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第六噺『蕎麦の根は何故赤い』
七【打ち出の小槌(中)】
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呉葉の熱弁に、風鬼は複雑そうに目を伏せた。
呉葉の言う彼とは、今騒ぎになっている鬼のことだろうと察しは付いたが、風鬼は何も気付かない振りをした。
どちらかといえば風鬼も鬼と人間の共存という考えには賛成だが、そうでない鬼の方が大勢いる。
意味もなく異形の者を鬼ヶ島に追い込んだ人間に対しての憎悪は果てしなく深く大きい。
ただ鬼は神の命で人間を襲っているだけなのに、人間はそれを知らず、神のせいにはせずに鬼の一存だと勘違いし、鬼を憎悪している。
鬼は態の良い神々の隠れ蓑なのだ。
「呉葉、私はお前のことも本当の娘だと思って育ててきたのだよ」
穏やかに微笑む風鬼を見上げると、呉葉は訴えるような目を彼に投げた。
「感謝しているわ。おかげで人間の悪い部分に気付くことが出来たから。私は人間のあざとさよりも、鬼の純真さに惹かれる。私は鬼として生を全うすると、この花とお父さんに誓うわ」
呉葉は秋桜を手折り、それを見つめながら目を細めた。
天邪鬼先生が、綺麗だと笑って呉葉の髪に挿してくれたその花を、今度は自分の手で髪に挿してみた。何故か以前のように嬉しい気分になることはなかった。
「鬼として生きるなどと、簡単に言うものではないよ。私は呉葉に鬼としての仕事はさせたくないのだ。ときに人間を殺めなければならない仕事もある。同族を殺めるなど、一番悲しいことだ。呉葉は何も心配しなくていい。私がお前を一生養うから」
風鬼は諭すように穏やかに笑いながら言う。
呉葉はそれでも決意の表情を変えることはなかった。
「春日くんと同じことを言うのね、お父さんも。私、大切な者を失うという気持ちは、とうに廃れていると思っていたの。でもまだ私にもこのような気持ちが残されていたのね。もう二度とこのような思いはしたくはないわ。私は、お父さんや春日くん、スクナちゃんを失いたくないもの」
「それは父さんだって同じ思いだよ、呉葉」
「ありがとう。私も、あなたたちを守るために何でもするわ。例え人間を殺める仕事だってしてみせる。全ての鬼が、幸せに生きていけるように配慮した行動を取らなければならないわね。手始めに、天狗族をどうにかしないと」
呉葉は風鬼を見つめていたが、真に見ているのは自分ではないような気がしていた。
遠くにいる誰かを見据えているような目をしていたからだ。
「呉葉、お前にはつらい思いをたくさんさせてしまったと後悔しているのだよ。私が連れ帰らず、追い返していれば人間として幸せに暮らせたかもしれないのに」
「無理よ。土地勘がないから、自分の家がどこにあるのかさえ知らないのだし、一緒に旅していた法師様にしか道はわからないの」
「しかし、根気強く探せば見つかったかもしれん」
「お父さんがいつも自己を責めているのは知っています。でもこれは私自身が決めたことだわ。お父さんが責任を感じることは一切ないのよ。私は人間を捨て鬼として生きる。自然の摂理に悖ることも、私は乗り越えてみせるわ。さあ、話が長くなってしまったけれど、最初に言ったお願いというのは、打ち出の小槌を貸して欲しいということなの」
「打ち出の小槌を?」
大黒が原の探索を請け負った際に神様から貰った報酬だ。
風鬼は怪訝な顔をする。決して使うなと言った手前、呉葉が相当な覚悟を持ってこの交渉をしてきているのは風鬼にも解かった。
「小槌を振れば何でも願いが叶うが、恐ろしい代償があると私は言わなかったかな」
「覚えているわよ。それを踏まえてお願いしているの。決して攻撃の手段には使わないと誓うわ。守るために使います」
寂しそうに笑った呉葉を見て、風鬼は首を傾げた。
春日童子やスクナにした話と同じことを呉葉にも後日話したが、打ち出の小槌などは下らないと一蹴されたのだ。
そんな呉葉が使いたいとは、余程のことなのだろうと、呉葉の真剣な目を見て風鬼は察した。
実の子供たちと違って、無茶をすることはないだろうと判断し、風鬼は呉葉に打ち出の小槌を使うことを許可した。
しばらく天邪鬼先生の亡骸はその場に放置されていた。
その日の丑三つ時、月に光る着物を纏った呉葉がふわりと彼の元へ舞い降りた。
近くの木にあった縄を見て眉を潜める。
「ひどい有様だわ」
呉葉は彼の変わり果てた姿を見て絶句する。
血が夥しい程周辺の土や雑草を赤く染めていた。彼の手を握り締め、呉葉はその場にしゃがんだ。
「天邪鬼先生……」
冷たくなった彼の手はとても固く、今まで何かを強く握り締めていたような形を取っていた。
語りかけても反応してくれるわけがないのはわかっていたが、彼の誇り高き姿にこみ上げるものがあった。
「ねえ先生。私、もっとあなたに教えてもらいたいことがあったのよ」
自然と大粒の涙が流れてくる。
一頻りその場に座り込み、月を見上げて涙を流していた呉葉だが、やがて彼の血で染まっている土地が、蕎麦畑だと気付いた。
「まあ、ここは蕎麦畑だわ」
とても綺麗な白い花が咲いている。
花の一部は、天邪鬼先生の血を浴びて真っ赤に染まっていた。
実の父親から勘当され、法師と二人で旅をしているときに訪れたことのあるこの地は、秋に通った当時も綺麗な蕎麦の花が咲いていたのを思い出した。
心地の良い機織りのぎいとん、ぎいとんという音と共に、男女の笑い声が風に乗ってこの辺りまで聞こえてきていたのを思い出す。
思わず覗き込んだあの家には、あどけない少女と優しそうな表情をした鬼が楽しそうに会話をしていた。
人間として生きていたときに見かけた瓜子姫と天邪鬼先生の楽しそうな笑顔は、見ているこちらにも微笑ましく映った。
とりわけ天邪鬼先生の穏やかな笑顔は鬼ではないようだった。
大きな一本の角はあったが表情がとても柔らかく幸せそうで、そのときの彼の顔が呉葉の脳裏に焼き付いて今でも離れない。
天狗にかどわかされ、鬼として生きるようになって、再び彼に会えると思っていなかった呉葉は、自分が鬼として天邪鬼先生と初めて会話をしたときの何とも言えない胸の高揚を今も忘れない。
彼女は蕎麦畑を見て微笑んだ。
「この蕎麦畑は、あなたが鬼として誇らしく生きた様をずっと見ていてくれたのね。ねえ先生。私、今度この地に植えられる蕎麦の黒い根を、あなたの血の色で染めるわ。これから生きていく者たちには、蕎麦の根は赤だという常識を植え付けるの。それであなたが鬼の誇りを持って立派に生きた証を残すわ。生きとしいける自然界の生物が将来あなたの信念や生き様を語り継ぐように」
呉葉は静かにそう言い放つと、懐から黄金に光る打ち出の小槌を取り出した。
本当は生き返らせてあげたかったが、それだけは神器でも無理のようだ。
代償など、全然怖いという感情はなかった。
ただ天邪鬼先生のために。
その思いだけで小槌を振ることが出来る。
呉葉は打ち出の小槌を静かに振った。
まるで星が舞い散るような光が小槌から降り注ぎ、天邪鬼先生の身に降りかかった。
その後、持ってきていた大量の秋桜を天邪鬼先生の亡骸に振り撒いた。
ふわりふわりと舞い散る薄紫の花は、まるで雪のように天邪鬼先生の身体に降り注いだ。
呉葉は彼の亡骸に覆い被さり優しく抱き、ひとしきり泣いた。
呉葉の涙は、天邪鬼先生の頬に流れてぽたりと蕎麦畑の大地へ落ちて溶けた。
*第六噺『蕎麦の根は何故赤い』終わり*
呉葉の言う彼とは、今騒ぎになっている鬼のことだろうと察しは付いたが、風鬼は何も気付かない振りをした。
どちらかといえば風鬼も鬼と人間の共存という考えには賛成だが、そうでない鬼の方が大勢いる。
意味もなく異形の者を鬼ヶ島に追い込んだ人間に対しての憎悪は果てしなく深く大きい。
ただ鬼は神の命で人間を襲っているだけなのに、人間はそれを知らず、神のせいにはせずに鬼の一存だと勘違いし、鬼を憎悪している。
鬼は態の良い神々の隠れ蓑なのだ。
「呉葉、私はお前のことも本当の娘だと思って育ててきたのだよ」
穏やかに微笑む風鬼を見上げると、呉葉は訴えるような目を彼に投げた。
「感謝しているわ。おかげで人間の悪い部分に気付くことが出来たから。私は人間のあざとさよりも、鬼の純真さに惹かれる。私は鬼として生を全うすると、この花とお父さんに誓うわ」
呉葉は秋桜を手折り、それを見つめながら目を細めた。
天邪鬼先生が、綺麗だと笑って呉葉の髪に挿してくれたその花を、今度は自分の手で髪に挿してみた。何故か以前のように嬉しい気分になることはなかった。
「鬼として生きるなどと、簡単に言うものではないよ。私は呉葉に鬼としての仕事はさせたくないのだ。ときに人間を殺めなければならない仕事もある。同族を殺めるなど、一番悲しいことだ。呉葉は何も心配しなくていい。私がお前を一生養うから」
風鬼は諭すように穏やかに笑いながら言う。
呉葉はそれでも決意の表情を変えることはなかった。
「春日くんと同じことを言うのね、お父さんも。私、大切な者を失うという気持ちは、とうに廃れていると思っていたの。でもまだ私にもこのような気持ちが残されていたのね。もう二度とこのような思いはしたくはないわ。私は、お父さんや春日くん、スクナちゃんを失いたくないもの」
「それは父さんだって同じ思いだよ、呉葉」
「ありがとう。私も、あなたたちを守るために何でもするわ。例え人間を殺める仕事だってしてみせる。全ての鬼が、幸せに生きていけるように配慮した行動を取らなければならないわね。手始めに、天狗族をどうにかしないと」
呉葉は風鬼を見つめていたが、真に見ているのは自分ではないような気がしていた。
遠くにいる誰かを見据えているような目をしていたからだ。
「呉葉、お前にはつらい思いをたくさんさせてしまったと後悔しているのだよ。私が連れ帰らず、追い返していれば人間として幸せに暮らせたかもしれないのに」
「無理よ。土地勘がないから、自分の家がどこにあるのかさえ知らないのだし、一緒に旅していた法師様にしか道はわからないの」
「しかし、根気強く探せば見つかったかもしれん」
「お父さんがいつも自己を責めているのは知っています。でもこれは私自身が決めたことだわ。お父さんが責任を感じることは一切ないのよ。私は人間を捨て鬼として生きる。自然の摂理に悖ることも、私は乗り越えてみせるわ。さあ、話が長くなってしまったけれど、最初に言ったお願いというのは、打ち出の小槌を貸して欲しいということなの」
「打ち出の小槌を?」
大黒が原の探索を請け負った際に神様から貰った報酬だ。
風鬼は怪訝な顔をする。決して使うなと言った手前、呉葉が相当な覚悟を持ってこの交渉をしてきているのは風鬼にも解かった。
「小槌を振れば何でも願いが叶うが、恐ろしい代償があると私は言わなかったかな」
「覚えているわよ。それを踏まえてお願いしているの。決して攻撃の手段には使わないと誓うわ。守るために使います」
寂しそうに笑った呉葉を見て、風鬼は首を傾げた。
春日童子やスクナにした話と同じことを呉葉にも後日話したが、打ち出の小槌などは下らないと一蹴されたのだ。
そんな呉葉が使いたいとは、余程のことなのだろうと、呉葉の真剣な目を見て風鬼は察した。
実の子供たちと違って、無茶をすることはないだろうと判断し、風鬼は呉葉に打ち出の小槌を使うことを許可した。
しばらく天邪鬼先生の亡骸はその場に放置されていた。
その日の丑三つ時、月に光る着物を纏った呉葉がふわりと彼の元へ舞い降りた。
近くの木にあった縄を見て眉を潜める。
「ひどい有様だわ」
呉葉は彼の変わり果てた姿を見て絶句する。
血が夥しい程周辺の土や雑草を赤く染めていた。彼の手を握り締め、呉葉はその場にしゃがんだ。
「天邪鬼先生……」
冷たくなった彼の手はとても固く、今まで何かを強く握り締めていたような形を取っていた。
語りかけても反応してくれるわけがないのはわかっていたが、彼の誇り高き姿にこみ上げるものがあった。
「ねえ先生。私、もっとあなたに教えてもらいたいことがあったのよ」
自然と大粒の涙が流れてくる。
一頻りその場に座り込み、月を見上げて涙を流していた呉葉だが、やがて彼の血で染まっている土地が、蕎麦畑だと気付いた。
「まあ、ここは蕎麦畑だわ」
とても綺麗な白い花が咲いている。
花の一部は、天邪鬼先生の血を浴びて真っ赤に染まっていた。
実の父親から勘当され、法師と二人で旅をしているときに訪れたことのあるこの地は、秋に通った当時も綺麗な蕎麦の花が咲いていたのを思い出した。
心地の良い機織りのぎいとん、ぎいとんという音と共に、男女の笑い声が風に乗ってこの辺りまで聞こえてきていたのを思い出す。
思わず覗き込んだあの家には、あどけない少女と優しそうな表情をした鬼が楽しそうに会話をしていた。
人間として生きていたときに見かけた瓜子姫と天邪鬼先生の楽しそうな笑顔は、見ているこちらにも微笑ましく映った。
とりわけ天邪鬼先生の穏やかな笑顔は鬼ではないようだった。
大きな一本の角はあったが表情がとても柔らかく幸せそうで、そのときの彼の顔が呉葉の脳裏に焼き付いて今でも離れない。
天狗にかどわかされ、鬼として生きるようになって、再び彼に会えると思っていなかった呉葉は、自分が鬼として天邪鬼先生と初めて会話をしたときの何とも言えない胸の高揚を今も忘れない。
彼女は蕎麦畑を見て微笑んだ。
「この蕎麦畑は、あなたが鬼として誇らしく生きた様をずっと見ていてくれたのね。ねえ先生。私、今度この地に植えられる蕎麦の黒い根を、あなたの血の色で染めるわ。これから生きていく者たちには、蕎麦の根は赤だという常識を植え付けるの。それであなたが鬼の誇りを持って立派に生きた証を残すわ。生きとしいける自然界の生物が将来あなたの信念や生き様を語り継ぐように」
呉葉は静かにそう言い放つと、懐から黄金に光る打ち出の小槌を取り出した。
本当は生き返らせてあげたかったが、それだけは神器でも無理のようだ。
代償など、全然怖いという感情はなかった。
ただ天邪鬼先生のために。
その思いだけで小槌を振ることが出来る。
呉葉は打ち出の小槌を静かに振った。
まるで星が舞い散るような光が小槌から降り注ぎ、天邪鬼先生の身に降りかかった。
その後、持ってきていた大量の秋桜を天邪鬼先生の亡骸に振り撒いた。
ふわりふわりと舞い散る薄紫の花は、まるで雪のように天邪鬼先生の身体に降り注いだ。
呉葉は彼の亡骸に覆い被さり優しく抱き、ひとしきり泣いた。
呉葉の涙は、天邪鬼先生の頬に流れてぽたりと蕎麦畑の大地へ落ちて溶けた。
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