」


 顔を歪めて目を細め、小さく呟く。もしも春日童子までも退治しようとしているならば、鈴鹿御前はもう救いようがないと考えていた。


 もし犬笛を吹かれたら春日童子に勝ち目はない。何せ鬼ヶ島一、二を争う実力の持ち主である焔夜叉がやられてしまうくらいだ。


 そうなったら最終手段を使うしかなかった。


 鰯の頭と柊の枝で出来た結界は門前に捨てられてあった。恐らく焔夜叉の仕業だろう。この家に取り巻いている結界は皆無のはずだ。


 それなのに人間の気配が全く感じられない。春日童子は腰に手を当て、少し大きな声で屋敷内へ向かって叫んだ。


「鈴鹿御前、見ているんだろう?」


 外では深々と静かに雪が舞ってきた。


 雪の結晶は深淵の闇を照らすように地面へと落ちた。幻想郷にきたような心地良い錯覚に陥る。一瞬足元がふらつく。


「ごきげんよう、春日童子様」


 人間用の真っ赤な着物を身に纏った鈴鹿御前が、しゃなりしゃなりと春日童子に向かって淑やかに歩いてきた。


 右手には扇子を口元に当て、穏やかな笑みを浮かべている。


 左手には薙刀を持っていた。彼女の武器『大通連』である。


「何だ、その滑稽な格好は。すでに心も人間となってしまったわけか?」


 彼女を見下すように顔を歪めて鼻で笑った春日童子に対し、鈴鹿御前は表情を全く崩さずに彼と対面した。


 周囲には誰もおらず、彼女一匹だけのようだ。影に隠れているのかもしれなかったが、今は春日童子と鈴鹿御前の二匹だけだった。


「春日童子様なら私の格好を褒めて下さると思ったのですが、お気に召しませんでしたか? こちらは人間の着物でございます。とても煌びやかな装飾に、私は気に入ってございます」


 変わらぬ口調で鈴鹿御前が尋ねてきた。春日童子は小さくため息をついて諦めたように「綺麗だよ」と答えた。


「けれど、いつも君がしていた赤い立烏帽子と白拍子の格好の方がボクは好きだ」


 鈴鹿御前は少し嬉しそうに笑ったが、その後寂しそうに目を伏せた。


「その立派な一本の角がなければ、誰も君を鬼とは思わないだろうね」


 春日童子は無名の刀を構えた。彼女の名刀と張り合ってどちらが勝つかは、鬼の目からみたら明らかだった。


 刀を向けられ、鈴鹿御前はその目に多少の驚きの色を滲ませた。


「私に刀をお向けになるのですか? 何故……」


「その理由は、君が一番良くわかっているのでは? 胸に手を当てて良く考えてみるといい」


 鈴鹿御前は沈黙の末静かに口を開いた。


「……焔夜叉様はご無事でしょうか」


「はは、そんなこと、君に教えてやる道理もないだろう」


 自分の立てた計画のくせに、この期に及んで焔夜叉を気遣う素振りを見せる偽善的な鈴鹿御前が気に入らなかった。


 春日童子は視線を鈴鹿御前に定める。人間の姫のように可憐で儚く、気高い蘭の花のように美しかった。


「ボクはね、裏切りにはちょっと敏感なんだよ。人間なんかと同じ方角を向いて生きていくと決めた鬼には、情けをかける必要もないだろうしな」


 琵琶法師は人間と鬼に精神の差はないと断言した。だから焔夜叉を助けてくれたのだ。


 彼の意見はとても尊重出来るものだと春日童子は思う。だが、それを自分が許容出来るかどうかはまた別の問題だった。


 春日童子は、人間と鬼は決して相容れぬものだと思っている。


 呉葉がどちらかと言うと人間贔屓にしているため、自分の考えは普段言わないと決めていた。


 だが、一緒に生きていけるような環境ではないと思っていた。


 種族の違う両者は、自然の摂理に添って与えられた場所でそれぞれの生を全うするということが森羅万象なのだと春日童子は考えていたからだ。


「春日童子様、その物騒な刀を下ろして頂けないでしょうか」


 ふと懇願するように首を傾げて鈴鹿御前が小さな声で呟いた。潤んだ目が魅惑的に映る。春日童子はその仕草を見て何かを断ち切るように不適に笑った。


「嫌だよ。君の方が強いんだ。分が悪いだろう」


「あなたにも愛しい方がおいででしょう?」


 鈴鹿御前の言葉に、春日童子は一瞬動きを止めた。


「さあ、どうかな」


「家族でもよろしいのです。愛する方を不幸にしたくはないでしょう。私の気持ち、わかって頂けますね?」


 彼女は突然静かに近づいてきて、春日童子の右手を軽く撫でた。


 ぞくりとした感覚が春日童子を襲い、慌てて鈴鹿御前から離れるように距離を取る。

 
 春日童子はそれにのまれぬように首を振った。


「誰にでも色仕掛けが通用すると思うなよ。男をなめるな!」


 上辺だけの美しさには時に動揺したとて、心を動かされることはなかった。


 春日童子は姉の教育に感謝しつつ、鈴鹿御前を睨み付けた。


「自分が幸せになれば、他者などはどうでも良いというわけか。君の取った行動で、一匹の鬼がどれほどの傷を負ったか、想像がつくか? 裏切って幸せになろうなど、虫が良すぎるだろう」


 冷静に話をしようと思っていたのだが、感情が追い付かなかったため、声を荒げてしまった。


 女性に向かって怒鳴ったことは、生まれてから一度もなかったので、自分でも驚いてしまった。


「君が利用した焔夜叉は死んだ。君の、君たちの思い通りになったわけだ」


 ふと刀を下ろし、春日童子は拍手を送った。


「死んだ? まさか、あの焔夜叉様が?」


「殺したかったんじゃないのかい?」


 ふと一瞬お互いの力が抜けた。もしかしたら鈴鹿御前は、焔夜叉を殺そうとしたのではなく、追い返そうとしただけなのかもしれないな、と春日童子は思った。


 彼女の目には明らかに動揺の色が見えている。彼女の態度には確かに焔夜叉に対する情けが伺えて、春日童子は安堵した。


 だが、死んだことにした方がいいだろうと判断した。


「扇子と大通連、下ろしてくれる? 君の香りが強すぎて、頭が働かないよ。そうすればボクも武器を下ろすよ」


 鈴鹿御前は目を大きくした。春日童子にはわかっているようだ。


 この降りしきる雪が、鈴鹿御前の幻術だということが。


 焔夜叉でもわかっていないようだったのに、意外だった。


 焔夜叉には弱点である家族の幻術を見せたのだが、春日童子の弱点は扇子を通しても良くわからなかったため、術にかからないのだろう。


「先程からあなたの弱点を幻でお見せしようとしているのですが、思うようにいきませんね。やはり精神がお強いようです」


 鈴鹿御前は扇子と刀を下ろした。幻想的に降り続いていた雪が跡形もなく消えた。


 雪さえも幻だったようだ。心なしか寒さが和らいだような気がした。


春日童子もそれに倣って刀を鞘に収めた。


「君は煉獄門の前で権力そのものが魅力的だと、ボクに言ったね」


「はい」


「焔夜叉よりも、人間の方が強いと考えたわけ?」


「はい」


 春日童子の質問に、鈴鹿御前は迷いなく頷いた。


「君はさっきボクに説いていた、愛だとか、情だとかを考える鬼ではないらしい」


「これも生きる一つでございます」


「感情に訴えているわけではないから、君の言葉には暖かみや説得力がないんだよ。そんなんでボクを説き伏せられるとでも思ったのかい?」


 しかし、彼女のように上手く振舞う鬼は、きっと人間社会でも生きていくことが出来るだろうなと思う。


「鬼ヶ島で大将を気取っていても限界がございます。領土はどうしても人間の方が大きいわけですから、今後のことを考えれば権力者に付くことは私にとってごく自然のことでございました」


「なるほど、合理的だ」


 煉獄門の前でも同じような遣り取りをした気がして、春日童子は思わず苦笑してしまった。


「私はもう鬼ヶ島に帰ることはございません。島でのことは全て断ち切る覚悟でここにきました」


「ああ、そうか。だから鬼ヶ島一の鬼を見せしめに策に嵌めたんだね」


 二匹は時が止まったかのようにお互いを見つめ合った。


「あなた様は聡い方でございますね」


「元々、焔夜叉に対しての情はなかったわけか。それでもなお彼に近付いた」


「はい。全ては坂上様と一緒になるためでございます」


「ひどいね」


 真摯な目をこちらに向けながら、鈴鹿御前は扇子の裏に隠し持っていた銀の笛を取り出した。


「それが犬笛? 初めて見たよ。同族に犬を差し向けるとは、やってくれるじゃないか。犬の恐怖は君も良く知っているだろうに」


 鈴鹿御前が躊躇なく笛を吹くと同時に、春日童子は再び刀を抜き取った。


 鈴鹿御前が一歩下がると、庭から十数匹の犬が春日童子に向かって唸り声を上げた。


「躊躇いなくやってくれる。打算的な女って怖いな」


 小さく呟いた言葉に反して、犬たちは彼に向かって容赦なく飛びかかってきた。

*続く*
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