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第二章 女神の一筆
(2)美少女は俺のご主人様
しおりを挟む東宮宮。秋宮。
亥の刻をつげる鐘が鳴り響いた。
ほどなく月は頭頂に達しようとしている。
龍は嗣子。鳳凰は公主の守り神とされ、荘厳なる秋宮の頭天に火の鳥を戴く。
ゆえに鳳凰殿ともよばれ、魔除けの蓮や牡丹の風鐸やらが軒を飾る妃殿に次ぐ華やかな宮だ。
その秋宮をかこむ院子は広大にして壮大なる山水の陰影がやわらかな月光によって浮きぼられ、遣水のながれる暗い池のほとりには四阿がある。
六角を象ってあることから六角堂とも称され、そこにはられた紗が夜の静寂をやぶり、大きく揺れるとそれは冬木立をぬけ、さわさわと松韻がさやぎ、チチヨ、と鳴く虫と協奏す。
「今宵の月は美しいすぎる。不吉じゃ」
少女の明眸な紫紺の眸に緋の円月がうつりこむ。
ふいに視界をさえぎった垂れ髪をわずらわしげに指で梳いた。
その緑なす黒髪はゆるやかに肩を流れ、頭天にゆわえた髷には花鈿の簪とゆれる歩搖を挿している。
どれも精緻な技巧をこらした国宝級であるが、この花の匂い立つ十四、五の少女が挿させば金銀紅紫の宝玉さえ輝きを失い、その身にまと綾羅錦繍の衣すら凡庸、麻布と化す。
美女千人をかかえる宮女が束になろうと古今の美姫たちすらかすんでしまう 。
まさに蒼国の解語之花、歩く至宝と称されるに値する。
秋宮の主人、明宝公主その人である。
「そなた、独りぼっちで寂しゅうないのか?」
古より闇夜を天てらす孤高の月は天上の星々をすべる女神の仮姿であると。
「……嘘か真か、あの月のみぞ知る」
ふ、と微苦笑をうかべ、否定するように首をふる。
「さて、続きじゃ。どれ」
明宝の前の大きな卓子には、料紙といくつかの顔料皿、硯、筆架などが整然とならべられており、その隅に二本の燭台がともされている。
惜しげもなく袖を絡げると、そこからのぞく白妙の繊手が彩管をとる。
たっぷりとふくませ、つっと皿の縁でこ削ぐ。
「……いざ」
スゥーーーーと細く彩管をすべらせながら名月の情景を写し取っていく。
明宝の興をそそる月は日がな違った姿をして冷気が増すごとに美しく輝きをましていった。
月にかかる叢雲、欠けた朏、そして郷愁をあおる円月。ときに残月さえも描いた。
月に魅いられたかのように明宝はただ月を描くことだけに怪腕をふりつづける。
「……ふぅ」
ゆるりと面をあげると、そぞろげに彩管を顔料皿のうえに擱いた。
「出来はまぁまぁじゃ。秋月の宴とでも名うつには少々不出来であるか。にしても共に興ずるものがいないというのは、何とも心寂しいものよのぅ」
背にしなだれかかり、桜桃のような朱唇を小さく押し開き、そこから甘い声音で囁く。
「ーーーーさ、く」
何処におるのじゃ、ぎゅと腕を抱いた。
「こんな日に限って、なぜそなたは側におらぬのじゃ!?」
腹立たしげに紗の向こうでかすんで見える暗い回廊を見据えた。
そこにはポツポツと篝火がたかれている。
「何が、次の仲秋の日には帰る、じゃ。妾を後宮に残し独りで一年もの間ふらふら旅などしおって」
募りつづけた毒を吐く。
そうしているうち、ゆらぐ炎がフッとかき消えた、そう思った次の瞬間、闇よりも暗き影が形作られた。
「誰じゃ!?」
彩管をにぎり、身構える。
「そう噛みつくなよ、もう俺のことなんて忘れちまったのか?」
コツ、と跫音がしたのち、冴えざえとした月光のもとに線の細い闊達そうな少年が姿を現した。
「――な!? な、な、なんじゃ、朔か」
ぷぃとそっぽをむいた。頬がほんのりと紅をさす。
けれど内心では、ホッと安堵に息を吐き、愁眉をひらいている。
「遅いぞ」
そっと筆を擱き、再び卓子に向き直る。
「それだけ?」
「だけ、とは?」
拍子抜けだ。
感動は?
今まで吐いていた毒は朔の聞き違いなのだろうか?
「ぉーぃ、何じゃとは何だ? 一年ぶりの再開だってのに。お帰りなさい、もなしか。やってらんねぇ」
「ちゃんとした挨拶もできぬ者が何を言う」
ごもっとも。だとしても、だ。
もう少しぐら良い反応があってもよさそうなものを、明宝はどうでもよさそにフン、と鼻を鳴らした。
ってか、どうでもいいんかい。
「どうした? 近こう」
「ーーちぇっ」
朔は歩武を刻むようにして長い回廊をわたり、池畔に突き出た小橋を通って、四阿の軒をくぐる。
紗の薄布をかきわけ明宝の前へおどりでた。
「いつ帰着したのじゃ」
「さっき。少し前かな」
「どっちなのじゃ? さっきなのか、それとも少し前なのか。……まぁ、いい。これへ」
白磁のようにすべらかな繊手が卓子の前を指さす。
まるで土下座してわびろ、そう言わんばかりだ。
「はぃ??」
「嫌か?」
クスクスと大輪の牡丹がほころぶように艶やかに笑って言う。
「へいへい」
朔は気恥ずかしげに嗤った。
公主様の仰せのままに、だ。
久方ぶりに顔をつきあわせるのは気恥ずかしい。
とはいえ決して嫌なわけでもない。尻尾があれば全開に振っている。お手でもお座りでも何でもござれだ。
けど、誰にでも尻尾をふるわけでもない。
大事な事だからもう一度言う。
だれにでも尻尾は振らないのだ。
「なんじゃ、そのふざけた物言い。早よう」
「はぃはぃ」
ぶっちゃけ面倒だ。
「返事は一回じゃ」
「はぁーーーーぃッ!?」
そう語尾を濁らせしな、その目を疑う光景にガン見した。
「ーーゲゲッ!? 今日は胸がやけにふっくらとして女子力が半端ねぇと思ったら、お前どこに猿を入れて! そいつオスだぞ!?」
ぴょこん、と胸合わせから金色の綿毛がのぞく。
その頭部にはいまだ癒えぬタンコブが。
もう二、三発お灸を据えるべきだった?
いや、今からでも遅くない。川とお花畑の狭間ぐらいはみせてやろう。
猿の場合、手を振って招くのは、奇しくも猿の崇拝してやまない孫悟空?
「嘉朶は良いのじゃ。のぅ、嘉朶や?」
その基準は一体!?
『ムキュゥ』
甘ったるい猫なで声を発する。
ーーてか、良くねぇ!! ムキュウじゃねぇだろ!
指先で撫でられる猿は悶絶するように息をもらした。
このヤロウ!
激昂する朔の目の前で、嘉朶の変態行為は増長する。
『むキュキュ』
頬を何度も何度も、執拗に擦り付ける。
「なっ!?」
膨らみのやわさを堪能する猿は、チラリと朔を一瞥する。
いいだろ、うらやましいか? お前には死んでも真似できないだろ? そう言わんばかりのどや顔だ。
仮に、羨ましいか、羨ましくないか、と問われれば、一も二もなく即答で前者だ!!
猿の毛の沈み具合でそのやこさは計れる。間違いない。やわやわだ。幸福至極の極みに違いない。
ーーだが。猿真似は矜持がそれをゆるさない。
たとえ仙術で猿に化けることはできても、だ。
漢たるもの、曲げられないこともある。
よって、泣く泣く断腸の思いで、ぜひ代わらせてくださいっ、と一生のお願いされたって願い下げだ。
じゅるるる、と口腔からしたたるものを甲で拭うーーーーと。
『むきゃ!!』
小さな手でもみもみと揉みしごぎだした。
「……やろぅ!? 」
やっぱりあの時、抹殺しておくべきだった。
ーー殺す! 絶対に殺る!! 瞬殺だっ!
「やっぱ良くねぇ! 明宝、そいつを引き渡せ、俺が二度と戻ってこられないようどこぞの道端に廃棄してきてやるから!」
「朔!?」
「そいつをよこせ!」
卓子の向こうからむんずと掴みかかる。
明宝は合わせを抑え、細腕によって引き寄せられた。
「!?」
目と目。
息と息が交わった。
紺青の眸を真っ向から覗き込んだのは久方ぶりだ。
明宝とて眸に動揺がうかがえる。
「…………」
ほんの少し、あと少し、距離を縮めればぷっくりとした桜桃のような唇に想いを重ね合わせられる。
積年の想いがあふれる。
愛してる、とか、好きだ、とか。そのどれとも違う。
言葉を超越したもの。
形もなくて触れることもできない。そのくせ確かめたくなる。
そこに、きっと答えがあるから。
「…………朔?」
けれど、邪魔な理性がそれをゆるさなかった。
ぇぇーぃっ。忌々しい。
「ばぁか!! 」
パッとはなした。
「きゃ??」
明宝は腰が抜けたように、そのまま椅子に崩れた。
「おぃおぃ、手遊びにまた月? どんだけ月が好きなんだよ。一国の公主様ともあろう御方がこんなひと気のない四阿にこもってお絵かきか? 」
いや、違う。こんな悪態をつきたかったわけじゃない。
俺はバカなのか?
いゃ、ばかだろう!
裏腹に、とん、と指で料紙を叩く。
「何か心配事でも?」
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