只人であれば幸福だったか

継津 互

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 古城の庭園の端、たき火が燃えていた。植木も芝も滅茶苦茶に切られ、花は無惨にも踏まれ、噴水もタイルもベンチも、美しさは見る影もなかった。凌辱りょうじょくされた庭、そこには至るところに血痕があった。激しい戦闘のあと、今残るのは嵐の後の静寂だけだ。
 庭の主、古城の僭主は、崩れた石柱に体をあずけ、くたりとしていた。もう意識を保つことさえやっとだった。彼の目の前では火が焚かれていた。それを挟んで反対側には、彼を、庭を蹂躙した男が淡々と得物の刃を研ぎながら座っていた。

「酷いものだなあ……、はは。毎夜、毎夜ちゃんと世話をしてきたのに」

 庭の主がひとり零す。
 対面の男は話さない。

「もうすぐ、咲くはずだったんだ。咲く、はずだった……」

 男は話さない。

「あなたは、花が……嫌いか?」
「いや」

 庭の主が初めて聞いた男の声は、ひどく冷たかった。

「……、っ、ああ、ではわたしが育てたから……わたしが慈しんだから、なのか。そんな、……花も、庭も、この古城も」

 シャッ、シャッと規則正しい研磨の音。

「知っているか、今がちょうど、きれいに咲く時期だったんだ。あなたの今座っているそこに植わっていた花は」

 庭の主の声は震えていた。

「可憐な花だ。弱く、丁寧に扱わねば、少しの強風ですぐに茎をやってしまう花だった。脆く、野生じゃ生きていけない……」

 そこで初めて男は顔を上げ、庭の主の方を見た。全身が血にまみれていて、両足は折れ、片腕がもげていて、蒼白で、今にも死にそうで——その花とちょっと似ているなと思ってのことだった。

「なあ、なぜとどめを刺さない。狩人よ」

 吸血鬼狩り。読んで字のごとく。それは男の職業だった。

「必要がないからだ。貴方の死はもう明確だ、これ以上手を出す必要がない」

 標的が死んだらそれでいい。人道は吸血鬼に通用しなかった。つまり、目の前の奴がどれだけ痛みに苦しんでいようと、非人道的だと非難する人間はいなかったし、楽に逝かせてやらねばならないという道理もなかった。吸血鬼は人間ではない。人間ではないからだ。
 この古城の僭主は弱かった。吸血鬼固有の能力はほとんど使えず、破壊された部位の再生も遅い。力の枯渇も早く、今狩人に与えられた損傷を治せずにいるのはそのせいだった。

「夜明けか……」

 稜線のあたりはもう白み始めていた。あたりも明るくなってきていて、夜明けの青い空気の中、もうたき火がなくとも互いに視認できるほどになっていた。

「なつか、しいな」

 僭主の体がずり落ちる。残った片腕はもうそれを支えられるほどの力を持たず、体は冷たい地面に叩きつけられる。

「元人間か?」

 特段興味があるといった風ではなかった。ただなんとなく、口から出た言葉だった。

「さあ……わからない。だが、夜明けの太陽を見たことがある。見たことがある気がするんだ」

 太陽を見たことがあるのなら、人間だったのだろう。吸血鬼は日の光を浴びれば灼けて死んでしまう。

「ああ、こんな時間まで外にいることは、滅多になかった……灼け死ぬのが怖かったんだ、わたしは。だが、綺麗だな、日の昇る前の、このそ、ら……」

 絶命したか、そう思い狩人は得物を横において立ち上がる。だが灰になる様子はない。気絶したのか?狩人は僭主に近づく。そっと近づいて、そのそばにしゃがむ。
 近くで見るそれは精巧に作られた芸術作品のようだった。蒼白な石膏像、生命の息吹のない永遠性。だが僭主は永遠性とは真逆だった。刹那的な、儚い——そう見るならば生命体、人と変わらぬ生命体だ。
 狩人は僭主の体を起こし、再び石柱によりかからせた。体は重く、触れたところは血でじっとりとしていた。石柱には血のあとが赤黒く染みついていた。
 僭主の首筋に触れる。弱いながら脈動を感じる。まだ生きていた。もう、あと少ししたら死ぬのだろうが。
 髪に触れる。人のそれとそうかわりはしない。シルクのようになめらかなわけでもない。
 こうして吸血鬼に触れるのは初めてだった。遭遇すれば戦い、戦えば死んで灰になる。そういえば、先ほどのような会話をするのも初めてだった。知は慈につながる。本来ならば、ああいった会話も望ましくない。
 こういったことをできるのもこの吸血鬼が特別穏やかで、気弱な性格だったからだろう。瀕死の状態で耐えているから、というのもある。問いかけに答えたのはただの気まぐれだった。なにはともあれ珍しいことだった。珍しいことだったから、狩人は興味がわいてしまった。
 狩人は懐から短剣を出すと、自らの腕を少し切りつけた。手は避けた、得物を握れなくなっては困るからだ。切りつけられたところに沿って赤く血の筋ができ、こぼれる。狩人はその血を逆の手ですくい取ると、僭主の口をあけた。栄養状態が悪いのか、唇はがさがさとしていた。口の中に見える牙は人のものと違いだいぶ細く鋭く尖っている。狩人はそれらを観察したあと、自らの血をその舌にすりつけた。

「っう、……げほっ、ぇ、なに、して」

 舌の根を押さえつけられた嘔吐反射か血のせいか、僭主は意識を取り戻した。その肌は少しばかり色を取り戻したように見える。

「は、っ……血か……なんの真似だ」

 狩人はその問いかけを無視した。

「吸血鬼の生命維持に必要な血液はどのくらいだ」

 僭主はまぶたをぴくりと動かした。

「なぜ……?」
「答えろ」

 沈黙が続く。

「そう多くはいらない。……酷い飢えに耐えられるのなら」

 狩人は僭主の様子の変化を見てとった。強く口を引き結ぼうとしているのだろう筋肉の動き、しかし力が入らないのかその端からは唾液が垂れてしまっている。

「……っ、さいあくだ、もういくらともわからぬ間わたしは、耐えて……きたのに」

 きゅっと狭まる瞳孔、狩人はようやく、安堵にも似た感情を覚えた。これまで見てきた吸血鬼たちと同じ目、この僭主からは見られなかった、強い衝動を宿した狂気の瞳。
 良かった、彼は吸血鬼だ。そう思ったのは目の前の男の振る舞いがあまりにもこれまでの獲物とかけ離れていて、無実の人間を手にかけているような感覚が心のどこかにあったから。

「血を、っ……血、が」

 うわ言のようにつぶやく、その語。

「ぁ、は、これはなんの拷問だ、もういっそ殺して、はやく、ころしてくれ……」

 哀れな。
 そうしたのは自らであるのに、狩人はそう思った。

「貴方は眷属をつくったことはあるか」
「ない……ただの一度も」
「やり方は知っているのか」
「しって、いる……なりたいのか?やめておけ、衝動これは、なかなか……っ、たのむ、もう」

 狩人は傷をつけた腕をそのまま、僭主の方へと差し出した。僭主は怯えているように見えた、混乱しているようにも見えた。

「飲め。眷属にはするな」
「ぅ……っ、どういう」

 僭主はなにか謀があると判断した。しかし差し出された血、長らく飲んでこなかった人の血を前にして、それを拒めるはずもなかった。死を前にした身体は、生存のためのわずかな希望をその甘露に見いだしてしまった。
 僭主はその腕をくわえる。そして傷口ににじむ血を一滴もこぼさぬよう、吸い付き、舌で舐めはじめる。

「ん……ぅ、ふ」

 その表情は恍惚としている。
 狩人は徐々に僭主が力を取り戻していくのを感じていた。足元の方から聞こえる異音、おそらく、折れた足が再生し始めている。少量でこれか、と狩人は思う。吸血鬼の再生能力をこうも間近でゆっくりと観察するのは初めてだった。

 傷口の血がもうほとんど止まる頃になっても、僭主は腕を離そうとしない。狩人が力を入れて引き離すと、その口は名残惜しそうに音を立て離れていった。ぁ、と小さな声がした。僭主は手を伸ばしていた。無意識だった。無意識に、血を求め手を伸ばしていたことに気づき、そして先ほどまでさらしていた痴態に気づき、僭主は歯を食いしばり目をそらす。

「は、はは……浅ましいさがだ。あぁ、花を愛で、庭を整え、この欲求から目を逸らそうとしてきたのに、結局、わたしは……っ。なにもかもが無くなった、今や矜持すら」

 周囲は明るさを増す。僭主のその白銀の髪の艶が、牙の白白とした鋭さが、瞳が、よく見えるように。

 狩人は布で腕を拭い、僭主の口元を拭った。得物を持ってくると、その背に負い直した。そして弱くなった火を蹴って散らし、潰せるだけ火種を潰す。

 行くのか、と僭主は思った。もう日は山のすぐ縁のところまで昇ってきていた。僭主は根源的な恐怖を感じていた。吸血鬼であるがゆえの抗いがたい恐怖、日の光、身を灼く死の光。

「あなたに、人の心があるならば。日の昇る前にどうか……殺してくれ」

 その背に負う、祝福を宿した刃でもって。

 狩人は僭主の目を見た。
 
 賢き獣の目を見てはならない、感情をもつ獲物の目を見てはならない。それはあなたに躊躇いをもたらす。狩人として、持つべきでないものだ。

 僭主は遠くを見ていた。その目には涙がにじんでいた。
 薄明、荒廃した庭の様子が明々あかあかと、まるですでに日の昇ってしまったように。

 狩人は僭主のそばに跪く。近くで見るそれはまるで精巧に作られた芸術作品のように
 
 吸血鬼狩りが活動するのは主に夜。昼に眠り、夜に動く、それは標的にあわせて変わらざるを得なかったからだ。吸血鬼狩りは非凡な力をもつ。それは吸血鬼という怪物に抗わねばならなかったからだ。吸血鬼狩りは忌避される。それは獲物を狩るその姿が、まるでまた別の化け物のように見えるからだ。

 僭主は人間的だった。少なくとも、狩人の知る限りでは。
 狩人は、自らの歩いたその後ろを振り返ってしまった。そこには善も悪も無い、灰と破壊の痕跡があるばかりだ。人間性の喪失。背筋がぞわりとする。背に負った刃が自らの首を切るような幻覚にみまわれる。
 どちらのほうが人だと言える。花を愛で古城に暮らす目の前のこれと、命令に従い殺すことしか能のない己と。


 狩人は僭主を抱え上げた。僭主は驚いたような声を上げる。日はもうすぐ背後にまで来ている。

「邪魔をした。庭を荒らしてすまなかった」

 狩人は古城の扉を開けると、中に僭主を放り込んだ。
 狩人には僭主と自らの失われかけた人間性とが重なって見えていた。

「また夜に来る」

 バタン、と閉まる扉。
 僭主は左手に焼けるような痛みを感じた。火傷のような跡。扉の閉まる前の一瞬、顔を出した朝日に灼かれた跡だった。




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