●鬼巌島●

喧騒の花婿

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第六噺『蕎麦の根は何故赤い』

六【命を以って僕が守る】

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 このまま彼女の手に包まれながら穏やかに逝くのも良いなと思いに耽っていた天邪鬼だが、やがてしばらくして遠くの空気が動いた気配がした。


「あそこにいるぞ、瓜子姫!」


「あの子、木に縛り付けられていますよ、おじいさん」


 どこか遠くで男女の声が聞こえた。


 意識が朦朧としていた天邪鬼は、それが瓜子姫のおじいさんとおばあさんの声だと気付くのに少しの時間を要した。


 もう彼には逃げる気力も残っていなかった。


「この異形の鬼め! 瓜子姫を誑かして木に縛りつけ、何をするつもりだったのだ!」


 彼女を守ろうとする勇ましい声が天邪鬼の心に重く響いた。


 所詮自分は鬼なのだ。人間に何を言っても無駄だろうと諦める。


「あの烏が教えてくれたことは本当だったのだな。人間を誑かす天邪鬼め、瓜子姫を離せ!」


「カラス……?」


 烏天狗か、と心の中で毒づいた。


 鬼と人間を引き裂く悪魔にさえ思えてくる。烏天狗、呉葉。


 次々に顔を思い浮かべ、天邪鬼は顔を歪めた。


 思い浮かべただけで憎らしい。


 特に呉葉など、まるで天邪鬼に味方しているような素振りで接していた。


 心の中では鬼を見下していたのだ。呉葉のことを信じてしまった自分にも怒りを覚える。


 背中に焼けるような痛みが走った。後ろを振り返ると、大きな斧を振り下ろしたおじいさんの鬼のような形相が天邪鬼の視界に映った。


 天邪鬼は砂と一緒に血もはき出した。


 もう一度痛みが身体を貫いた。


 再び斧が身体を抉り、天邪鬼は近くにあった畑に倒れ込んだ。畑に植えてあった実が天邪鬼の血の色に染まった。


 天邪鬼は痛みを与えられている間も、決して瓜子姫の手を離すことはなかった。


 瓜子姫を殺めることが神から請けた仕事だった天邪鬼は、信念を貫いて瓜子姫を守ることに成功した。



 天狗が騒がしく鬼ヶ島の上空を飛び回り、天邪鬼先生が人間の手によって殺められたと連絡が届いたのは、すでに月が鬼ヶ島を照らす羊の刻のことだった。


 あの強い天邪鬼先生が死んだと知らせを受け、島は大混乱に陥った。


 名のある鬼が亡くなると、大々的に鬼たちが弔いの会を開催する。


 すでに天邪鬼先生を悼む準備があちらこちらで行われているようだった。


 呉葉が用意した美酒『魔神の施し』を飲みながらその知らせを聞いた春日童子たちは、しばらく信じられない気持ちで沈黙していた。


「嘘だろう……まさか天邪鬼先生が」


 春日童子が呟くと、呉葉は何も言わずに立ち上がって家の外へ出てしまった。


 追いかけようと立ち上がったが、風鬼が静かに制止する。


「しばらく一匹にさせてやろう。天邪鬼先生と呉葉は、仲が良かったのだろう?」


「うん……」


 春日童子が俯くと、スクナも心配そうに呉葉が出て行った扉を見つめた。


 しばらく経っても呉葉が戻ってこないため、風鬼は子供たちを寝かせると呉葉を探しに外へと出た。月が不気味な程紅く染まっていた。


「呉葉、こんなところにいたのか。風邪をひくよ」


 風鬼は花が綻ぶ花畑へと足を踏み入れた。


 ここは呉葉が育てている庭園だった。鬼たちは彩り豊かな花々を疎ましく思っているため、こっそりと育てている。


 呉葉は花が好きだったので、風鬼も何も言わずにいてやった。


「お父さん」


 振り向いた呉葉は泣いてはいないようだったが、どこか疲れたような目をしていた。


 しゃがみ込んでいた花畑から立ち上がると、色とりどりの花を見渡しながら口を開いた。


「私、鬼が嫌い」


「知っているよ」


 風鬼は穏やかに呟くと、呉葉の側にきて彼女に並んだ。


「でも、天狗族の方がもっと嫌い」


 風鬼は黙って頷いた。


「お父さんに大切なお願いがあるの」


 改まった表情の呉葉に、風鬼も真面目に聞こうと顔を引き締める。


「私がお父さんに拾われたときのこと、覚えてる?」


 昨日起こったことのように、鮮明に覚えている。


 風鬼は大きく頷いた。人間に仕えている時期のことだった。


「私が藤原様を守りきれず鬼ヶ島に逃げ帰る途中、煉獄門の付近で呉葉が泣いていたのだ。それを連れ帰ってきたのだったな」


 仕えていた人間の藤原様のことを思い出し、風鬼は懐かしい気分になった。


 春日童子から、人間に仕えていたときの仕事をしきりに興味津々に聞かれたのだが、風鬼はそのときのことを決して話さなかった。


 鬼の世界で生きるためには人間に情を抱いてはならないと判断したためだ。


「何故泣いているのか私が尋ねたら、お前は人間の男と二人で旅をしていた途中、天狗に攫われて離れ離れになったと言っていた」


 呉葉は子供のときに天狗に攫われて鬼ヶ島にきた。


 だから、以前烏天狗先生が人間をさらってきたときに授業中にも関わらず抜け出して、烏天狗先生の後をつけた。


 自分を攫った天狗族の仕事を見極めるために。


「呉葉の本当の父親から勘当され、その際一緒に勘当された男と二人で父親を見返してやろうとしていたときのことだと言っていたな」


「ええ。まだ昨日のことのように鮮明に覚えているわ」


 呉葉は虚ろな目を風鬼に向けた。


「私の父はその土地では名のある宰相で、私は姫と呼ばれる立場だったわ。父が何故私を勘当したのか、訳がわからなかった。だから、彼と一緒に旅をして名を上げ、父にまた認めてもらおうとしていたの。そんなときにあの烏天狗がきて私をこの島に連れてきたのよ」


 天狗族は人間を鬼ヶ島へと神隠しをしている。


 呉葉も天狗に神隠しに遭いそうになったところ、天狗の手を咬んで煉獄門の近くに落とされたのだった。


 それ以来、天狗の実態を調べようと呉葉は秘密裏に天狗たちのことを探り回ってきた。


 鬼と人間という相対する存在とはまた違う、神と密接に関わりのある天狗族が、何故人間を鬼ヶ島に攫うのか、呉葉は疑問だった。


「お父さん、良く聞いて。天狗は人間を密かに鬼ヶ島に拉致し、自らの伴侶として子供を産ませているわ」


「何だって?」


 風鬼が張り詰めた声を上げた。


 いつも余裕綽々の態度を絶やさない父には珍しい声だった。


「天狗族って、男しか生まれないそうね。種族繁栄のため、人間の女を生贄に使っているのよ。生まれる子も全員が男子だけれど、人間の女子だって絶えずいるものね。具合が良かったのでしょう」


 呉葉は花を見ながら呟いた。


「幸い私は手が滑った天狗にあの場所に落とされて途方に暮れていたところ、お父さんに拾ってもらったわけなのだけれど、神隠しに遭った他の人間たちは、子供の産めない年齢になったら、天狗族の下僕になるか、役に立たない者は殺されているはずよ。もちろん神様はこのことを知っているはずだわ。人間を守る立場の神なのに、滑稽よね」


 呉葉はここ最近特に天狗族のことを調べまわっていた。


 風鬼は呉葉をじっと見据えてみた。彼女はこの鬼ヶ島にきてなお、人間らしい態度を崩したことはなかった。


 それが彼女にとって自尊心を保つことに繋がっていたからだ。


 だが、今の呉葉はどこか不思議な空気を纏っているようにも見えた。天邪鬼先生の件が余程堪えたのだろう。


「しかし呉葉、何故そのようなことを突然言い出したのだ?」


「私は人間だから、鬼や天狗といった異形の者とは相容れない存在だわ」


「……そういう言い方父さんは嫌いだが、一般的にはそう言われているな」


「連れてこられた当初は鬼も天狗も大嫌いだった。どうにかして滅ぼしてやろうか、いつも考えながら暮らしていたわ。でも、春日くんやスクナちゃんが無条件に私を姉と慕って懐いてくる度に、私も笑顔が多くなっていることを自覚したの。認めたくはなかったけれどね」


 鬼の家族と共に暮らすに連れて鬼が悪い生き物だとは一概に思えなくなった。


 何より血の繋がった家族に捨てられた呉葉の心を温かく包み、受け入れ、癒し、守ってくれたのは血の繋がらない鬼の家族である。


 呉葉の乾きかけていた心を潤してくれた風鬼、春日童子、スクナという大切な家族のため、呉葉は行動しなければならないことを決意していた。


「私は結局人間と鬼、どちらの立場も経験することになったけれど、鬼が悪で人間が善だと決め付けているのはむしろ人間の方に思えるわ」


 昔はどう思っていたにせよ、呉葉が鬼として生活するうちに我々に感情移入したことは風鬼は嬉しい反面、複雑だった。


 呉葉の人間としての幸せを自分が奪ってしまったと自覚していたからだ。


 だが、そんな風鬼の考えを見通したように呉葉は笑った。


「鬼として生活するうちに、一概に鬼が悪いのではないと、あなたたちや彼のおかげで自覚したわ。だから私も身体だけでなく、精神も鬼として捧げたいの。彼は鬼と人間の共存を掲げた。彼の思いを踏みにじり、罪なき鬼を迫害した我々人間にも、大いなる罪はあると思っているから。皮肉よね、彼を亡くして初めて焔夜叉の言葉に共感するなんて」

*続く*
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