猫の生命火

清水花

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1章 猫アレルギーの父さん

自宅について

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「ただいま」

 僕は仔猫を抱え、無事に家へとたどり着いた。

 白井家は築30年、木造2階建ての日本家屋だ。

 僕が玄関の戸を開けると、エプロン姿の母さんとすぐに鉢合わせた。

「あら、みなと、お帰り。今日はずいぶんと遅かったのね」

「うん、残業が長引いちゃってね……」

「やだ、あんたびしょ濡れじゃない! 外、そんなに降ってるの?」

「今はそんなに。少し前に強めに降ってたから……」

「早くお風呂入っちゃいなさい! ほらっ!」

「うん。でもこれ……」

 僕は左手で抱えた仔猫を母さんに見えるように差し出した。

「あら、どうしたの? この子」

「帰ってくる途中で色々あって……それで連れて来ちゃった」

「ふぅん……まぁ、詳しい事はお風呂の後で聞くわ。その子は私が預かるからあんたは早くお風呂へ入りなさい」

「うん」

 差し出された母さんの手に仔猫を慎重に預け、僕はお風呂へと向かった。

 温かい湯船に浸かりながら、仔猫との出逢いを思い返した。

 金色の目をした黒猫と茶トラの仔猫。

 まるで降りしきる雨から仔猫を護るようにダンボール箱の中に収まっていた黒猫。

 僕が来るなり熱心に何かを確かめる素振りを見せ、そしてその場を去った。

 後は任せた、と言われたような気がした。

 黒猫と意思の疎通が出来たような不思議な感覚。

 まるで夢を見ているようだった。

 何度も考えても現実に起きた事ではないような気がする。

 それから、僕はそそくさと身体を洗いお風呂を後にした。

 濡れた髪をタオルでゴシゴシと拭きながら廊下を歩き、居間の障子を開けるとストーブの前は母さんが陣取っていて、仔猫をタオルに包んでスポイトでミルクを与えていた。

 その傍らには僕の妹が座っていて、興味津々といった風に仔猫を見つめている。

「うわぁ……うわぁ……ちゃんとミルク飲んでるよ、この子ちゃんと生きてるよぉ……」

「当たり前じゃないの、この子は必死に生きようとしてるんだから。それよりも海未うみ、テストが近いんでしょう? 勉強しなくていいの?」

「いいの、いいの。勉強は学校でやってるから。ねえお母さん、次は私にやらせて!」

「でもあんたこの前のテスト、点数良くなかったじゃない。あら、ちゃんと全部飲めましたねー、いい子いい子」

「ねえ、次、私ー!」

 仔猫は早くもうちの母と妹を虜にしてしまったらしい。

「良かった、ちゃんと飲んでくれたんだね。ミルク」

「あ、お兄ちゃん。この仔猫どこで拾ってきたの?」

「駅出て数分歩いたところ。ほら、最近新築の家がたくさん建ってる住宅街の辺りだよ。街灯の下でダンボール箱に入れられていたんだ」

「ふぅん。でも、いまどき珍しいね。捨て猫ってさ」

「うん、僕もびっくりした」

 僕達がそんな捨て猫についてたわいも無い話をしていると、ミルクをやり終えた母さんが口を開いた。

「最近は野良猫や野良犬の保護活動が進んでいるからね。それこそ首輪も付けずにその辺を歩き回ってたらすぐに役所の人に連れて行かれちゃうわよ」

「ふぅん……。それで役所に連れていかれた子達はどうなるの?」

 無知な子供のように純粋な疑問を母さんにぶつける海未。

 対して母さんはミルクをお腹いっぱい飲んで、タオルの中でウトウトとしている仔猫の頭を指先で撫でながら重々しく口を開いた。

「殺されちゃうの」

「うっそ⁉︎ 何で⁉︎」

「もちろん、すぐにじゃないわよ。ある程度保護する期間が決まっていてその間に飼い主や里親が見つかればいいんだけど、誰も迎えに来てくれなかったら……」

 と、母さんは直視したくない現実から目を背けるように言葉を濁した。

「じゃあ……お兄ちゃんが連れて帰って来なかったらこの子は……」

「そうね……」

 母さんは仔猫の寝顔を優しさと悲しみに満ちた眼差しで見つめる。

「お兄ちゃんナイスッ!」

 と、妹の海未はなにやら力強い眼差しで僕を見ながら右手の親指をぐいと立てた。

「お兄ちゃんいつもぼーっとしてて、なに考えてんのか分かんないけど、たまにはやるじゃん!」

 と、胸の前で腕組みしながら自信満々に、むしろ誇らしく妹の海未はそう語るのだった。

 しかし、そうだったのか。僕は海未からそんな風に思われていたのか。

 なんとも複雑である。

「ねぇねぇ! この子、名前何にする⁉︎ 女の子だから可愛い名前ね!」

 海未ははしゃぎ、今にも名前をつけてしまいそうである。

 そしてそうか、雌だったのか。

「あ、その……」

 僕の絞り出すように吐き出された言葉に、母さんと海未は同時に僕の方を見る。

「…………?」

「何よ、お兄ちゃん。どうしたの?」

 海未と母さんは怪訝な表情を浮かべる。

「いや、その……なんて言うかなんとなく連れて来ちゃったけど、まだ飼うって決めたわけじゃーーーー」

「ーーーーアホか!」

 と、海未から手厳しい言葉が吐き出された。

「だ、だって、その仔猫を飼うとなると……」

「父さんが、ね」

 さすがは母さん。海未とは違い話がよく分かっている。

 そう、もし仮にこの仔猫を飼うとなるとある問題が出てきてしまうのだ。

 それは父さんの体質が大きく関わっている。

 父さんの体質、つまりは猫アレルギーである。

 症状自体はそれほど深刻なものではないのだが、くしゃみと鼻水が止まらなくなってしまう。

 いくら動物好きの父さんと言えど、毎日アレルギーに苦しめられるのは辛かろう。

 そんな理由があるから仔猫を家で飼う訳にはいかないのである。

 かと言ってこんな雨降りの寒空の下に仔猫を放り出す事も出来はしない。

 まさにのっぴきならない状態なのだ。

「あ、そっか。お父さんって猫アレルギーなんだっけ?」

 海未はようやくその事実に行き当たったようだ。

「何でお父さん猫アレルギーなのよ! 動物好きのくせに!」

 と、海未は怒りを露わにする。

 父さんだって好きで猫アレルギーになった訳ではないだろうに、ひどい言われようである。

 アレルギーがあるので普段は遠ざけてはいるが、父さんとしてはむしろ猫は大好きなのだ。

 大好きだが近付けないジレンマに苦しめられている。
 
「海未、そんな事言わないの」

「だって……」

 大きく肩を落とす海未。よほど悔しいのだろうが、こればかりは仕方がない。

「とりあえず、天候が回復するまで僕の部屋で面倒見るよ。後のことは保護施設にでも問い合わせてみようかな」

「そうね、それがいいわね」

「…………」

 僕は母さんから仔猫を受け取り、自室へと戻った。

 ベッドのそばにあった竹籠の中にタオルを敷き詰め簡易的な寝床を作ってあげ、その中に仔猫を入れた。

「みゃあー、みゃあー、みゃあー」

 仔猫は竹籠の中でタオルの匂いを熱心に嗅ぎ鳴いている。

 僕は指先で頭を撫でてやりながら、この仔猫の今後のことを考えてみた。

 この仔猫は親もいない孤独なままで生きていけるのだろうか、こんなにも小さな身体ひとつで。

 天候にしろ、その他の動物にしろ、仔猫の生命を脅かすものはそこらじゅうにあると言うのに。

 それはあまりにも無謀な試みのように思える。

 あどけない小さな仔猫をジャングルに放り出すようなものだ。

 僕のそんな心配などまるで気にする様子もなく、仔猫は僕の指にじゃれついて無邪気に遊んでいる。





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