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そして、
5.懺悔
しおりを挟むエアハルトはロゼよりも大人で今までロゼが想像もつかないような戦場を駆け抜け、己の腕だけで出世してきた軍人である。
そんなエアハルトは不器用なほど愛情表現が拙く、また自分自身のことになると恐ろしく鈍い。
誰もが彼は義務感のみでロゼに優しくし、愛情のない冷淡な男だと思っている。
ロゼが初めて花嫁衣裳を着てエアハルトの前に現れたときも、周りはロゼの美しさに夢中で誰もエアハルトに意識を向けなかった。
エアハルトの目に宿る深く激しい愛情をロゼだけが痛いほど感じていたのだ。
ロゼへの愛をエアハルトが自覚しないように願っても、そんなことはやはり不可能である。
特に、初夜を迎えた頃からエアハルトは周りから見てもロゼに夢中だった。
愛されていると周囲に囁かられるたびにロゼは違和感と、それによる小さな棘が胸に刺さるような痛みに悩まされた。
エアハルトの無自覚な独占欲を感じるたびに、ロゼは幸せと底なしの不安を抱いてしまう。
さりげない愛情表現だけでこんなにも心が浮かれてしまう。
なら、その愛が消えてしまったとき、自分はどれだけ絶望するのか。
絶望の後に、エアハルトの妻として相応しい采配を行うことができるのか。
そんな不安がずっと埃のように胸に降り積もり溜まっていく。
誰にも相談できない、誰にも言ってはいけない悩みだ。
ロゼがもう少し子供で、我儘であればその思いを彼女に忠誠を誓う侍女達に相談できたかもしれない。
だが、馴染みの侍女達に相談して、それが母に知られたらと思うとできなかった。
父と母、兄達にだけは迷惑をかけたくないのだ。
ロゼがあえてエアハルトに嫌われるような行動をしようにも、困ったことにロゼはエアハルトに嫌われたくなかった。
むしろ一時でも愛する人に不愉快な思いをしてほしくなかった。
エアハルトに愛されることを、そして愛されていつか飽きられてしまうことを恐れるロゼはこのときから不穏な夢を抱くようになった。
だが、それはまだ夢であり、起きれば忘れてしまうただの悪夢でしかなかった。
このときまでは。
ロゼの願望がロゼ自身にもはっきり認識できたのは紛れもなくルナという少女の存在がきっかけである。
ロゼがルナの存在で一番衝撃を受けたのは初めてともいえる強烈な嫉妬を自分が感じたことだ。
ロゼは今まで誰かに嫉妬したことがない。
初めはその鋭い胸の痛みがエアハルトが自分に何か黙っていることだと思っていた。
ロゼの心はそれでもエアハルトの不器用な言い訳で少しは慰められた。
エアハルトがルナよりもロゼを大事にしていると、ロゼは信じていた。
恥知らずなことに、エアハルトの愛を疑いながらロゼはルナよりも自分の方が愛されていると思っていたのだ。
その自信はルナの捨て身ともいえる告白で一気に崩壊したが。
ロゼは自分自身に絶望した。
エアハルトがいつかロゼに飽きて、他に好きな人ができたとしても。
ロゼのエアハルトへの愛は永遠に変わらず、本妻としてその側で夫に尽くすことを誓っていた。
どんな身分の、どんな性格の女でもエアハルトが選んだのであればロゼは全身全霊を込めてエアハルトのためにその女の身分を保証し、仲良くなるために努力しただろう。
それが貴族の妻の務めであり理想なのだ。
ロゼの母のように。
それが一瞬にして崩壊した。
そのときのロゼの絶望がどれほどのものだったのか。
『だって、旦那様は知ってるもん! あたしに赤ちゃんがいるって!』
頭の中でルナのその歓喜の叫びが繰り返される
ロゼは、まったくエアハルトに信頼されていなかったのだ。
ロゼはエアハルトの妻であり、彼の後継を生むことを約束された存在だ。
いつかエアハルトのためにたくさん子供をつくるのだと無邪気に約束していた過去の自分。
全ては砂上の城であり、意図も容易くそのプライドは打ち砕かれた。
そして、自分がエアハルトに裏切られたと思ったことが更なる衝撃としてロゼを絶望に追いやるのだ。
ロゼが気を失う寸前に感じたのは絶望と、自分自身への途方もない嫌悪である。
* * *
その後、ロゼは長い夢を見た。
夢は現実と妄想がごちゃごちゃになった不思議な夢であった。
あるときは過去の夢を見た。
ロゼが幼い頃、観劇を見るために王都の中央にある劇場に向かったときの夢。
豪奢な馬車の中でわくわくしながら外の人々を見たのを覚えている。
そしてロゼはこのとき初めて路上で寝ている人々やロゼより小さな体格の子供達が使用人達が使う雑巾よりも汚い服を着てうろうろと彷徨っている姿に疑問を覚えた。
あの人達は何をしているのと、そのとき側にいた誰かに尋ねたのも覚えている。
あれは貧民街の者だと。
乞食と呼ばれる者や親のいない孤児という者をこのときロゼは初めて知った。
それからロゼは自分から我儘を言うことをやめた。
食べ物も、なるべくなら残さないようにして、嫌いな物も文句を言わずに食べるようになった。
ロゼは自分が何かに不満を持ってはいけない人間だと思ったのだ。
だって、あの人達に比べて自分はこんなにも恵まれている。
これ以上何かを望む資格は自分にはないと。
またあるときは母との何気ない会話を思い出した。
貴族の妻となるには忍耐と責任が必要だと。
また、夫が本妻以外の女を第二夫人、第三夫人と望んだときは本妻にも決める権限があり、安易に全ての決定を夫に任せてはいけないと言い聞かせられた。
そして本妻以外の妻を夫が娶ればそれは本妻の妹であり、その生まれた子もまた自分の子として慈しむのが当然であると。
決して、嫉妬に身を焼かれて意地悪をしてはいけないとロゼは言われた。
まだまだ幼いロゼには分からない単語ばかりであったが、たぶん、そのときの母はなんとか言葉を尽くしてロゼに自分自身を卑下するなと言いたかったのだろう。
ロゼの存在は何も悪いものではないと。
最後に母がロゼを抱きして言った言葉が全てだ。
『だからね、ロゼ。あなたは私の子で、私が貴方を愛するのは当然なの。それに貴方はとても優しくて可愛くて、本物の天使のように私を幸せにしてくれる』
それは、ロゼが無邪気にも父と母に何故自分だけ黒い髪に黒い目なのかと聞いて、亡くなった第二夫人の話を聞いた数日後の会話だった。
ロゼはそのとき初めて母が動揺し、涙を流して父に詰め寄る姿を見た。
何故ロゼに真実を話したのかと。
ロゼは、母のその取り乱した姿と自身を震える腕で抱きしめたことを覚えている。
それがロゼにどれだけの幸福感を齎したことか。
ロゼは本来ならば与えられないはずの愛を与えられた。
もう、これ以上望むものはない。
これ以上を望むのはあまりにも罪深く傲慢だと思えた。
あるときはエアハルトの馬に乗せられたときの夢を見た。
初めて見る立派すぎる軍馬に横座りで乗せられ、ロゼは逞しいエアハルトの胸にもたれながら広い庭園を一周した。
そのときの胸のときめきをロゼは今でも忘れられない。
また、ロゼがほとんど記憶になかった初夜の夜明けの出来事も夢に見た。
風呂場で何故かエアハルトに抱きしめられながら、ロゼは幸福を感じた。
その夜、エアハルトは一晩中ロゼを抱きしめ、手を握ってくれた。
涙が出そうなほどの幸福感に包まれたのだ。
ロゼはエアハルトと一緒にいるだけでどんどん彼を好きになっていく。
いつか、ぽろっとエアハルトに好きと零れそうになる自身を戒める。
そして、夢には当然のようにルナも出て来た。
ルナは裸で、エアハルトはそのルナを強く抱きしめている。
ロゼに向けたような恍惚とした笑みをルナに向け、彼女の全身にキスして舐めて触って愛撫するエアハルトの姿が夢に出たときの苦しさはまさに地獄のようだった。
エアハルトがルナの中に入る。
ルナの甲高い声は想像上のものだが、エアハルトのその獣のような興奮した息遣いは全てロゼが知るものである。
ルナの手がエアハルトの背中にまわる。
ロゼは決して最後までエアハルトの背にしがみ付くことはない。
一度でも力のまま、その背中に爪を立ててしまえば、抑えが聞かなくなり、きっと理性を失ったままエアハルトに愛を伝えてしまうから。
夢の中でエアハルトはルナの中に射精した。
これが夢で良かったと心底思う。
もしも現実でその場を目撃したら、ロゼはきっとその場で吐いてしまう。
散々エアハルトの愛を信じず、彼が余所の女を愛することを望んでいたのに。
いざ、現実にルナという存在が現れたとき、自分はどうした。
嫉妬して、情けなくこうして他人に迷惑をかけて呑気に夢の中へ逃げているだけではないか。
なんという矛盾。
あんなにエアハルトからの愛を恐れながら、結局彼が他人のものになるのが許せない自分。
幸福な家に生まれ、周りから必要以上のものを与えられた自分はこれ以上を望んではいけないのに。
結局はエアハルトの愛を欲している。
エアハルトからの永遠の愛を欲しているのだ。
なんて浅ましいのだろう。
自身のあまりの傲慢さ、欲深さ、嫉妬深さをロゼが自覚したとき。
ロゼは初めて自分の本性、どうしようもない下劣な願望を知った。
最後に見た夢は、まさにロゼの腐り落ちるほどの甘い夢そのものだった。
エアハルトを殺す夢である。
それが、愛の永遠を信じられないロゼの答えだった。
エアハルトに毒の入った美味しい紅茶を飲ませて、苦しませずに殺す。
そして、ロゼも同じように毒の入った紅茶を飲むのだ。
そうすれば、エアハルトの時間は止まり、彼のロゼへの愛も永遠に変わらないから。
いや、違う。
ロゼはただただエアハルトを殺して、自分も共に死ぬことを望んでいる。
それは悪魔のような考えであり、汚らわしい欲望だ。
愛する人の愛を永遠にするために。
その命を奪いたいと。
エアハルトとともに地獄におちてしまいたいと、ロゼは心底望んでいるのだ。
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